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改まる規律

 監査部の設置から十日が過ぎた。

 政務庁の空気は目に見えないところで変化し始めている。廊下を行き交う職員たちは、帳簿の取り扱いに慎重さを増し、各部門の報告にも緊張が走っていた。


 その朝、政務庁の北側書庫にて、一冊の帳簿が発見された。保存年限を過ぎた文書の中に紛れていたその記録は、昨年度の農業振興費のものだった。発見者は、監査部に新しく加わったばかりの若手職員だった。


 改竄にしては、出来の悪い帳簿だった。


 金額の修正は不自然な箇所で途切れ、使われたインクも当時の備品と異なる種類。署名はかすれた跡が残り、消そうとした形跡がかえって浮き上がっていた。年次の整合性も取れておらず、下手に並べられた言い訳のような訂正印が、かえって事態をあらわにしている。


 まるで、見つけられることを前提に仕組まれたような――そう感じるほどの粗雑さだった。


 アイリーンは机上に置かれた帳簿を静かに閉じた。


 証拠としての価値は十分だった。だが、あまりに安直すぎる。


 だが、今はそれを深く追う段ではなかった。必要なのは、“効果”だった。監査部が形だけの機関ではないと示すための、明確な成果。


「――見せしめとして、摘発しましょう」


 犯意の有無よりも、管理責任の所在を明確にする。それが、組織に警鐘を鳴らす最も確実な方法だった。


「関係者の選定は?」


「記録に名前のある担当官。確認書に署名が残っているわ。実行者かは不明でも、責任を問える位置にいたはずよ」


 アイリーンの声は淡々としていたが、その奥に揺るがぬ意志があった。


 フィアナが静かに頷く。


「処分の方針は?」


「一時的な停職と、監査対象としての再調査。処分理由には、“帳簿上の管理不備と職務上の注意義務違反”を明記して。――処分は重くするつもりはないわ」


「……了解しました」


「たったひとつの処分でも、“曖昧なままでは済まない”という空気が生まれる。それが、今の私たちには必要なの」


 フィアナの表情がわずかに引き締まった。個人の責任を明確にするという方針には、緊張も伴う。だがそれ以上に、組織にとって必要な判断だと、彼女もまた理解していた。







 数日後、処分の通達が政務庁内に回覧された。


 対象となったのは、帳簿の記録に名のあった若手の職員だった。入庁してまだ三年目。担当したのは一部の集計と確認作業のみで、決裁権は持っていなかった。それでも、記録に署名が残っていた。


 処分は軽微ではなかった。三十日の停職、監査付きでの職務復帰、そして所属部署の再配置。形式上は“管理不備への対処”という形だったが、実質的には組織への警告だった。


 若手職員たちの間には、一時的な緊張が走った。不安や戸惑い、そして小さな反発もあった。それでも、否応なく空気は変わっていく。


 書類の確認にかける時間が伸びた。押印の前に、もう一度目を通す習慣が広がる。小さなメモが添えられ、備考欄に日付が丁寧に書き加えられる。


 帳簿に名前を残すというのは、自分の判断に責任を持つということだった。

 たとえ内容を決めたのが他の誰かであっても、署名がある限り、その記録には本人の承認が伴う。


 若手の処分は、その事実を庁内に知らしめた。誰かを犠牲にするためではなく、組織として“見て見ぬふり”をやめるための通過点にすぎない。そう理解していた者は少なくなかった。


 以来、帳簿の余白には小さな注意書きが添えられるようになった。「確認済」「保留中」「再確認要」――ほんのわずかな文字の積み重ねが、庁内の記録に息を吹き込んでいく。


 アイリーンは、静かにその変化を見つめていた。


 制度というものは、一夜で完成するものではない。だが、ひとつでも変えられたなら、次もきっと動かせる。そう信じて進むしかなかった。


 責任とは、罰ではない。未来へ続く線を、正しく引くための覚悟だ。


 その思いが、ようやく庁内に芽生えつつあった。




 ◇




 昼下がりの執務室には、整理された帳簿と報告書が静かに積まれていた。


 月末を迎えた室内は、いつも以上に整然としていた。数字と結果が求められる時期――机上に並ぶのは、集計と収支、そして次月への布石となる諸資料。その全てが、積み重ねてきた業務の総括だった。


 ドアが軽くノックされ、応答を待たずに入ってきたのはロウだった。相変わらずの軽やかな足取りで、手には数枚の書類を持っている。


「アイリーン様! 財務の状況が、かなり良くなってきました!」


 ロウは明るい声で言いながら、手元の書類を差し出した。月次報告のまとめだった。


「今月の入庫も順調です。税収の滞りもありませんし、臨時の支出を補ってもなお余剰があります。予算配分の見直しが功を奏していますね」


「現場からの反応は?」


「概ね好評です。支出の根拠が明確になったことで、現場の理解も得られやすくなっています。報告の質も安定してきました」


 アイリーンは静かに頷き、受け取った書類に目を通す。数値の並びには、まだ微調整の余地はあるものの、流れは明らかに好転していた。


 アイリーンは静かに書類から目を上げると、部屋の隅で控えていたフィアナへと視線を向けた。


「フィアナ、貴方のおかげよ」


 フィアナは、相変わらず感情の読めない顔で「やるべきことをしたまでです」と答えた。けれど、少しだけ返事が早かった。

 気づかないふりをして、アイリーンは報告書に目を戻した。だが、ページをめくる手はどこか軽い。


「そう。あなたがそこにいてくれて、本当に助かっているわ」


 今度はフィアナが少し黙り、そして小さく、見えるか見えないかのうなずきをした。


「あなたのそういうところ、私は信頼しているのよ」


 アイリーンが穏やかに言うと、フィアナは目を伏せたまま、かすかに頷いた。


「……光栄です」


 その声音は変わらず低く控えめだったが、どこか、先ほどよりもあたたかみがあった。

 

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