水面下の疑念
窓の外、フェレグリードの空は淡く霞んでいた。春の光はまだ柔らかく、街の屋根の上をゆっくりと照らしていく。政務庁の屋根裏部屋では、今日もまた新たな一日が始まっていた。
アイリーンは、執務室の片隅に設けた簡易机に向かっていた。昨日の会議で決定した監査部設置について、具体的な配置案と業務手順の草案を整えている。
政務庁内部に、第三者の目を導入するという構想は、形式だけのものにすれば簡単だ。しかし、実質を伴うとなれば話は別だ。構成、運用、報告ルート、守秘規定――すべてが従来の枠組みに干渉し、反発を生むだろう。
筆を止めたアイリーンは、窓の外に目をやった。霞んだ空の向こうに見える塔の尖端が、春の光にかすかに滲んでいる。穏やかな景色だが、彼女の胸の内は静かではなかった。
――これは、やるべきこと。
監査部の設置は、単なる是正措置ではない。過去の膿を炙り出すことで、政務の信用そのものを取り戻すための一手だった。
扉が控えめに叩かれる。
「どうぞ」
入ってきたのは、フィアナだった。手には、封のされた文書の束。
「内部記録の確認が進みました。改竄が疑われる帳簿とは別に、未提出の支払伝票がいくつか見つかっています」
「提出すらされていなかったということ?」
「はい。会計処理の末端で止められていたようです。押印も、責任者の署名も抜けたまま。意図的か、単なる怠慢か……今の段階では判断できません」
フィアナは慎重な声で続ける。
「ただ、手口が雑になっている印象があります。過去と違い、“隠す”というより“放置していた”ような。人が減ったのか、管理する気そのものが失われていたのか……」
アイリーンは唇を引き結んだ。
「監査部の導入で、そうした放置や曖昧さも整理する必要があるわね」
「はい。作業としては煩雑になりますが、形にすれば庁全体の意識が変わるはずです」
その言葉に、アイリーンは微かに笑みを見せた。
「あなたのような人がいてくれて、本当に助かる」
「……お役に立てれば幸いです」
机の上に草案を広げ直すと、彼女はふたり分の椅子を引いた。
「フィアナさん、少し手伝って。草案の文面、あと一息でまとまりそうなの」
淡く差し込む光が、草案に広がるインクの文字を照らしていた。
フィアナは静かに頷き、椅子を引いて隣に腰を下ろした。彼女は草案に目を通すと、手早く一枚をめくり、筆を取る。
「項目の重複がいくつか見られます。『定期監査』と『抜き打ち監査』は、明確に分けた方がいいでしょう。頻度も定義した方が混乱が少ないかと」
「……そうね。『定期』は月次、『抜き打ち』は必要に応じてと明記しましょう」
定期監査には限界がある。人は、監視されていると分かっているときだけ、帳簿を整え、態度を正す。だが、抜き打ち監査は違う。日常の処理、そのままの姿を映し出す鏡となる。
どこかで誰かが見ている――その意識こそが、不正を抑止する力になる。報告のために取り繕ろうのではなく、日々の積み重ねの中にこそ、綻びがある。見せかけの体裁では見抜けないものが、そこにはあるのだ。
また、声を上げづらい立場にある者――末端の職員や新人たちにとって、監査は貴重な発言機会ともなり得る。日常のなかで埋もれた違和感が、制度の歪みを暴く糸口となることもあるのだ。
そのためには、監査を“恐れさせるもの”ではなく、“正しさを守る手段”として根付かせなければならなかった。職員たちが委縮するのでは意味がない。むしろ、自らの働きに誇りを持ち、真っ当に務めを果たしている者ほど安心できるような存在でなければならない。
フィアナは、そうした理念に基づき、報告体制や資料管理の規則を整え始めていた。各部署における記録の様式、提出の期限、そして調査の手順。それらを、現場の実情とすり合わせながら丁寧に組み上げていく。
二人の手元で、草案は徐々に形を成していく。
やがて、筆が止まる。
「……これで、ひと通りの骨組みは整いました」
「ありがとう、フィアナさん。後は内容の細部と、承認のための添付資料ね」
「資料の整備は、私が引き続き進めておきます。過去の処理帳簿と照らして、制度化の正当性を裏付ける文面も添えます」
几帳面な言葉に、アイリーンは小さく息を吐く。
気づけば、午後になっていた。
陽射しは角度を変え、窓辺の帳簿に長い影を落としている。朝の冷たさは和らぎ、部屋の空気はわずかに緩んでいた。
けれど、書き上げた草案の束があるように、やるべきことはまだ多くある。
アイリーンは、もう一度椅子に腰を下ろし、そっとペンを取り上げた。




