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監査部の創設

 政務庁の執務室に、かすかな紙の擦れる音だけが響いていた。


 春の気配は日ごとに濃くなりつつあったが、建物の中はまだ肌寒い。窓辺には一枚の厚手の布が掛けられたままで、柔らかな朝日をわずかに遮っている。


 アイリーンは、机上に広げた帳簿を一冊ずつ手に取り、内容を丹念に追っていた。先日、フィアナが明らかにした不正の兆候。それは単なる一例ではなく、組織そのものが抱える構造的な問題を示していた。


 無数の書類があるにもかかわらず、誰が責任を持っていたのかを示す印も署名も曖昧で、あるいは故意に消されていた。政務庁が本来果たすべき“管理”の役割は、長く形だけのものになっていたのだ。


 扉を控えめに叩く音がした。


「アイリーン様、よろしいでしょうか」


 声の主はフィアナだった。


「ええ、入って」


 フィアナは、手に新たな報告書を抱えていた。その中から数枚を抜き取り、机の上に置く。


「不正処理の疑いがある文書を、さらに七件確認しました。いずれも三~五年前のものです。帳簿の改竄、架空発注、未納品支払い。書式は統一されておらず、関係部門もばらばらです」


「つまり、偶発的な不手際ではなく、習慣的なものだった可能性が高いのね」


「はい。悪意ある者がいたというより、“誰も管理していなかった”状況の方が近いかと」


 アイリーンは、報告書の一枚に指先を滑らせながら、短く息を吐いた。


「ここまで露骨なら、本来なら外部の調査機関を呼ぶべきなのでしょうけど……」


 思案の末、彼女は椅子から立ち上がった。


「……監査部を設置するわ。臨時ではなく、常設の部署として。今後は、財務と記録全般を第三者視点で定期的に見直す体制が必要よ」


 フィアナがわずかに目を見開いた。


「監査部、ですか?」


「ええ。調査の結果に関係なく、今のままでは同じことが繰り返される。監査機能が組織の内部にあるだけで、不正は抑制できるものよ。少なくとも、わたしが去ったあとも、そうなるように」


「……理解しました。私であれば、引き受けます」


「心強いわ。設立まではあなたが事実上の責任者。適任者が育つまでは兼任でお願いすることになるけれど、よろしいかしら?」


 フィアナは一拍だけ間を置き、静かに頷いた。


「承知しました。では、すぐに人選と報告の様式を整えます」


「お願い。――それと、関係者の記録は慎重に。今はまだ誰にも知らせなくていいわ。途中で情報が洩れれば、証拠そのものが消されかねないわ」


 アイリーンの声に、一瞬だけ室内の空気が張り詰める。


「了解しました。記録は私の手元で保管します。内容の確認も、私とアイリーン様以外には開示しません」


 そう答えたフィアナの横顔には、緊張と共にわずかな決意が宿っていた。


 責任の重さを理解しながらも、彼女はそれを拒まなかった。それが、職務であれ、信義であれ――彼女なりの矜持が、そこにあった。


「監査部って、具体的にはどういうふうに動くんですか?」


 不意に声がして、二人が振り返ると、扉の隙間からロウが顔をのぞかせていた。どうやら廊下を通りかかり、会話の一部を耳にしたらしい。


「気になって仕方なくて。……入ってもいいですか?」


「いいわ。ちょうど説明しようと思っていたところよ」


 アイリーンは軽く頷くと、机に置いた報告書を一つ手に取った。


「監査部は、政務庁内の各部署に対して、定期的に業務と財務の確認を行う独立部署よ。会計の記録、物資の出入り、契約や支払い――それらが“正しく行われているか"を、他の部門とは違う視点から調べるの」


「つまり……間違いやごまかしがないか、見張るってことですか?」


「ええ。でも“見張る”だけじゃないわ。改善すべき点を見つけて、どう直すべきかも示す。罰するのが目的じゃなくて、正しく進めるための補助線のようなものね」


 ロウは腕を組みながら、ふむと唸った。


「誰でも間違いはあるし……たしかに、誰かがちゃんと見てるってだけでも気が引き締まりますよね」


「そういうことよ。誠実に働いてる人たちを守るための部署でもあるわ」


 アイリーンは言葉に柔らかさを加えながら、ふっと微笑んだ。


「それに、あくまで“第三者の視点”が必要なの。同じ部署の中だけだと、どうしても甘くなるし、見逃されることもある。だからこそ、監査部は独立していなければならない」


「……フィアナさんがその責任者って、なんか納得です」


 ロウの言葉に、フィアナは目を伏せ、静かに一礼した。


「過分なお言葉です。任に恥じぬよう努めます」


 新たな部署の誕生に、まだ庁内は静かなままだ。しかし、その小さな動きが、いずれこの街の形を変えていく礎になることを、アイリーンは確かに信じていた。

 

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