アイリーン、辺境に立つ
船は静かに波を切っていた。
早朝の光が水面を照らし、遠くに小さな港町の影が浮かび上がってくる。
フェレグリード。かつて王国の交易拠点として開発されたこの地は、今や半ば独立した形で存在している。
表向きは属領、だが実質は、王都から見放された辺境。
初めて見るその町は、思っていたよりも粗雑だった。
港の桟橋は木造で、ところどころ補修の跡が目立つ。
波止場には荷の残骸が散らばり、道はぬかるんでいた。
それでも朝の空気の中には、どこか乾いた自由の匂いがあった。
アイリーンは、誰にも手を借りずに荷をまとめ、ゆっくりと船を降りた。
迎えは一人だけだった。
制服らしき簡素な上着を着た少年が、ぎこちなく立っている。
「アスナルク様……で、いらっしゃいますか?」
年は十代半ば、表情にあどけなさが残る。
礼の仕方も拙く、緊張しているのが一目で分かった。
「ええ、そうよ。あなたが案内の方?」
「は、はいっ!ロウと申します。政務庁の記録補助で……えっと、案内を申しつかっております!」
言いながら、彼は慌てて胸に手を当てて頭を下げた。
王都では考えられない不手際だが、アイリーンは苦笑すら浮かべなかった。
この地には、そういう「文化」そのものがまだ根付いていないのだ。
「ありがとう。では、案内をお願いするわ」
「は、はいっ!馬車を――いちおう、ご用意してますので……」
港の片隅に、小さな馬車が停められていた。
車体は古く、窓も曇っていたが、意外にも中は綺麗に拭きあげられていた。
揺れの大きい道を、ロウの操る馬車は慎重に進んでいく。
街に入ると、家々は石と木が入り混じり、建設途中のような建物も多い。
王都にあったような整然とした区画も、清掃された石畳も、ここにはなかった。
けれど、そこに生きる人々は皆、何かを求める目をしていた。
数年後には、大国と肩を並べる自治国となる――
そう信じる者たちが、未完成な町の隅で、今日をつくっている。
「政務庁、こちらになります……!」
ロウが声を上げた。
馬車が止まった先にあったのは、二階建ての石造りの建物。
だが扉の取っ手は錆び、窓は割れたまま仮板で塞がれていた。
その前に、数名の若者たちが整列していた。
「お迎えにあがりました、アスナルク様!」
彼らは、皆、十代後半から二十代前半に見えた。
揃いの灰色の制服がかろうじて役所の職員らしさを与えていたが、その目には明らかな緊張が浮かんでいる。
しかし、誰ひとりとして目を逸らさなかった。
「よろしくお願いいたします!」
一人がやや声を裏返しながら叫び、頭を下げた。
続いて他の者たちも、それに倣うように礼を取った。
未熟だった。経験も、知識も、態度も、王都の官僚たちには遠く及ばない。
けれど、彼らは逃げなかった。
アイリーンは、静かに一礼を返す。
その背筋に、戸惑いはない。
「案内してもらえるかしら。執務室へ」
「え……えっと、いま、まだその……書類が散らかってまして……!」
「気にしないわ。状況を見ておきたいの」
少し狼狽する若者たちの先導で、彼女は政務庁へと足を踏み入れた。
内部は、想像以上に荒れていた。
文書は棚ごと傾き、机の脚は欠け、記録簿は分類もされずに積まれている。
にもかかわらず、壁には綺麗に布がかけられており、床も丁寧に掃除されていた。
乱雑な空間の中に、不器用な整頓の跡があった。
どうにもならない部分を覆い隠し、せめて迎える側としての礼を尽くそうとした形跡――その努力が、言葉以上に胸に響いた。
アイリーンはしばし周囲を見渡したあと、微かに口元を緩めた。
「……頑張っていたのね」
誰にというわけではない。
この場に関わったすべての者への、小さな称賛だった。
アイリーンは軽く頷いてから、全員を見渡す。
「まずは、この環境を整えましょう。数日は、掃除と整理に集中するのがよさそうね。机も棚も、安定しないままでは仕事にならないわ」
「は、はいっ!」
「あと……職員の名簿や配置表は?」
「そ、それが……一応、あるにはあるんですが、更新されてなくて……名前と顔が合わない人もいて……」
「分かったわ。では、そちらも合わせて整理していきましょう。職員の名簿、所属、職責――そして、現在の政治と財務の状況。それらを把握するための基礎資料を集めてくれる人をひとり、お願いできるかしら」
ロウは一瞬、考えるように眉を寄せたが、すぐに手を上げる。
「あ、あの……フィアナさんが、そういうの得意だと思います! 前に帳簿をまとめてくれてて、字も綺麗で……」
「フィアナさん、ね。できれば、今ここに呼んでもらえるかしら?」
「はいっ、すぐに!」
ロウが元気よく駆け出していく。その後ろ姿を見送りながら、アイリーンはふっと息を吐いた。
――ひとつずつ、手をつけていけばいい。時間はかかっても、きっと形になる。
そう思った時、胸の奥に、ほんのわずかな光が灯った気がした。