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霧の港にて

 王都の外れにある港は、深い朝靄に包まれていた。


 空は低く灰色に沈み、海の向こうから届く風が、冬の名残を運んでくる。


 石畳の埠頭には誰の足跡もなく、閑散としていた。


 アイリーンは、その埠頭の先端に一人立っていた。


 彼女の足元には、小さな荷が置かれている。

 必要最低限の書類と替えの衣服、それにアスナルク家の紋章が刻まれた銀製の印章が一つ。


 その全てを詰め込んでも、小型の鞄に収まってしまう。


 けれど彼女は何も惜しまなかった。過去を背負いすぎれば、新しい場所へは進めないからだ。


 潮の香りと、海の冷気。

 それらは、王都での日々とはまったく違う世界を予感させていた。


 やがて背後から、靴音が近づいてくる。


「……来るとは思わなかったわ」


 アイリーンが振り返ることなく告げると、聞き慣れた声が返る。


「最後まで見届けるのが、私の務めでしょ!」


 栗色の髪をなびかせてやって来たのは、エイリーだった。


 外套を羽織った彼女は、寒風の中でも表情を崩さなかった。


「船は予定通りよ。もうすぐ来るわ」


「ええ。あなたには、本当にお世話になったわ」


 感謝の言葉は控えめだったが、胸の奥に積もった想いは言葉以上に深かった。

 それを察してか、エイリーは懐から一枚の新聞を取り出す。


「こちらこそ。でも、感謝ならこれを読んでからでも遅くないわ」


 差し出された紙面には、大きな活字が躍っていた。


 《南部諸派連合、軍備増強か。我が国との衝突不可避の見方広がる》


 アイリーンは無言のまま、端から目を走らせる。

 予想していたとはいえ、こうも早く情勢が動くとは思わなかった。


「……動いたのね」


「ええ。軍部は既成事実を積み上げに入ってる。外交筋は火消しに必死だけど、恐らくもう止まらないわね」


 静かに、事実だけが突きつけられる。

 だがアイリーンの手は、紙面を畳むとき一度も震えなかった。


「私の出国も、引き延ばせなかった理由がよく分かったわ」


「派閥の中には、“まだ甘い”って言い出す連中もいるからね。貴族の責任をどう取らせるかで揉めてる」


「皮肉ね。国外に出る方が、安全なんて」


「そうね、ちょっと笑っちゃったわ」


 そう言って、エイリーは肩をすくめるように笑った。


 けれどその表情には、いつもの軽快さと違う、微かに張り詰めた空気が滲んでいた。


 彼女は言葉の調子を崩さない。冗談のように振る舞うのが癖になっているのだ。


 けれど、アイリーンにはわかっていた。その笑いが、別れを飲み込むためのものだということを。


 波音が近づく。靄の向こうに、黒く長い船影がゆっくりと姿を現す。


「ねえ、念のため言っておくけど……もし戦争になったら、こっちの避難先はフェレグリードになるわよ」


「現地に着いたばかりの亡命者に、あまり期待しないで」


「冗談じゃないわ。あなたがいれば半年で体制を整えられる。こっちの誰よりも、信頼できるもの」


 エイリーの言葉には、揺るぎのない確信が宿っていた。


 アイリーンはそれに応えるように、わずかに頷いた。


「期待には、応えてみせる」


 船が桟橋に横付けされ、乗船を促す声が響く。

 乗組員たちが淡々と準備を進め、タラップが下ろされた。


 アイリーンは鞄を手に取り、背筋を伸ばして歩き出す。

 その足取りに、もはや迷いはなかった。


「……じゃあ、行ってくるわ」


「気をつけてね」


 振り返らずに、小さく手を上げて応える。

 タラップを上るその背中には、確かな意思が宿っていた。


 彼女の乗った船は、音もなく港を離れた。


 霧の中を進みながら、ゆっくりと王都の風景を遠ざけていく。


 甲板の上に立つと、冷たい海風が頬を撫でた。

 春の訪れを予感させるその風に、かつての王宮の煌びやかな香りはなかった。


 遠ざかる港の影は、もう霧の向こうに消えていた。


 王都での年月も、人々の顔も、今はただ遠く淡い記憶のように思えた。


 振り返る理由はなかった。誠実も忠義も捨てられた場所に、未練など残していない。


 ここから先は、自分で選び、自分で築いていく道であると。


 冷たい潮風が、頬をかすめる。


 ――これは終わりではない。

 新たな人生の始まりだった。

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