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【連載版】捨てられ令嬢は、今さら亡命してくる元婚約者を門前払いします  作者: 入多麗夜


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最後の休憩地点

 谷を越えて、山の影へと入る頃には、出立からすでに三日が経過していた。


 濃い霧が尾根のあいだから立ち昇り、空は朝から重く曇っていた。岩肌を伝うようにして敷かれた山道は、ところどころ崩落の跡があり、馬車の通行には細心の注意が必要だった。


 標高は徐々に上がり、空気は薄く、肌に触れる風も冷たさを増していた。隊列は山あいの斜面に沿って、ゆっくりと蛇のように進んでいく。斥候が先行し、副官が間隔の調整を指示しながら歩を進めていた。


「今日中に村の手前に到達できる見込みです。ですが、日没にはかかるかと」


 副官が馬を寄せて、アイリーンに報告した。彼女は静かに頷き、地図の上に視線を落とす。


「地勢を考えれば、日が沈む前に宿営地を確保しておきたいわね。周囲に目立った開け地は?」


「この先の鞍部に小さな空き地があります。崖に囲まれており、風除けにはなりますが、視界は悪くなります」


「なら、今のうちに警戒を強めておきましょう。先行班の動きに変化は?」


「最後の報告は昨日の夕刻。異常なしとのことでしたが……今朝は、まだ応答がありません」


 アイリーンは眉を寄せた。連絡の空白。それ自体が、ささいで済むとは限らない。


「接触を避けて移動している可能性もあるわね。引き続き監視を強化して」


「了解しました」


 そういい、副官は後方へと戻っていった。


 空の灰色は深まる一方で、陽の気配はどこにも感じられなかった。頭上には濃い雲が広がり、時折、遠くの尾根から風が唸るように吹き下ろしてくる。その音は、谷間の木々にぶつかりながら、隊列の耳元を通り抜けていく。


 午前のうちに三度、行軍は停止した。ひとつは荷馬車の後輪に泥が詰まったため。ふたつめは前方の斜面に小規模な落石があったため。そして、三度目は補給馬が片脚を挫きかけたからだった。


 どれも大事には至らなかったが、兵たちの動きからはわずかな疲労と焦燥が見て取れた。山道という制約のなかで、警戒と移動を両立させるのは容易ではない。


 隊列の中ほどでは、補佐官が記録をつけながら歩いていた。路面状況、通過時刻、馬の負傷有無、兵士の疲労度など、簡易な符号と共に素早く筆を走らせていく。


 補佐官の書き込む紙片は風に揺れ、その隣では副官が地形図と睨み合っていた。斥候からの情報を元に、次の停止地点までの距離を見極めている。


「次の屈曲部まで二百メートル。斜度がきつい分、足場は安定しているはずですが、荷馬車には慎重な誘導が必要です」


 副官の報告に、アイリーンは頷いた。


 隊列が再び動き始める。坂道の傾斜は強く、踏み締めた足音が土を削る音に混ざって、周囲に静かに響いた。落石を防ぐため、兵たちは歩幅を狭め、馬は側溝沿いに寄せられて誘導される。


 空気は依然として冷たく、風が吹けば頬を刺すようだった。だが兵たちは誰一人文句を言わず、それぞれの配置で視線を鋭く走らせていた。中には足取りが重くなった者もいたが、列から遅れることはなかった。


 副官が指示を飛ばし、若い斥候がふたり、軽い身のこなしで小道を駆け上がっていく。背負った小弓と短剣が、動きに合わせてわずかに揺れていた。


 その間に荷馬車が難所を通過する。後輪が土に沈みかけ、副官と兵たちが即座に支えに回った。数人が肩を押し、馬の鞍を引いてバランスを取る。馬は前脚をふんばり、鼻を鳴らしながらも超えていった。


「よし、そのまま……抜けた!」


 副官の合図とともに、馬車はついに坂のてっぺんに達した。兵たちが小さく安堵の息をつく。


 空き地は、もうすぐそこだ。


 尾根の先に、わずかに開けた地形が広がっているのが見えた。山の斜面に挟まれるようにして存在する、小さな岩地。木々が風を防ぐ形に並び、斜面側には崩落を防ぐ岩壁がそびえていた。


 副官の指示で、隊列は再びゆっくりと動き出した。荷馬車を先頭に、兵たちが周囲を囲むようにして進む。岩場を抜け、最後の傾斜を下る頃には、陽の光がすでに尾根の向こうに沈みかけていた。


 そして数時間後――


 空き地にたどり着いたのは、空が赤く染まり始めた頃だった。山の稜線をかすめるように陽が傾き、木々の影が長く尾を引いている。さきほどまで曇っていた空も、いまは薄く晴れ間を覗かせていたが、湿った冷気が足元からじわじわと這い寄ってくる。


「ここを宿営地にします」


 アイリーンが短く指示すると、副官と兵たちがすぐさま配置に動いた。荷馬車は中央に寄せて輪を作り、四方を囲むようにして馬をつなぐ。地面は岩と苔に覆われていたが、水はけがよく、ぬかるみの心配はなさそうだった。


 斥候が周囲の見張りに散り、副官は休息班と警戒班の交代時間を決めていく。焚き火の準備が始まり、干し薪と油布が手早く運ばれる。やがて火が灯り、ぱちぱちと小さな音を立てながら、橙の光が周囲にじんわりと広がっていく。


「標高のせいで気温が下がりやすい。各自、防寒を怠らないように」


 副官の声が静かに響いた。


 アイリーンは荷馬車の横に腰を下ろし、持参した地図を膝の上に広げた。指先でなぞるのは、目的地となる村の外縁――明朝にはそこへ到達するはずの地点だ。


 焚き火の炎がちらちらと揺れ、風に乗って白い煙が昇っていく。遠くの山影は、すでに霧で輪郭がぼやけていた。


 夕食は簡素なものだった。乾燥した麦のスープに、塩気のある硬いパン。それでも温かい湯が添えられるだけで、兵たちの顔にはわずかながら緊張の糸が緩んでいく。


 食後、アイリーンは火のそばに移動し、少しだけ目を閉じた。まどろむことはない。ただ、呼吸を整え、思考を整理していた。


 やがて、夜が山を包む。


 木々が風にざわめき、ときおり小動物の走る音が聞こえた。だが、それ以外に異音はない。静かすぎるほどの夜だった。


 火番の兵が、交代の時間を告げに現れる。


「アイリーン様、見張りは順調です。交代も滞りなく」


「ありがとう。無理はさせないで。山の夜は冷えるから」


 小さく微笑んでそう言った彼女の目は、再び暗闇の向こう――明日へと向けられていた。


 しかし、誰も知らなかった。


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