視察の日
出立の朝は、驚くほど静かだった。
庁舎の東側通路にはまだ人影もまばらで、曇りがちな空の下、空気はひやりと肌を刺すように冷たい。だが、その張り詰めた空気は、むしろこれから向かう先を思えば自然に感じられた。
アイリーンは、すでに旅装のまま応接室にいた。軽装ながら、防塵用の上着と長靴に身を包み、髪も動きやすいよう後ろで結っている。
「荷の積み込み、完了しています。補給物資と予備の食料、水筒も全て確認済みです」
フィアナが手早く報告を終えると、アイリーンは短く頷いた。
アイリーンの問いに、フィアナはすぐさま手元の帳面をめくる。
「正規兵六名、州警備隊より四名。それに補佐官付きで、副官が一名同行。構成は、先行斥候二名、中間防衛四名、後衛四名で調整済みです」
「問題ないわね」
無駄のない配置。だが、どれほど綿密に準備しても、現地で想定外が起こるのが常だ。アイリーンはそれを誰よりも理解していた。
「例の村、現地からの応答は?」
フィアナは一瞬ためらい、帳面を閉じるようにして答えた。
「……最後の応答は、三日前。以降、定時連絡は一切なしです」
情報遮断、あるいは外部との接触を拒む意図的な行動。どちらにせよ、通常の行政区ではあり得ない対応だった。
アイリーンは椅子を離れ、応接室の壁に掛けられた地図へと歩み寄った。視線を走らせながら、指で例の村の位置をなぞる。その周囲は山地に囲まれ、主要街道からも外れた辺境だ。
「……地勢としては、孤立に適しているわね」
アイリーンは地図を見つめたまま、低く呟いた。
「先行班は?」
背後から問われたフィアナは即答する。
「すでに出発済みです。現地周辺に到達するのは正午前後の見込みです。接触は避けるようにと指示しました」
「いい判断ね」
その言葉を最後に、応接室の扉を軽く叩く音が響いた。
「アイリーン様、準備ができました」
扉の向こうから聞こえたのは、護衛隊の副官の声だった。
アイリーンは一拍置いてから返事をした。
「すぐ行くわ」
振り返った彼女に、フィアナが最後の確認を促す。
「ルートは郡道十四号線から。途中、給水地を一度挟みます。最短ですが、地形が悪い箇所がいくつかあります。馬車の速度は抑えめに」
「分かってる」
アイリーンは手袋をはめ直し、腰の書類鞄を確認する。最低限の装備。無駄なものは何一つ持たない。それが彼女のやり方だった。
フィアナが先に扉を開け、護衛副官がすかさず敬礼をとる。すでに中庭には、出発準備を終えた一行の姿が見えていた。荷馬車一台に騎馬隊、警備兵たちが整列を完了している。
今回、ロウとフィアナは共に留守を預かる立場にまわっていた。一度に複数の重役が前線を離れることは避けるべき――それが庁舎内の総意でもあり、アイリーン自身の判断でもある。
「くれぐれも慎重に。報告は定時でお願いします」
そう言ってフィアナは、無意識に書類鞄へ視線を落とした。すでに何度も確認したはずなのに、気が抜けないのが彼女らしい。
「任せるわ。あなたとロウがいるなら、州政務は問題ないでしょう」
アイリーンは軽く微笑み、馬の前へと進んだ。副官が手綱を整え、すぐに騎乗を補助する態勢を取る。
そして一同が彼女の動きに合わせて整列するなか、中庭の空気に緊張が走る。
遠くで鐘がひとつ、静かに鳴った。午前六時の合図だった。




