治安問題
議会が解散して、すでに三日が過ぎていた。
だが、その余波は今もなお、各地の政庁を揺るがしていた。
──合同治安協定、一時履行留保。
ハーヴェル州代表の宣言は、事実上の“共闘拒否”であり、あの場で投じられた反対票すべてに対する無言の報復だった。
各州は戸惑っていた。対応に悩み、密かに打ち合わせを繰り返し、あるいは水面下で本国と連絡を取り合っていた。
アイリーンは、政務庁の応接室で一人、地図を見つめていた。
フェレグリード州の地勢は複雑だった。海岸部は交易で活気づいているが、内陸部には未整備の集落が点在し、かつての盗賊団や密輸の痕跡が色濃く残っている。
──その治安を、ようやく安定させていたのは、ハーヴェル州をはじめとした“外部支援”による武装部隊だった。
「……現在、治安維持部隊に従事している者のうち、およそ四割がハーヴェル州出身。エルトワーズ、ガランを加えれば、六割に達します」
フィアナの冷静な声が、室内に響く。
「彼らが一斉に帰還となれば、治安体制は機能不全に陥ります。特に国境沿いと沿岸の貿易路……空白が生まれれば、反体制派が動く可能性も」
アイリーンは地図に視線を落としたまま、微かに唇を引き結ぶ。
「……たった三日で、これほどまでに“脆さ”が露呈するとは思わなかった」
「逆に言えば、それだけ他州に“依存”していたということです」
フィアナの言葉は厳しいが、事実だった。
アイリーンの脳裏に、幾つもの顔がよぎる。配備された警備兵の中には、彼女が直接面談し、他州から赴任を願い出た者もいた。若く、志を抱き、遠地での奉仕に誇りを持っていた者たちだった。
王都では安定した任地も選べただろうに、それでも辺境に身を置くことを望んだ。
国境の緊張や治安の不安定さを知った上で、それでも「必要とされる場所へ」と口にした若者たち。
――その誇りが、いま、政争の犠牲にされようとしている。
「……フィアナ」
アイリーンは、静かに声を発した。
「現場の部隊に通達を。正式な指示があるまでは、従来通りの治安任務を継続してもらうように」
フィアナはすぐに頷いたが、続けて慎重に問う。
「もし、全員の強制召還命令が出された場合は?」
「……ならば、これを前倒しで動かすしかないわね」
地図の端を押さえながら、アイリーンは低く告げた。
その指先が触れていたのは、フェレグリードから遠く離れた内陸の集落群――未整備の交易路と、点在する小規模な拠点。いずれも今の治安部隊が撤退すれば、即座に混乱の兆しが出る危険な地域だった。
アイリーンは机の引き出しから、一枚の書類を取り出す。
《内陸部における人員確保計画》
アイリーンの視線は、その中央にある一文に留まる。
――外部兵力の撤収に伴い、対象地域より適正人員を抽出、巡回・通信補助任務に再配置すること
「……内陸部から、人を出してもらうしかないわね」
その言葉に、フィアナが頷いた。
「ええ。現状、州外出身者に頼り切っていた治安体制は、もはや維持できません。依存を断ち、自州の人材で回すしか」
アイリーンは迷いのない声で続けた。
「対象は16歳から40歳まで。村ごとの推薦枠を設定して、郡庁に割り振りを出して。拒絶されぬよう、各地の名士に事前の打診もお願いして」
「了解しました。任用形態は?」
「政務庁契約の地域補助官。正式な兵士ではなく、地域巡回要員として。任期は三か月単位、有償支給。制度に反しないよう、記述は行政補助枠で通して」
「すぐに準備に入ります。民間からの徴用、とは表現せず、“地域協力”という形にします」
「それと、住民の内陸部への移住も推進させて。人口が集中している沿岸部や中部都市から、各郡の空き居住地に振り分ける。――実質的な人員補填よ」
「移住計画ですか……。過去にも一度試みられましたが、定着率は芳しくありませんでした。今のような情勢下で、住民が従うでしょうか?」
「補助金を出せばいいわ。初期の住居整備費、それに生活基盤の支援。家族単位の移住には、子ども一人あたりの学資支援もつけて」
「……それだけの予算が、今の州に?」
「できるわ。――監査部の報告で財政は見直された。これまで幽霊事業に費やされていた支出が整理されたおかげで、流動資金が確保できている。やるなら今よ」
フィアナは驚いたように目を見開いた。
「そこまで……計算のうえで?」
「違う。監査部が有能だっただけ。私はただ、その恩恵を使うだけよ」
静かな声でそう言いながら、アイリーンは新たな指示を次々に下す。
「地域ごとに“重点移住区域”を定めて、そこ軸に内陸部を発展させていくつもりよ」
「移住者への周辺住民の反発も想定すべきです。特に既存集落との摩擦が……」
「わかってる。だからこそ、“地域協力要員”という建前が効くのよ。単なる移住者じゃない、“治安と地域運営の支援を担う者”として迎え入れさせる。実態がどうなのかは今後の調査次第わね」
その言葉に、フィアナの眉が跳ねた。
「……アイリーン様、まさかご自身で内陸部に出向かれるおつもりですか?」
「そうよ」
「危険です! 今、州代表がそのような場所へ赴くなど――」
「だからこそ、行くのよ」
アイリーンは、迷いのない目で応じた。
「私はここから命令を出しているだけの“役職”じゃない。現場がどうなっているのか、自分の目で見なければ判断も責任も持てないわ」
「しかし……警備も不十分です。もし何かあれば――」
「なら、警備を整えて。最低限でいいわ。大勢で動けば、それこそ逆効果よ」
フィアナはしばらく沈黙し、そののち静かに口を開いた。
「……わかりました。準備を整えます。ただし、滞在は短く、危険が迫れば即時撤収の段取りを」
「ええ。交渉に行くのではなく、“顔を見せに行く”だけ。それだけでも、違うわ」
地図に記された内陸の村へ、そっと指を伸ばしながら、アイリーンは呟いた。




