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救いは、友の手から

 高等文館の書架は、いつ訪れても静かだった。


 王都の中心に位置するこの学び舎は、政務に携わる貴族子弟たちが研鑽を積む場であり、同時に王政に仕える者たちにとっての知の拠点でもあった。


 アイリーンは、その学び舎の片隅にひとり座っていた。


 すでに彼女は、卒業して久しい。

 今さら得るべき学位もなく、資格も役職も持たない。

 それでも――ただそこにいることは、許されていた。


 目の前の分厚い冊子には「西部辺境交易路における関税改革案」と書かれていたが、アイリーンは内容を追っていたわけではなかった。


 指先でページをなぞりながら、彼女の思考は別の場所にあった。

 それは、一族の未来――アスナルク家の行く末について。


 婚約破棄を境に、家は静かに王政の中枢から退いた。叔父は政務庁を辞し、従兄は地方へ異動し、今や中央に名を連ねる者は数えるほどしかいない。


 誇り高く、才を重ねてきた家が、声も上げられぬまま後ろに退かされていく。理不尽であると理解しても、それを嘆く暇すら与えられない現実。


 ――自分に、何ができたのだろう。


 もし自分がもっと従順で、もっと感情的で、もっと“都合のいい婚約者”だったら。

 少なくとも家だけは、ここまで傷つかずに済んだのではないか――そんな思いが、ふと胸をよぎる。


 それが、自己弁護なのか、誇りなのか、自分でも判然としなかった。


 アイリーンは視線を落とし、手の中の書物を閉じる。指先がわずかに震えていることに気づき、そっと膝の上で組み直す。


「……やっぱり、ここにいた」


 そう呟いたのは、栗色の髪を軽くまとめた女エイリー・ノアだった。

 かつて共に机を並べ、学び、語り合った親友。

 今では王都を離れ、異国で外交の任に就いていると聞いていた。


「珍しいわね、あなたがこの文館に来るなんて」


 アイリーンがそう言うと、エイリーは肩をすくめた。


「当たり前じゃん、何年の付き合いだと思っているの私達」


 そう言ってエイリーは、懐かしさと共に笑った。


「……ここに来るって事は、何か言いに来たのでしょう?」


「察しがいいね、アイリーン。さすが“天才一族”の看板娘」


 エイリーは背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐに向けた。


「じゃあ、単刀直入に聞くよ。――今回のアスナルク家の処遇、どこに任されたと思う?」


 唐突な問いに、アイリーンは眉をひそめる。


「処遇……? まさか、それがあなたの……」


「そう。アスナルクの処遇は、うち――ノア家に任されたの」


 アイリーンは黙ったまま、エイリーを見つめた。


「“最も穏やかに整理できる家系”って。言い方は綺麗だった。でも実際は、“反発されずに片づけられる相手に任せたい”ってことよ」


 いわゆる死体処理班のような雑用処理だった。如何に事を荒立てないか、それだけが求められていた。


「うちの家も、アスナルクからお世話になっているのもあって、本音では関わりたくなかったんだよね」


 エイリーは、ため息まじりに続けた。


「中には“見せしめに死刑にすべき”なんて言い出す過激派もいた。本当にありえない話だけどね」


「……あなた、まさか慰めに来たわけじゃないでしょうね」


「違うわ。慰めるつもりなら、お菓子でも焼いてきてるわ。今日は、もっと現実的な話をしに来たの」


 エイリーは鞄の中から一枚の書状を取り出し、机の上に置いた。


 厚手の羊皮紙に、見慣れない封蝋が押されている。


「フェレグリード。海の向こうにある新興国よ。いま、そこで私は外交顧問をしてるの」


 アイリーンは視線を落とし、書状を無言で見つめた。


「その国の政務が、完全に止まってる。法も組織も、人も足りない。だから、重役として、あなた達を迎えたいって正式に依頼されたのよ」


 フェレグリード――王国の交易政策の一環として、数十年前に開発された沿岸地域である。


 表向きは王国の属国として扱われており、現在も形式上の主権は王家に属している。


 だが、現実には統治の手はほとんど届いていなかった。


 王都から派遣された総督府はあるものの、名目ばかりで、実質的な行政は現地の有力商人や自衛組織が担っている状態だった。

 住民の多くは、王都を「遠すぎる中心」と見なし、内心では独立国家のような意識を抱いていた。


 とはいえ正式な独立を宣言すれば、王国との交易関係は断たれる。


 そこで、名目上は属国のまま、実質的な自立を進めるという奇妙なバランスの上に成り立っていた。


 当然ながら、法も官制も不完全で、政務を動かせる人材はほとんどいない。

 外交関係の整備もままならず、各地で利権をめぐる小競り合いが絶えなかった。


  そうした中、王国の官僚経験者を重役として迎える動きが強まっている。


 風潮には縛られず、それでいて制度を設計できる才覚と実務経験を持つ者――


 その条件に最も合致した人材として、推薦されたのがアスナルク家だった。


  政争の余波で王国から煙たがられたとはいえ、その実績と系譜は疑いようがなかった。


 フェレグリードの側にとっても、アスナルク家は政治色が最も薄い存在だった。


 特定の派閥に属さず、軍権とも縁が薄く、王家とも距離を置いてきたが故に、他国にとっては中立的で扱いやすいと映ったのだ。


 加えて、今や王政から外れたことで、王国側の意向を背負わずに動ける立場にある。


 信頼と技術はあって、欲がない。


 それは、制度を一から築こうとする新興国家にとって、理想的な条件だった。


 こうして、正式な招聘が送られた。

 アスナルク家に――そして、今そこにいる、アイリーンに。


 アイリーンは書状から視線を上げなかった。


 重い沈黙の中、机の上の羊皮紙だけが、目の前にあった。


「……これは、私個人への依頼ではなく、家としての招聘?」


 アイリーンの問いにエイリーは頷いた。


「ええ、そうよ。今回の件で職を外された者、全員に送ってるわ。アスナルクの名で政に携わっていた人たちに、平等に」


 そして少しだけ口元を緩める。


「でも、あなたには一足早く届けた。最初に話すべき相手だと思ってたから」


 アイリーンは黙っていた。


 それが、感情を整理するためなのか、言葉を選んでいるのか、自分でもわからなかった。


 机の上にある封書は、ただの書状ではなかった。

 失われた立場の代わりに差し出された、新しい選択肢だった。


 アイリーンはゆっくりと息を吸い、視線を封蝋から逸らした。


「……返答は、少しだけ待ってもらえないかしら。時間がほしいの」


 エイリーはすぐには返事をしなかった。


 けれど、わずかに身を乗り出し、低い声で告げる。


「できれば、今答えてほしいの。猶予は長くないわ」


 アイリーンの眉がわずかに動く。


「これは、ノア家が王国側に突き出した最大限の妥協なの。アスナルクを国外に出すことで、面子を保つっていう建前付きの提案よ。……でも、それが通っているうちに動かないと、次はない」


 言葉は穏やかだったが、そこにあったのは確かな切迫感だった。


「いつ方針が変わって、心変わりが起きるか分からないの。それこそ次は死刑になりかねないわ」


 アイリーンはわずかに目を伏せた。


「……家としての意見をまとめるには、時間がいるわ」


 その言葉に、エイリーは静かに首を振った。


「家の総意はいらないわ。今回の招聘は、一人ひとりの意思を尊重するって条件で通してある。各個人の判断に委ねてるの」


 アイリーンは顔を上げた。


「……そんなこと、よく通ったわね」


「通させたの。形式でも“国外に出す”ことが第一条件だったから、それさえ守れば、細かいところまでは目をつぶるって」


 エイリーの声は変わらず穏やかだったが、その裏には確かな交渉の痕跡がにじんでいた。


「だからこそ、あなたにまず動いてほしい。誰かが最初に歩かないと、他の人も動けない」


 静かな視線が、改めてアイリーンに向けられた。


 アイリーンは息を小さく吸い、封書に手を伸ばした。封はまだ開けていない。だが、その重みはすでに、十分すぎるほどに感じ取れていた。


「……もし、私が引き受けたとしても。それは、この国から追い出されるという事実に変わりはないわ」


 アイリーンは封書に指を添えたまま、視線をエイリーに向けた。


「これは、“必要とされた”というより、“都合がよかった”から回された仕事でしょう?」


  エイリーは否定しなかった。


「そうかもしれない。でも、都合よく扱われるかどうかは、受け取った側が決めることよ」


 アイリーンは黙った。


「フェレグリードがどうなるかは、あなたにかかってる。何を形にするかは、あなたの手に委ねられてるの」


 そこで、ふと口元に薄い笑みを浮かべる。


「それに――あの傲慢王子だって、きっと思い知ることになるわ。自分が切り捨てたものが、どれだけの価値を持っていたかをね」


 アイリーンは黙ったまま、もう一度封書に視線を落とした。


 指先がわずかに動き、封の縁に触れる。


「……わかったわ。行く」


 その声に、迷いはなかった。


 彼女の中にある静めたはずの怒りは、エイリーによって刺激され、沸々と湧き上がっていた。


  表に出ることはなかったが、確かに残っていた。


 特に――あの王子の態度


 礼もなく、説明もなく、ただ一方的に切り捨てた。


 忠義にも、努力にも、一片の価値も見出そうとしなかった。


(負けてばっかりじゃ、終われない)


 その言葉は声にはならなかった。だが、心の底に確かに響いていた。


 アイリーンは封書を手に取り、まっすぐエイリーを見た。


「準備の猶予は?」


 エイリーは笑みを浮かべた。


「二日。最初の船が出るのは、あさっての朝よ」


「手伝いはいらない?」


「必要なものは、自分で決める」


 その答えに、エイリーはわずかに目を細め、満足げに頷いた。


「じゃあ、迎えは当日の夜明け前に寄越すわ。遅れないでよ、アイリーン」


「もちろん」


 アイリーンは封書を胸元に収め、静かに席を立った。


 迷いのない動作だった。


 書架の間を抜けていくその背に、エイリーは声をかけなかった。


  陽の光が静かに傾く。

 冬の名残をわずかに含んだその光の中で、アイリーン・アスナルクは、新しい航路へと向かっていく。

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