議場に落ちた火種 ③
ざわつく会場に、アイリーンは静かに立ったまま、ひと呼吸を置いた。
「……たしかに、私はかつて王太子アレクト殿下と婚約していた者です。ですがそれが、いかなる立場を取るかの理由になるとは考えておりません」
凛とした声が、空気を切り裂くように響いた。
「この場は、個人の感情や過去を持ち込む場所ではないはずです。我々が問うべきは、印紙税強化が州の経済、秩序、そして住民にとって何をもたらすか――それだけです」
「言い切りますね、アイリーン殿」
ガラン州代表が皮肉めいた口調で立ち上がった。銀髪を撫でつけながら、あざけるような笑みを浮かべる。
「だが、世の中はそんなに割り切れたものではない。特に、“民意”というのはな」
ガラン州代表は円卓をゆっくりと見回した。芝居がかった所作にも見えたが、その目は冷ややかに各州代表の反応をうかがっていた。
「中央と縁深いはずの貴女が、ここで毅然と反対を唱える。それを世間がどう受け取るか……“王太子の元婚約者が反旗を翻した”――そう見られても、仕方ないのでは?」
ざわ……と、囁き声が会場を満たす。
アイリーンは表情を変えず、その言葉を受け止めた。――予想はしていた。だが実際に投げかけられた言葉の重さは、予想以上だった。
「それに……こうした動きが、王都でどう“報告”されるか、ご存じなのか?」
皮肉を帯びた言葉の裏には、あからさまな“牽制”の意図があった。アイリーンが答えようとした――そのときだった。
「それが脅しのつもりなら、質が悪い」
円卓の一角で、椅子を引く音がした。静かに立ち上がったのは、ミルヴァン州の代表――金糸のターバンを巻いた老齢の商人だった。
「この会議は、各州の合意と自律に基づくものだ。我々は“報告”を恐れて発言を控えるべきではないし、ましてや誰かの出自で論旨を濁すのは筋違いというものだ」
会場の空気が、微かに揺らぐ。
「我が州は商業と実利で判断する。アイリーン殿の意見は、少なくとも実務的な筋道が通っていると私は思う。皆様はいかがか?」
沈黙の中、いくつかの視線が交錯した。中立とされた州の代表たちが、わずかに表情を動かす。
アイリーンが息を整える間もなく、ガラン州代表はわざとらしく笑った
「それにしても……」
彼は再び、アイリーンに視線を向ける。
「“理に従う”と繰り返されますが、それならば逆に問わせていただきたい。あなた方フェレグリード州は、どれほどの“理”をもって反対にまわったのですか? まさか、王太子との個人的遺恨を――州の方針に反映させているなどと?」
今度こそ、ざわめきは大きくなった。
「それは言いすぎだ」
「いや、正当な質問では?」
いくつもの声が、議場を満たす。だが誰も止めようとはしなかった。それほど、この疑念は多くの者の胸に燻っていたのだ。
「私個人の感情を、州の立場に混ぜたことは一度もありません。そもそもフェレグリード州は、王都から物理的にも政治的にも一定の距離を保ち続けてきた州です。我々が拠って立つのは、中央への忠誠ではなく、州民の暮らしです」
彼女の背後にある州章の紋が、光を反射して揺れた。
「そして今、州民の暮らしを最も脅かすのは、説明なき増税であり、帳簿を埋めるための“中央の都合”です」
そこまで言い切ると、アイリーンはわずかに口を引き結んだ。挑発に乗る形ではなく、理を尽くして静かに押し返す。だが、その静けさこそが、議場に重く響いた。
しばしの沈黙の後、ノルヴァ州代表がぽつりと呟いた。
「……我が州でも、漁師たちが似たような不安を抱えている。書類一枚が、彼らにとって命綱だ。その一枚に“税”がかかるというなら――我々も、真剣に立ち位置を考え直す必要があるな」
ノルヴァ州代表の言葉に、場の空気が微かに揺れた。誰もが気づいていた――中立を保っていた四州のうち、少なくとも一つが今、明確に“天秤”を傾け始めたことに。
各々は何か言いたげの様子だったが、今や議場は静まり返り、誰もが他者の一挙手一投足に神経を尖らせていた。余計な発言は、波紋を生む。それが支持を得るか、孤立を深めるか――その判断を誤れば、すべてが覆る。
やがて、議長が席を立つ。
「――これ以上の討論は、むしろ決断を遅らせるだけでしょう。皆の意見は、十分に交わされました」
場に再び、重く張り詰めた空気が落ちる。
「それでは、印紙税強化案について、各州の最終的な態度を確認いたします。順に、名を呼び上げますので、 反対・賛成・棄権のいずれかをお示しください」
円卓の各席に、一斉に視線が集まる。
――採決が、始まろうとしていた。