廃工場にて
市内南区の第三工業路地は、朝日が届かぬほど建物が密集していた。
その一角、かつて紙の一大供給地だった旧製紙所は、すでに数年も前に廃業し、地図からも除かれた場所だった。壁は煤け、鉄の外扉には錆が浮いている。窓は割れたまま放置され、野良猫すら寄りつかない。
工場の外観には、時間が止まったままのような雰囲気が漂っていた。
アイリーンはゆっくりと歩き、錆びた扉の前で立ち止まった。
取手に手をかけると、ざらついた鉄の感触が手袋越しにも伝わる。少し力を入れると、重たい音を立てて扉がわずかに開いた。埃っぽい空気が顔にかかる。
中は薄暗く、床には古い紙くずや木片が散らばっていた。かつて紙を作っていた機械がいくつも置かれたままになっており、どれも錆びついていて動きそうにない。
壁の注意書きや安全標識は色褪せ、天井の窓ガラスは割れている。そこから差し込むわずかな光が、床の埃を照らしていた。
静かだった。足音以外に音はなく、人気もない。
アイリーンは慎重に足元を見ながら、さらに奥へと進んでいった。
工場の奥は、通気もなくひどく空気が淀んでいた。鉄骨の梁には古い蜘蛛の巣が垂れ下がり、所々で天井材が剥がれ落ちている。
アイリーンは視線を巡らせながら、柱の影、壁際、そして床の痕跡をひとつひとつ確認していく。古い機械の隙間に、足跡のような微かな跡があった。
埃は均一ではない。何かが通ったように、帯状にうっすらと踏みならされている。
彼女は足を止め、しゃがみ込んだ。わずかに新しい紙片が、機械の下に挟まっている。指先でつまみ上げると、それは帳簿の切れ端だった。日付は前月。インクの色も新しく、誰かが最近ここで何らかの記録をつけていたことを示している。
アイリーンは眉を寄せると、それを懐にしまい、立ち上がった。
そして、床の先へ目を向ける。埃をかき分けた先に、かすかに鉄扉の継ぎ目が見える。地下階――あるいは倉庫のさらに奥へと通じる通路かもしれない。
アイリーンは無言で歩み寄り、その鉄扉に手をかけた。
鉄扉は施錠されていなかった。古びた蝶番が軋みを上げ、重々しく開いていく。
その先には、薄暗い階段があった。照明はなく、壁に沿って張られた配線も、今はもう機能していないようだった。
アイリーンは足を踏み入れ、慎重に階段を下りていった。靴音が、しんとした空間に響く。
地下は、地上よりもさらに湿気がこもっていた。床はコンクリート打ちで、ところどころに水たまりができていた。
紙の匂いがした。
インクではない、生の紙。束になって長く置かれていた独特の匂い。しかも、最近のものだ。
アイリーンは周囲を見渡し、少しだけ呼吸を整えた。
倉庫の中央に、木箱が積まれている。無地の紙が束ねられたまま、中途半端に開けられた箱からは、使用されることのなかった印刷用紙が見えていた。
アイリーンは一歩近づき、箱の縁に手をかけてそっと持ち上げた。
中には、厚みのある紙が何束も詰められている。だが、その色に彼女は小さく眉を寄せた。
王都で使われている紙は、漂白されていて真っ白だ。書類用でも新聞用でも、色味の基準は厳しく定められている。だが、今目の前にあるそれは、わずかに茶色がかっていた。
漂白の工程を省いたか、あるいは別の方法で製造されたものか。質は悪くないが、王都の流通品ではあり得ない色だった。
その時、かすかな話し声が、奥の方から聞こえた。
アイリーンはすぐに反応し、足音を殺して機械の影へ身を潜める。反響しづらい構造のため、声ははっきりとは聞き取れなかったが、少なくとも数十人以上が会話を交わしているようだった。
やはり、噂は本当だったのだ。
アイリーンは呼吸を浅くしながら、ゆっくりと体を伏せる。積まれた古紙や機械の残骸が自然と死角を作っており、相手に気づかれずに様子を窺うには十分だった。
奥の仕切りを隔てた向こう――かつて乾燥室だったと思しき空間から、再び声が漏れ聞こえてくる。
「……次の便は予定どおり。だが、数は絞る。目立ちすぎれば、今度こそ足がつく。今度は別の州から運ぶ。ビラは西港経由からだ。あそこは監視も甘い」
「――品質には気をつけろよ。前回みたいな滲んだ紙じゃ、読みづらいって苦情が来てる」
「分かってる。けど選んでる余裕なんてないんだよ。王都の目が厳しくなってる。まともな紙は、ほとんど押さえられてる状態だ」
もう一人の声が続いた。
「……フェレグリードの政務庁も警戒し始めたって噂だ。新しい監査部が動いてるとか。下手に捕まったら、全員終わるぞ」
「だからこそ今なんだ。抑えつけられる前に、声を広げておかないと」
その言葉を聞いた瞬間、アイリーンは、思わず一歩を踏み出していた。
乾いた床板がわずかに軋み、その音に反応するように、ふたりの会話がぴたりと止まる。
「誰だ!」
鋭い声が飛ぶ。続けざまに影が動き、機械の陰から現れたアイリーンに向けて、二人の男が反射的に身構えた。
その視線を真正面から受け止めながら、彼女は静かに一歩進み出る。
「フェレグリード政務庁の責任者――アイリーン・アスナルクです」
名を告げると、空気が凍ったように静まり返ったのだった。




