表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/28

ヴェスタ・タイムズ

税制改正の通達から数日、政務庁には静かな混乱が広がっていた。


 課税対象となったのは、帳簿や契約書、報告書といった日常業務の根幹をなす文書群。印紙がなければ発行できず、業務は次第に滞り始めていた。


 印紙の配布は王都の財務局に一元化され、申請しても届くのは十日以上先。地方での代用や模造は「偽造」とされ、重罪に問われる。


 その制約の狙いが、「流通」ではなく「発言」の統制にあることを、アイリーンは理解していた。記録も契約も証言も、印の有無で支配される仕組み。それは言葉を奪うための制度だった。


 そんな中、市中には署名も印もない文書が出回り始めていた。印紙税に抗議する内容。形式を欠いたそれは、規制をかいくぐるようにして紡がれた声だった。


 無力な者たちが、それでも筆を執った――その事実の重みだけが、今も胸に残っていた。


 そんな中、アイリーンは、フェレグリード最大の新聞社――『ヴェスタ・タイムズ』の前に立っていた。


 古びた石造りの建物は、港町の喧騒から少し離れた通りに面している。表には「報道の自由は民の盾」と刻まれた銘板が掲げられ、重厚な木製の扉には、開閉の跡が幾重にも刻まれていた。


 この新聞社は、他の地方紙とは一線を画している。


 政務庁の公式発表をそのまま載せる王都系の報道機関とは異なり、『ヴェスタ・タイムズ』は、創刊以来一貫してフェレグリードの自治権擁護を掲げてきた。王都の政策に批判的な論説も多く、中央では「反体制寄り」と揶揄されることも少なくない。


 だが、アイリーンはその姿勢を否定しなかった。むしろ、王都が自らの都合で地方の声を封じようとする今、この地に根差した報道の存在こそが重要だと考えていた。


 彼女は扉の取手に手をかけ、強く押し開けた。


 中に入ると、活版印刷のインクと古紙の匂いが鼻をつく。奥では編集部員たちが忙しなく行き交い、輪転機の低い唸りが床を振動させていた。


「おや、珍しいお客様だ」


 ひときわ大きな声が飛んだのは、編集部の奥――書類と版下が山積みになった机の向こうからだった。声の主は、ヴェスタ・タイムズの主筆、《グレン・バルフォア》。まだ五十には満たない年齢だが、白髪混じりの無精髭と、新聞用インクに染まった指先が、彼の年輪を物語っていた。


「お招きも受けずにすみません。少し、お話をうかがえればと思いまして」


 アイリーンが頭を下げると、グレンはにやりと笑い、机の一角を手で払ってスペースを作る。


「話すだけなら無料だ。記事にするなら原稿料を請求するがね」


 彼女はその軽口に苦笑を返しつつ、用件を切り出した。

 

「……地下で、文書が流通しているのはご存知ですか?」


 グレンは目を細め、煙をくゆらせながら黙って聞いていた。


「非合法なのは承知しています。けれど、その出所を探っているんです。特に、紙。あれほどの量を印刷するには、相応の供給源があるはずです」


 アイリーンの声音は静かだったが、視線はまっすぐだった。


「……ヴェスタ・タイムズのように、フェレグリードに根差した報道機関なら、何か掴んでいませんか?」


 グレンは一口、煙をくゆらせた。


「……記者ってのはな、知ってても“知らない”って言う時がある。特に相手が政務庁の長ともなれば、なおさらだ」


 言葉の調子は飄々としていたが、煙の奥の視線はどこか真剣だった。


「だがまあ――何も知らんとは言わんよ。あれは確かに出回ってる。噂じゃ、廃業した印刷所の一部設備が裏で動いてるらしい。今は無届けの工房や紙商が山ほどあるからな。全部は追い切れねえ」


 アイリーンは頷いた。それだけで十分だった。紙の流れを辿れば、きっとその先にあるものが見えてくる。


「忠告しとくが、手を出すなら覚悟しろ。あれに関わってるのは、市井の人間だけじゃねえ。正規の職を追われた連中もいれば、本国から逃れてきた者もいる。厄介な火種に近づけば、煤だけじゃ済まねえぞ」


 アイリーンは短く、しかし確かな声で返す。


「承知の上です。……むしろ、だからこそ行く価値があると思っています」


「流石、アスナルク家だな。言うことが肝が据わってる」


 グレンは感心したように笑い、灰皿に煙草の火を押しつけた。ぱち、と音を立てて火が消える。


「……一つだけ教えてやるよ。市内南区の倉庫街、第三工業路地にある古い製紙所。今は使われちゃいねぇが、夜な夜な紙を運ぶ連中が出入りしてるって噂だ」


 アイリーンは眉をひそめた。公式には廃業届が出ている施設だ。だが、そうでなければ人目を避けて動くには都合が良い。


「確証は?」


「ねぇよ。ただ……火の起きねぇところに、煙は立たねぇだろ?」


 それは記者らしい皮肉であった。


 アイリーンは頷き、コートの襟を正すと静かに立ち上がった。


「ご協力、感謝します」


 アイリーンは短くそう告げ、机の上に視線を落としたままのグレンに一礼した。


 彼は返事をしなかった。ただ、わずかに片手を上げて見せた。送り出すとも、関わらないとも言わぬ曖昧な仕草――だが、それが彼なりの答えだった。


 扉を開けると、外の風が室内に吹き込んだ。印刷所特有のインクの匂いがかき消され、冷たい空気が頬を撫でる。


 アイリーンは足を止めず、まっすぐ階段を降りていった。


 街はまだ薄曇りの下にあり、瓦屋根の上には夜露が残っていた。朝の喧騒が始まるには、少し早い時間だった。


 ヴェスタ・タイムズを出たアイリーンは、そのまま通りを歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ