悪魔の印紙税
朝の政務庁は、いつもより静かだった。
けれどその静けさは、秩序や安定を意味するものではない。むしろ、口をつぐんだ職員たちの空気は重く、どこか張り詰めていた。廊下をすれ違う者たちの間でも、目を合わせることを避けるような、微妙な間が生まれている。
「……本国からの通達です」
報告に訪れた補佐官が差し出した書簡を、アイリーンは無言で受け取った。封蝋には王国政務院の紋章。中身を確認するまでもなく、予感はあった。
課税強化。
文面には、例によって遠回しな言い回しが並んでいたが、核心は明白だった。フェレグリードへの徴税権を再確認し、新たな税率を導入するという内容。課税対象は「印紙税」で、政務文書や契約書にまで及ぶと記されていた。名目は戦費調達。だが実質は、地方の行政基盤を狙った締め付けだった。
文を読み終え、アイリーンは静かに眉をひそめた。
(……戦費が逼迫しているということね)
予想はしていた。だが、思っていたよりも早い。本国の財務がそれだけ切迫している証拠でもあった。
問題は、ここからだ。
施行日は、次の月初から。わずか十日も猶予はない。しかも、徴税実務の責任は各地の執政に委ねられると明記されていた。つまり、王都は命じるだけで、火の粉は現場に振りかかってくる。
窓の外には、いつも通りの市場と人々の往来が広がっている。けれどこの知らせが届いた時、民衆が黙っているとは思えなかった。
「……ロウとフィアナを呼んで。できればすぐに」
「かしこまりました」
補佐官が頭を下げて退室していくと、執務室は再び静寂に包まれた。だが、さきほどまでの穏やかさとは違う。今は、嵐の前の静けさに近い。
アイリーンは机の上に置かれた通達書の束を見つめながら、唇を引き結んだ。課税強化――それは、王国からの正式な命令であり、すでに押印済みの命令書は、施政者としての彼女に実行を求めていた。
……だが、それが何を意味するのか、誰よりも理解しているつもりだった。
税の名を借りた圧力。王国にとって“離れつつある土地”に対する、牽制と支配の再主張。その矛先が今、フェレグリードに向けられようとしている。
扉の外で控えていた足音が二つ、揃って近づき、間もなくノックの音が響いた。
「入って」
アイリーンの言葉に応じて扉が開き、ロウとフィアナが現れる。ロウはいつもの調子でにこやかに、フィアナは無表情のまま、静かに一礼してから室内に入った。
「お呼びでしょうか、アイリーン様」
「早速ですが、これを」
アイリーンは一枚の命令書をロウに手渡し、もう一枚をフィアナに差し出した。二人は内容に目を通すなり、すぐに顔色を変えた。
「……これ、まさか――」
「王国本土からの課税強化です。すでに他の州にも通達が出ているとのこと。フェレグリードも例外ではありません」
ロウが言葉を失う一方で、フィアナは沈黙を保ったまま、命令書を隅々まで読み終えた後、静かに言った。
「……公に受け入れれば、民の反感を買います。拒絶すれば、王国に口実を与える」
「ええ。その通り」
アイリーンは椅子に深く腰掛け、両肘を机に置いた。沈黙が、重く執務室に降りる。
「……他の州の反応は?」
アイリーンの問いに、フィアナが即座に答える。
「軒並み難色を示しているようです。中には、まだ正式回答を出していない州もあります。様子見の段階と見てよいかと」
ロウが唇を噛みながらうつむく。課税強化の意味は単純な税収増ではない。これは王国が「従属の証」として地方に突きつけた踏み絵であり、それに応じるということは、事実上“独自路線”の放棄を意味していた。
「……悩ましいわね」
アイリーンは、深く息を吐いた。
命令に応じれば、確かに“波風”は立たない。表向きは。それが国の方針なのだと、理屈の上では誰も責めることはできない。
けれど、それは本当に“正しさ”なのか。
長くこの地を支え続けてきた人々が、中央の財政難の穴埋めに使われることを、ただ受け入れろというのか。何の説明も、敬意もなく。まるで、“王国の資源”でしかないかのように。
アイリーンは机に肘をついたまま、ぽつりと口を開いた。
「……民の中に、本国に対する愛国心が、どれほど残っているのかしら」
その言葉に、ロウとフィアナが揃って顔を上げる。
「少なくとも今の従属関係を見て、誇りを持てる人は少ないでしょうね」と、フィアナが静かに応じた。
「“王国の一部”としての帰属意識は、もう形ばかりになっていると思います。税を課され、命じられるばかりで、何も与えられていないのですから」
ロウも苦い顔で言葉を継ぐ。
「愛国心というのは、信頼の裏返しです。本国がこの地を“国の一部”として大切にしている姿勢を見せなければ、誰もついてこない」
アイリーンは頷き、椅子の背にもたれた。
フェレグリードを生かすのか見殺しにするのか。
その手はアイリーンに委ねられていた。
フェレグリードの地域単位は『州』です