02 二人だけの日常
事故に遭った際、隣に倒れていた男性を見てどう思ったか、正直よく憶えていない。わたしはその後すぐ意識を失ってしまったから。頭を打った、と言われて、色々検査されて、なかなか病院から出してもらえなかった。思いがけず長く会社を休む事になってしまい、あまりいい顔はされなかった。それはともかく。
どこか困ったような表情でわたしの傍らに佇む端正な顔立ちの男性が、わたし以外の誰にも見えないのだと、早々に気づけたのは僥倖だった。そんな事を口にしてしまったら、更に検査が長引いた事うけあいだ。
「あなたは誰?」
『僕は佑。あの事故に遭って死んだ……はずだった。でも何故か、ここに居る。君は?』
「奏子。わたしもあの事故に遭って、生き残った……みたいね。あなたは、わたしに取り憑いている?」
『という事になるのかな。あちこち行ってみようとしたけれど、何故かうまくいかない。無理に進もうとすると、自我が薄れる気がする。どうやら君と一定以上、離れられないみたいだ』
無理にでも離れれば、それは、成仏するという事なのか? それとも、消えるという事なのか?
『君には迷惑かも知れないけれども』
「見ての通り、恋人も家族も居ない。誰も何も言いやしないわ。あなたはここに……居てくれるの?」
『居ていいの? 君の恋人みたいに……家族みたいに?』
この時には既に、わたしは佑への恋心を自覚していた。佑も……同じ気持ちを、返してくれた。
◆ ◆ ◆
わたしは一人で出掛ける。動物園も、水族館も、ショッピングも。だけど実は佑が一緒だ。周囲にはそうと思われないだけだ。わたしは楽しい。佑も、楽しいと言ってくれる。入場料が一名分で済むなんて、お得だね。そう言って笑う。
「幽霊って、壁とか通過出来ないの?」
『幽霊って言うなよ。……やろうと思えば出来るけど、とても気持ち悪いな。あまりやりたくない』
「佑だけでも、映画、タダ観が出来るじゃないって思ったのに」
『その間、奏子はどうするの。ロビーで待ってるの? 何度でも言うけど僕は奏子から一定以上離れられないんだよ』
一定以上、であって、密着していなければならない、という訳では無い。佑はプライベートをちゃんと守ってくれる。会社にはついて来ざるを得ないが、勤務時間中は離れて居てくれる。屋上で昼寝をしたり、社内をうろつき回って情報収集したりしているらしい。
「情報収集?」
『営業の佐藤さんと経理の加藤さんが給湯室で喧嘩してたとか。あと来週末に懇親会をやるとか』
「加藤さんに話し掛けるの、今日は止めておこう。それから来週末は外出からの直帰で調整する」
『奏子の役に立てて、何よりだよ』
事故後、変わった。そう噂されているらしい。それはそうだろう。だって恋人が出来たんだもの。毎日、楽しい。
『……そっちの意味だけじゃなくてね』
おかしくなった、とも。それはそうかも知れない。自分が普通で無い自覚はある。だけどそれが何だというのか。
『妙に立ち回りが上手くなった、だってよ』
「佑の御陰じゃない。快適よ、わたしは。社内の揉め事に巻き込まれないで済む。面倒事も、持ち込まれる前に、逃げられる」
『……今まで、君に押し付けていた連中、勝手が変わってしまって、不満らしいね』
「佑が教えてくれた。あの人たち、わたしに雑用やら残業やら押し付けて、感謝もして無かったって。別にわたし、有難がって欲しかった訳じゃないけど、でも今は定時で帰って佑と過ごす方が大事だもの。本来の業務以上の事、出来ないわ」
いつもの有休申請をしに行くと、上司はあからさまに嫌な顔をした。
『年次有給休暇は被雇用者の権利だから、余程正当な理由が無い限り、拒否してはいけないんだよ』
佑がまじめくさって解説してくれるので、わたしは笑いを堪えるのに苦労する。
「わたしを庇って命を失った方の、月命日です。お線香を上げに」
『理由だって言う必要は無いんだよ』その当人が口を挟む。わたしにしか聞こえないけど。
「……最近、勤怠が宜しく無いと報告が上がっている」
「どこからでしょう。遅刻も早退もしておりませんが」
まさか間髪入れず口答えされるとは思わなかっただろう。今までのわたしなら、いかにも、そうだった。
「個人的にですが業務の効率化を心掛けておりまして。残業時間が減ったと自分では認識しておりますが」
佑が満足そうに頷いている。『その分、他の人が増えている。全体で見ると、増えている。それは彼らの要領が悪いからだ』
「……自分の業務だけやっていれば良いというものではない。組織というのは」
「どなたか以前よりも業務が増えた方がいらっしゃいますか? そうでしたら確かに、残業してでも、助力しなければなりませんが」
佑が笑っている。『反論出来ないはずだよ。彼らは今まで君に自分の仕事を押し付けていたのだからね。それが出来なくなって、ついでに質も落ちているね。お客さんに怒られるのも遠い日の事じゃないよ』
顧客に迷惑が掛かるのは、いただけない。やはり少しは手出しした方がいいのか。
佑が顰め面になった。『そういう君の生真面目さに、連中は付け込んでいたんだよ。顧客に迷惑が掛からないよう采配するのは、そもそも上司の役目だ。下が勝手に調整してしまうのは却って良く無い、問題が先延ばしになるだけだ、最終的に多大な迷惑を被るのは顧客だ』
佑は大手企業に居ただけあって、よくわかっている。吹けば飛ぶような零細企業でワンマン社長の顔色を窺うのが最大の仕事みたいな上司とは違う。佑が上司なら良かったのにな。さぞかし働き甲斐があった事だろう。
『転職する?』
それはとても心揺れるお誘いだ。口を利いてもらえないのが実に残念だ。転職したところで佑は既に退職してしまっているのも。
「……有休の残日数を確認したのかね。入院で相当使っただろう」
まだ上司が何か言っている。
「療養休暇は年次休暇とは別と総務に確認しました。昨年からの持ち越し分もまだ余っているから早急に使わないと消えるだけだと言われました。でも入院でご迷惑をお掛けしたのは事実ですし」
佑がまた顰め面になった。『そういう言い回しが良く無い、事故は君のせいじゃないんだから』わかってる、わたしだって本気で思ってる訳じゃない、でも、こうでも言わないとこの上司は引き下がらない。わたしなりの最大限の譲歩だ……今のわたしの。
「年次有給休暇を使い切ろうとは思っておりません。ただ、命の恩人のお弔いをしたいだけです。いけませんでしょうか?」
別に困った同僚や上司しか居ないという訳でも無い。親しく話す間柄の人たちだって、居ない訳では無い。だから彼らには、恋人が出来たと正直に話した。ただ詳細は話せない。それで何となく皆、遠巻きだ。でも仕方がないではないか。
『奏子は……それでいいの?』
「佑はわたしが嫌いになったの?」
『そうじゃないよ、そうじゃないけど』
「ねえ佑。旅行に行かない? 近場でいいのよ。短くていい。週末にちょっと出掛けて、一泊して、帰って来る。それだけでいいのよ。お願いよ」
殊更に何かをしたがるわたしに、優しい佑は黙って付き合ってくれる。




