19 終章
「馨くん。帰らなくていいの?」
「どこに? 俺の居場所は奏子の隣だ。そう認めてくれたはずじゃ?」
あの後、わたしと遊ぶと言って聞かない佑と庭先でひとしきり戯れた。馨くんもそのうち交ざった。佑が楽しそうなので、もうそれでいい事にする。
「それにしても、いつ見ても立派な庭だな」
「維持費もなかなかよ」
「という事を知らずに安易に欲しがる輩が居ると。まあ売っ払ってしまえとか簡単に言うんだろうが」
「そんなの。佑はここで遊んで育ったって、おかあさまに伺った。今……佑も、楽しそうよ」
「そうだね」馨くんは目を細めた。佑と同調した中に、幼い頃の思い出なども含まれているのだろうか。「そうでもない」あれ。また顔に出てた?
「佑は自分の話、全然しなかったなって、思い返してた」
「そうね。だから毎月おかあさまから伺ってた。好きな食べ物とか。それで帰ってから作るの。たまに、あれを作ってとか言う事があって、張り切って頑張るんだけど、でもそれって佑の好物じゃなくてご両親の好物だったわ」
「どこまでも計算か。つくづく鼻持ちならない。腹立たしい。一回くらい殴ってやるんだった」
「どうして誰も彼も不穏なのよ」
佑が泥塗れだ。後で一緒にお風呂に入ろう。もうわたしも気にしない、そのつもりで絽の着物は脱いでいる。子供の相手って、そういうものだ。
「俺の苛立ちはさておき。奏子は、それで良かった?」
「良く無いからおかあさまに伺ってたのよ」
「話させる事も画策の一環……いやさすがにそれは無いか。元々、万事に対して執着心が薄かったんだろうな」佑は何を考えているのかわからないところがあった。おかあさまはそう仰った。「恐らく佑は他者にも無関心だった。だから冷徹に、交渉役なんかやっていた。そんな佑が初めて心を動かされたのが奏子だった。いかにも一目惚れだな」
一目惚れだよ、本当だよ。優しい佑の笑顔。
「なあ奏子。奏子は佑のどこが好きだった?」
「え? ……や、優しいところ? それと綺麗な顔」
佑を押さえそこね、また泥が撥ねた。馨くんが佑を持ち上げて振り回してくれる。佑は大喜びだ。
「顔、ねえ。俺の顔は冷たいから嫌なんだったっけ?」
「な、なに、それ」
「そう言われた。ショックだったから忘れられない」
「そ、そんなの……。その場の勢いっていうか」
一度口から出てしまった言葉って、取り消せないんだなあ。あの時のわたしは物凄く馨くんに対して腹を立てていた。八つ当たりのような気持ちだった。それに……、佑が誰かに完全に成り代わるだなんて、嫌悪のような気持ちもあった。
「本当はそんな事、全然思ってない。最初からかっこいいって思ってた。佑みたいな親しみやすさが無かったから、だって初めて会った時って馨くんは雰囲気が刺々しかったし、でも今は、びっくりするくらい大人っぽくなって、しっかりして」
「――あ、あー。わかった。もういい」
必死の言い訳は、途中で止められてしまった。
「じゃあさ、顔はともかくとして。俺は佑だけど馨だ。佑みたいには優しくない。佑は奏子の言う事を何でも聞いてくれたかも知れないが、俺は自己主張する。奏子の意に沿わない事も言うし、する。さっきみたいにだ。それは?」
「それで喧嘩するかもって? 佑とだって喧嘩したわよ、引越したいって何度言っても反対するし。今だって」
いくら後でお風呂に入るからって泥の上で転がるのは止めて欲しいのだが、ちっとも言う事を聞かない。勢い余っておかあさまの丹精している花に突っ込みかけるので、さすがに叱った。
「奏子は……強くなったね?」
「嫌味かしら。ご立派になった馨くん?」
「褒めてるんだ。あるいは、そうだな。佑に守られてばかりの奏子じゃ、もう無いって事だ。ところで奏子。いつになったら返事を聞かせてくれる? もっと言わないと駄目?」
「……そ、それは」
それは。
◆ ◆ ◆
晩御飯は、おかあさまが腕を揮ってくださった。恐縮だが、何もかもという訳にはいかない。どうにか綺麗にした佑を座らせてから、わたしは箸置きを並べた。わたしがそれらを大切にしていた事を御存知のおかあさまは、何も訊かずに笑ってくださった。「やっと、使いどころが出来たのね?」佑は興味津々で弄り回し、終いには口に入れようとしたので、慌てて止める。
「おとうさまとおかあさまの分も、ご用意しないと」
それには及ばない、とおかあさまは仰り、揃いの箸置きを並べられた。
食事をしながら、おとうさまとおかあさまは御存知だったらしい馨くんの家庭事情を改めて聞いた。「つまり帰らないと」「だから帰る場所じゃないんだよ。挨拶には行く。だけどそれだけだ」
今後どうするのか尋ねたら、佑の勤めていた会社に就職するとの事だ。そのつもりで留学も手配されていた。「で無ければ彼らだって手を貸さないよ、世の中はギブアンドテイクだ」
何もかも、佑の引いた設計図通り。
「――それで、さっきの続きなんですが」
お酒が出されたところで、馨くんが蒸し返す。そう、馨くんももう晩酌が出来る年齢だ。佑はお行儀良くごちそうさまをして席を立ち、空いた皿を片づけるわたしとおかあさまに纏わりついて来る。可愛い。
「お嬢さんをください、と言うのは理に合わない。そもそも奏子は物じゃない」
「その通りだ」
おとうさまは一緒に呑める相手が出来て嬉しそうだ。そう見えないよう一生懸命に振舞っているが。
「ましてこの家から引き離すなど考えられない。先程仰られた通りの完璧な幸せ家族から」
「その通りだ」
「ですのでやはり割り込むしかない。そこで提案です。俺をもらってください」
「――は!?」
「奏子の了承は得ました」
わたしは頭を抱えた。そうは言っていない。「い、一緒に、居る……それは了承しました。でも、その先は、ちょっとまだ」
だって。わたしはこの家にお嫁に来たのに。佑のお嫁さんなのに。そんなにいきなり、気持ちを切り替えられない。
「だから奏子はゆっくり考えればいい。それはそれとして俺はお二人にお願いしたい。これからはそれなりに稼ぐ当てがあります、ちゃんと生活費も入れます。佑さん程とはいきませんが。そうだ、そのうち競馬場にもご一緒しましょう」
最後の一言にぐらっと来たらしいおとうさまが、慌てて咳払いする。
「と、とはいえ、だな」
「俺が入り込む事で彼らはまた騒ぎ出すんじゃないですか。水面下で何か動かれても面倒だ、これを奇貨として引き摺り出すのも手かと。後顧の憂いは絶っておくに越した事は無い」
馨くんがまたしても不穏だ!
「穏便に事を済ませる途を模索するんだよ、人聞きの悪い」
だからわたしはまだ何も……。佑がきょとんとしている。いや、馨くんに興味津々?
「佑くんはまだ幼い。不安な面もありましょう。だから俺はその一助になれればと考えているんですよ。ああもちろん奏子を愛しているのが第一ですが」
振り幅が激しい。おとうさまもおかあさまも遠い目になりつつある。
「……君の、ような、若造が……」
「若造と侮られているうちで無いと油断もさせられないですしね」
「一体何を企んでいる」
「奏子と佑くんの、そしてお二人の、幸せを」
グラスに口をつけ、笑う。それは、優しいだけじゃなかったあの人を想起させ、でも確かに、経験を積んで成長した馨くんだった。
「留学先で一体何を学んで来たのよ」
わたしが呆れて問いかけると、馨くんは佑を引き寄せて答えた。
「交渉術だよ」
- THE END -
物語はここでお終いです。お付き合いくださいましてありがとうございました。
もう1cpt.だけ補足があります




