12 現実を生きる
馨くんがわたしを見下ろしている。
「佑はどこ」
「わからない」
夜が明けた。わたしの狭い部屋は容赦無く陽光に照らし出される。狭いシングルベッド。馨くんとわたし。脱ぎ捨てられた服。
夢は終わったのだ、と、言い渡されたかのようだった。
「奏子、顔が赤い。熱があるのか?」
「そうみたい」
わたしはそのまま寝込んだ。週末で幸いだったと言うべきか? 何をしようとしてたんだっけ。わたしは何度目かの引越を提案した。物件を見に行くだけでもいいじゃない。ポストに投函されているチラシを、馨くんにも見せる。もういっそ買っちゃおうか。やっぱりマンションがいいのかな。でも庭付き戸建ても捨て難い。ガーデンパーティとか楽しそうじゃない? ご近所に迷惑かしら? お誘いすれば許してもらえる? わたしは好き勝手喋りながら食材のストックを確認する。そうだまた鍋しよう。野菜たくさん買って来よう。そのうち鉄板を用意して、お好み焼きとか、いっそ焼肉とか。皆で食べる御飯って、美味しいよね――…
馨くんがレトルトのお粥を買って来てくれた。スプーンで掬って少しずつ、わたしの口に入れてくれる。それさえも吐き出しそうなくらいだったけれども、ぎこちない馨くんの手つきと心配そうな表情を見て、どうにか飲み込む。
「奏子」
「大丈夫。すぐ、元気になる。ごめんね。ありがとう。心配しないで」
「奏子……。俺、行かなきゃならないんだ」
「そう。行ってらっしゃい」
「俺、またここに、帰って来ていいか。ただいまって帰ったら、おかえりって迎えてくれるか?」
「……元気で」
◆ ◆ ◆
ついでに二日ばかり休んだ。上司がますます不機嫌になった。周囲も何だか遠巻きだ。わたしはいつも通り、次の十九日の有休申請をする。懇親会のお誘いは、はっきりと断るようにした。先日ご迷惑をお掛けしてしまいましたから。そう言ったら、それ以上は何も言われなかった。いい顔はされなかったけれども。
相変わらず残業はしない。少しずつ、業務を整理している。新人教育を押し付けられたので、喜んで受けたら、おかしな顔をされた。
おかあさまには、真っ先に気づかれた。
「奏子さん……。あなたもしかして」
仏間に飾られた百合の花の強い匂いに中てられてしまった。それで感づかれてしまったらしい。
「先日、病院に行きまして。三ヶ月だと言われました」
「……立ち入った事を訊くようだけれども、お相手は?」
居ません、とわたしは答えた。一人で産んで、育てます。そのための準備中なんです。
引っ越さなくて良かった。仕事が出来なくなったら、ローンなんて払えないし。狭い部屋は家賃が安いのが取柄だ。諸費用と当面の生活費くらいは貯金で何とかなるはず。
「でも奏子さん、ご家族もいらっしゃらないって」
「家族はこれから出来ます。この子が生まれてくれます」
会社に報告して、今後の仕事の割り振りを相談して、産休育休の手続きを進める。嫌な顔をされたどころではなかったが、これこそ、どうにもならない。被雇用者の権利、と佑が言う――佑が居たら、きっとそう言ってくれる。わたしは微笑む。上司が気味悪そうな顔をした。
興味津々で質問攻めにされたが、わたしは一切答えなかった。そのうちに勝手なストーリーが出来上がったらしい。心配されたり同情されたりした。せっかくなので国の補助制度など知らないか尋ねてみた。ちょっとよくわからないわ、と逃げられてしまった。
仏間に飾られているのは可憐なマーガレットだ。気を遣われただろうか。
「奏子さん。体調はどうなの?」
「御陰様で、順調です」
「……本当に、一人で大丈夫なの?」
「この子のためなら頑張れます」
遺影に目をやる。わたしは結局、佑の写真を一枚も持っていないのだ。それはそうだ、写らないのだから。馨くんも撮らなかった。……馨くんはどうしたのだろう。どこか遠くへ行くような事を言ったきり、姿を現さなくなった。わたしは馨くんの住まいを知らない、訪ねた事は無いから。訪ねたのは佑だけだ、わたしは近くで待っていただけだ。連絡先も知らない、次回の約束をするのはいつも佑だったから。
「佑さんのお話を聞かせてください」




