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目覚めた五年後の世界では、私を憎んでいた護衛騎士が王になっていました

作者: 束原ミヤコ



 なんて、薄汚い子供だろう――と、レフィーナ・レイドリックは眉をひそめた。

 その子供の金の髪は長い間洗っていないのか、べっとりと脂ぎっている。

 とかしてもいない髪は絡まり合い、一房が、ひとかたまりになっている。

 

 切ることもしていないのだろう。顔を覆い隠すように長く、後ろ髪は汚らしく背中までのびている。

 ところどころ破けた服はかろうじて体にへばりついているような有様で、こちらも汚れて元の色が何色かさえ分からなくなっている。


 破けた服からのびる細い手足は枯れ枝のようだ。

 薄汚れた子供は恐らく少年であるはずなのに、十歳のレフィーナよりも背丈が低く、腕も足も細かった。


 髪に隠れてしまって顔はほとんど見えない。髪の隙間から、ぎょろぎょろと忙しなく周囲の様子をうかがう青い瞳が覗いていた。


「これは、今日からお前の人形だ。お前もレイドリック家の娘として、人の扱い方を学ばなければならん」


 少年を連れてきた父親が、何の感情もこもっていないような冷たい声で言った。

 父親であるレイドリック公爵から呼び出しを受けたのも、声をかけられたのもこれがはじめてだった。

 何の用事だろうか。

 もしかして――昨日の家庭教師との授業の時に、試験で満点をとったことを褒めてくれるのだろうか。


 そんな淡い期待を抱いていたが、一階の入り口前のホールで待っていた父親がみすぼらしい少年を連れていたことで、レフィーナの期待は見事に打ち砕かれてしまった。


「私の、お人形」

「あぁ。お前の好きにするといい。反抗的な態度をとるようなら、爪を剥ぎ、指を切れ」

「……ありがとうございます」


 耳を塞ぎたいようなことを父に言われて、レフィーナは思わず強ばりそうになる口元に笑顔を浮かべた。

 レイドリック公爵家の娘として――不満や悲しみを顔に出してはいけない。


 いつも余裕のある笑みを浮かべていなくては。レイドリック家の血筋の者は、他人とは違う。

 産まれながらにして人の上に立つ、王でなくてはいけない。


 幼い頃からレフィーナはそう教えられてきた。もしそれができない場合は、教育係や家庭教師から仕置きをされる。

 両親からは期待外れだと、冷たい目を向けられる。

 背中や腕を物差しで打たれる痛みには耐えることができたが、両親からの冷たい視線がレフィーナは何よりも怖かった。


 ──期待通りの子供でいなければ。


「ついていらっしゃい、汚い犬」


 レフィーナは、冷たい侮蔑の言葉を少年に投げかけた。


 汚らしい少年を傍におくというのは、レフィーナの品性をさげる行為である。

 あてがわれたお人形の手入れは、レフィーナの主としての才覚を問われるものだ。


 だからまずは侍女たちに命じて、身綺麗にさせた。

 ほつれた髪を切り、何度も髪や体を洗う。

 すると、痩せすぎて目ばかりがぎょろぎょろと大きいが、白い肌のそれなりに整った容姿の少年が、泥を洗われた蓮根のように顕になった。


「名前を言いなさい、汚らしい犬」

「……」

「言葉が話せないの?」

「……」

「では、私を呼びなさい。そうね、レフィーナ様と言ってごらんなさい」


 綺麗にしたあとに、レフィーナは少年にもう古くなったレフィーナの服を着せた。

 発育の悪い小柄な少年には、女物のドレスだが袖が余るくらいだった。


 床に座らせて、レフィーナはその前に置いてあるソファに足を組んで座っている。


「れ、ふぃ……」

「レフィーナ様よ」

「レフィー、さま」

「……不出来な犬ね」


 レフィーナは手を握りしめた。

 出来が悪ければ、仕置きをしなくてはいけない。

 ぎり、と、爪が手のひらに食い込む。


 折檻だと、父や母は従者に命じて使用人を殴ることがある。手にしている鞭で、自ら叩くこともある。


 レフィーナにも、当然それを求める。

 けれど、レフィーナは他者に暴力を振るったことはなかった。


 振り上げた手は、力無く落ちた。


「いいこと、ここにはあなたと私しかいない。だから、秘密になさい。あなたは私に叩かれた、いいわね」


 こんな嘘は──本当はいけない。

 けれど、

 少年は、理解しているのかいないのか、静かに頷いた。


「名前は、ないのね。私が名づけてあげる。光栄に思いなさい」


 高圧的な物言いを心がけながら、レフィーナの心はやや浮き足だった。

 名前をつけると、その少年がレフィーナだけのものになるような気がした。


 両親から顧みられることなく、使用人からも常に監視をされているようなレフィーナには、心を許せる相手などいなかった。


 玩具も与えられず、庭先で見つけた野ウサギは、次の日にはレフィーナの食卓に並んだ。

 美しい花は母の色が悪いという一言で引き抜かれ、母に渡そうと摘んだ花は汚らしいと捨てられた。


 少年は、レフィーナにはじめて与えられたお人形だった。

 いらないと思ったが、何も話せずおとなしいばかりの少年に、愛着がうまれはじめていた。


「そうね、あなたはシグナスにしましょう。白鳥座という意味よ」


 最近覚えた言葉を得意げに言うと、少年は「シグナス」と反芻した。

 

「あなたはシグナス。私はレフィーナ」

「しぐ、なす。れふぃ」

「そう。レフィーナ様と呼ばなくてはいけないわ。二人きりの時以外は。そうしないと……おそろしいことになるから」


 レフィーナは、シグナスと名づけた少年に言い聞かせた。

 シグナスはどこまで理解しているのかわからない表情で、じっとレフィーナを見つめていた。


 レイドリック公爵家は、元々はアルケイディス王家の血筋である。

 古くに分家をされて、それから長く続いている由緒正しい血筋の家だ。

 王家から妻を娶ることもあれば、過去には兄妹での婚姻も許されていた。


 穢れた血は、血筋に入れてはいけない。


 レイドリック家は特別な家であるという思想の元、女遊びが激しい当主の代には、外に作った私生児や情婦を闇の中に葬るなどの悪行も――悪行とは思われず、当然のこととして行われてきた。


 そんな家に、レフィーナは生まれた。

 幼い頃からお前は特別なのだと両親に言われてきた。

 優秀でなくてはならない。誰よりも、優秀でなくては。

 レイドリック家は王家と同等である。その血筋を色濃く継いでいるのだ。


 全ての人間は、レイドリック家よりも位が低い。レイドリック家が支配者なれば、その他全ては奴隷だ。

 

 実際に――奴隷も多く雇っていた。

 彼らは使用人とは違う。人として扱うことはない。

 人形のように着飾らせて、人形のように従順で、苛立った時には暴力を受け、足や腕を切り落とすことさえ両親の思うがままだった。


 レフィーナは――奴隷の扱いを見る度にいつも、冷たいもので体がいっぱいになるのを感じていた。

 指先が冷えて、体の芯が凍えた。

 それでも、優秀でいなくてはいけないと自分に言い聞かせていた。

 そうしないと、捨てられてしまう。

 ――愛してもらえない。


「シグナス、計算ができるようになったのね。あなたはとても賢いわ、いい子ね」

「ありがとうございます、レフィ様」

「もう、文字も書けるし、言葉も話すことができるのね」

「レフィ様が教えてくださったおかげです」


 シグナスと二人きりのときだけ、レフィーナは彼に話しかけた。

 いつでもレフィーナを見張っていて、何か失敗をすれば父に報告をする侍女たちを理由をつけて追い払い、二人きりの時間を過ごした。

 シグナスと二人きりで自室にいるときだけ、レフィーナの心は安らいだ。

 はじめての友人。はじめての家族。

 シグナスはレフィーナの奴隷でしかないのに、レフィーナはいつの間にかシグナスに心を傾けるようになっていた。


 身なりを整え食事を与えて、礼儀作法を教えた少年は、まるで少女のように美しかった。

 それが余計に、レフィーナの警戒心を解いていた。

 まるで――妹のようだと思った。

 だから与えた。

 レフィーナが欲しかったものを、全て。


 優しく勉強を教えてもらいたかった。穏やかな声で話しかけて欲しかった。

 いい子だといって撫でて欲しかった。

 眠るときに、髪を撫でて頬にキスして欲しかった。


 全て、母からは与えてもらえなかったものだ。


「シグナス。私にはあなたしかいない。ずっと、一緒にいて」

「はい。もちろんです、レフィ様」


 ――二人きりの時だけだ。

 部屋から一歩外に出れば、レフィーナはシグナスに話しかけることをしない。

 きちんと奴隷として扱っていると示すために、首には首輪をつけて、そこから繋がれた縄を持ち歩いているのだ。

 シグナスは従順だった。

 レフィーナに刃向かうこともせずに、ただ静かにレフィーナに従っていた。


「嬉しいわ、シグナス。あなたは私の、家族よ」


 シグナスがレフィーナの元に来て、半年が経とうとしていた。

 獣のように手づかみで食事をしていたシグナスは、品良くナイフとフォークを使うことができるようになった。

 読み書きも計算もできるようになったし、丁寧な言葉を使えるようにもなっていた。

 

 このところ――レフィーナに向けられる監視の目は、いくぶんか緩やかになっていた。

 それもそのはずで、年の離れた妹が産まれたのだ。


 両親は妹に夢中になった。

 元々レフィーナへの関心など、あってないようなものだった。

 ただ優秀ならばそれでいいと思われていたのだ。そして、レフィーナは両親の期待に応え続けた。

 期待にこたえればこたえるだけ、多くを求められる。

 褒められることはなく、小さなミスだけを叱りつけられた。


 優秀であることが当たり前になっていた。

 だが、レフィーナは耐えることができていた。シグナスがいてくれたのだ。

 彼との秘密の時間が、レフィーナを孤独から遠ざけていた。


「ねぇ、あなたはどこから来たの?」

「覚えていません」

「あなたの両親はどこにいるの?」

「そんなものはいません」

「それなら私と同じね。私たちは、この家で、二人きり。二人きりの家族だわ」


 天蓋を降ろしたベッドの上に二人きりでいると、外の世界から守られている気がした。

 分厚い布が、世界から私たちを隠してくれるのだと、レフィーナは信じた。


 けれど――静寂と安寧は、扉を開く音とともに破られた。

 

「レフィーナ! どういうつもりだ! 奴隷を夫にでもするつもりか!?」


 天蓋が、乱暴に開かれる。

 布が剣で切りさかれて、白刃が安全であるはずのベッドに突き刺さった。

 シーツが破れ、羽根が舞う。

 

 レイドリック公爵が、シグナスの細い首を掴むと片手で持ち上げた。

 苦しげにうめくシグナスを床にたたきつける。

 そして、レフィーナの背を馬用の鞭で打ち据えた。


「レイドリック家の面汚しが! 薄汚い淫売め! その年で、男をくわえ込むとは!」

「やめて、お父様……っ、違うの、私は、何も……!」

「それなら、何だ!? 奴隷を人間のように扱うとは、レイドリック家の血筋を何だと思っているのだ!」


 鞭で打ち据えられるレフィーナを、シグナスが覆い被さるようにして庇った。

 レイドリック公爵は冷酷に口角をつり上げると、その手を止めた。


「なるほど。主人を守るとはよい心がけの犬だ。レフィーナ。一度だけだ。もしお前が自分の犬に己の物だという証をつけられるのならば、許してやろう」

「お父様……」

「剣を持て。その犬の腹を、切れ。お前程度の力で斬ったところで、死にはしない」


 ――とても、できない。

 そんなことをできるはずがない。

 レフィーナはただ、震えていた。


「できないのならば、その犬の首とお前の首を並べてやろう。レイドリック家に捨て犬と交わる女の血など不要だ。お前が死んでも、マリスがいる」


 妹がいるから、レフィーナの血は不要になった。

 これは、脅しではない。父はそうと決めたら、身内でも斬るような男である。

 それを咎める者はいない。この家では、父が法だ。


「……そんな」

「……」


 シグナスの瞳が、強い光を帯びてレフィーナを見据える。

 ――そうしろと、言っているのか。

 ――そんなことはするなと、言っているのか。


 ここで二人で死んだほうが、いいのかもしれない。

 ここでシグナスを傷つければ、それはひどい裏切りだ。

 二人だけだと。家族は、二人だけだと言ったのに。


 けれど、裏切りはずっと続いていたのではなかったのか。

 レフィーナはシグナスを奴隷にしている。父に与えられて、逃がすこともせずに、支配している。

 部屋から一歩外に出れば、話しかけることも微笑むこともせずに、首輪をつけて犬のように連れ回しているではないか。

 きっとシグナスは――そんな私を、嫌っていた。


 父に脅されて、瀬戸際に立たされて、はじめて己の欺瞞に気づいた。

 何が家族だ。

 本当にそう思うのなら、シグナスを解放すればよかったのに。


 鞭を打たれた背中の傷よりもずっと、その事実がレフィーナの全身を鋼の刃で突き刺した。


「――分かりました」

 

 死にたくないと思ったのかもしれない。

 それとも、絶望に心がまみれて、投げやりになったのかもしれない。


 レフィーナは、震える手で剣を受け取った。

 剣を持つのははじめてだった。

 それはあまりにも重く、持ち上げることさえやっとだ。


 ふらつきながら、シグナスの前に立つ。

 シグナスはただ静かに、レフィーナを見つめ続けている。


「……っ」


 ごめんねと、叫びたかった。

 こんなことはしたくないという言葉は、喉の奥につかえて出てこない。

 この剣を、父に向ければ――。

 ここで、終わることができる。きっと楽になれる。

 けれど、死は、あまりにも、おそろしい。


 剣を持ち上げるだけで腕が震えた。足がふらつき、振り上げた剣は――シグナスの顔をその鋭い刃で傷つけた。


 うめき声をあげることもなく、シグナスは顔をおさえる。

 その手の、指の間から、鮮血がだくだくとこぼれて、床を赤く染めた。

 ガランと、硬質的な音を立てて剣が床に落ちる。

 

 レフィーナはシグナスに駆け寄ることもできずに、ただその場に立ち尽くしていた。

 レイドリック公爵は笑い声をあげながら「そうだ、レフィーナ。それでいい」と満足げに頷いた。


 シグナスは、命こそ無事であったが、右目を失った。

 額から頬までざっくりと切れて、目は潰れていた。

 あれから、レフィーナはシグナスと言葉を交わしていない。シグナスも話しかけてくることはない。

 ただいつものようにレフィーナに従っている。

 残された左目は、いつでもレフィーナに憎しみのこもった視線を向けていた。

 

「お前と、王太子殿下の婚約が決まった」


 レイドリック公爵に再び呼び出されたのは、それから五年後のこと。

 レフィーナは十五歳になっていた。

 シグナスは少女のような少年から、立派な体躯を持つ貴公子然とした青年になりつつあった。

 それでも、立場が変わるわけではない。

 レイドリック家において、シグナスはレフィーナの奴隷でしかなかった。


「王家からの、是非にとの申し出だ。断る理由はあるまい。レフィーナ、理解しているな。お前が王妃になり、国母になれば、レイドリック家の地位は更に盤石になるのだぞ」


 レイドリック公爵は、宰相の座を狙っていた。

 娘を王妃に据えて国を牛耳る立場を手に入れようとしているのだと、その言葉だけでレフィーナは理解した。

 

「今の王家は、どうしようもない。平気で平民を後宮にいれ、血を穢している。国王の私生児とやらが何人もいるのだ。始末する私の立場にもなってほしいものだな」


 レイドリック公爵は、国王に代わり手を汚している。

 直接手を下しているわけではないが、私兵を使っているのだ。

 今まで、レイドリック家の不祥事をもみ消してきたのと同じように、国王の不始末の火消しもしている。

 あらゆるあくどいことをしているのだろう。

 レフィーナは、もう何を聞いても表情を変えることはしなかった。


 シグナスを傷つけてしまった日から、レフィーナの心は凍り付いたままだ。

 所詮は――私も父と同じ。罪人なのだと。


 婚約者との顔合わせが、ほどなくして行われた。

 王城の中庭で行われた茶会の場には、王太子以外にも貴族の子供たちが呼ばれていた。


 子供といっても、王太子アルフレッドは十六歳で、その他の者たちもレフィーナと同い年程度。

 レフィーナとレイドリック公爵が現れると、彼らは緊張した表情で歓談していた王太子から離れた。


「はじめまして、レフィーナと申します」

「レフィーナ。アルフレッドだ。よろしく」


 婚約者の挨拶としては、とても素っ気ないものだった。

 レイドリック公爵の視線が、レフィーナに突き刺さる。

 レフィーナが求められているのは、王太子の懐柔と籠絡である。

 それは理解していたが――レフィーナは、何もできなかった。

 アルフレッドのレフィーナに向ける視線は、嫌悪に満ちたものだったからだ。


 己は空っぽの人形である――と、レフィーナは自分に言い聞かせ続けた。

 レイドリック家の、気位の高い高飛車な令嬢。

 人を人とも思わない、冷血な女。


 様々な噂が、レフィーナの周りには常に満ちていた。

 そんな噂など、レイドリック家で生きることに比べたら、なんでもなかった。

 好きなように言えばいい。空っぽの人形は、何を言われても悲しんだりしないのだから。


 そう思い、アルフレッドの婚約者として堂々と振る舞った。

 舞踏会でエスコートを受ければ、体を密着させて媚びるような笑みを浮かべて。

 公務の場で会えば、お会いしたかったと体をくねらせて。

 やがて、アルフレッドの心も、少しはレフィーナに向いたようだった。

 正確には、レフィーナの豊かに実っていく体に、ではあるのだろうが。


 十六歳になると、王立学園へと入学した。

 護衛騎士として、シグナスも連れていった。

 シグナスはレフィーナを憎んでいるが、レフィーナの人形であることは変わりない。

 一人きりでレイドリック家に置いておくわけにもいかない。


 妹は六歳になり、可愛い盛りを迎えていた。驚くべきことに、レイドリック公爵も母もマリスを可愛がっていた。

 レフィーナが王家に輿入れし、レイドリック家はマリスが婿を迎えて継がせることになる。

 元々レフィーナにはなかった心が、なおさら離れているようだった。

 レフィーナは駒にしかすぎず、マリスだけが人間扱いされていた。

 けれど――やはり、心は痛まない。

 人形は、シグナスではない。自分だ。


 本当の自分は、どこにあるのだろう。アルフレッドに愛されて、まともな夫婦になることができたら、人形でいることをやめることができるのだろうか。

 それでも、罪が許されるわけではない。

 許される日が来るとしたら、それは――。


 学園寮の一室で、シグナスはいつも床に座って眠っている。

 彼はあらゆることを教え込まれていて、彼一人がいればレフィーナの身の回りの世話は全て事足りた。

 片目はないが、美しい容姿は変わらない。

 まさか奴隷と公表するわけにもいかず、レフィーナはシグナスを護衛であり、執事であると表向きには伝えていた。


 王国では、奴隷を買うのは違法である。

 レイドリック家だけが異質なのだと、学園で生活するようになってからレフィーナは痛いほど思い知っていた。

 それが許されているのは、王との繋がりがあるからだろう。


「……シグナス。……おやすみなさい」


 声をかけるなど許されないことは分かっている。

 けれど、レフィーナはあまり眠ることができない。

 夜中に静かに寝室を抜け出して、床に座り眠るシグナスに挨拶をすることが日課になっていた。

 そうすると、少しだけ心が穏やかになった。

 ――シグナスから光を奪ったくせにと、自分自身を罵る声が頭に響いていた。


 アルフレッドの傍に、庶民の女が侍るようになったのは、学園生活にも徐々に慣れてきたその年の冬のことだった。

 アルフレッドが孤児院の視察に向かった際に、『聖女』の力が発現したらしい。


 聖女とは何か。

 それは、この国に豊穣をもたらす人柱である。


 そう、レフィーナは認識している。

 けれどそれはレフィーナがそう思っているだけだ。

 皆は、聖女を尊いもの、生きる女神だと信じている。


 聖女は神の代弁者だ。別名、神使とも呼ばれる。

 神の言葉を伝え、この国をよい方向へと導く者だ。

 つまりは預言者である。未来を夢に見て、厄災を避ける。その力はこの国にとってはとても大切なものとされている。

 聖女が現れたのは、王国史にして五百年ぶりのことだった。


 聖女ミネアは、とある男爵家の養子として迎え入れられた。

 貴族の養子であれば、貴族学園に入学することができる。

 ただの孤児であったミネアはアルフレッドの庇護下におかれて、彼の傍に常に侍るようになった。


 レフィーナの目には、二人は特別な関係であるように見えた。


「レフィーナ。ミネアのことは気にする必要はない。あれは、ただの聖女だ」

「気にしてはおりませんわ、アルフレッド様」

「君が聖女に悋気を向けたらどうしようかと、心配していた」


 ミネアが現れて、しばらくしてのことだ。

 アルフレッドが夜更けに、レフィーナの元に訪れた。

 こんな時間に――と、思いながらも、レフィーナはアルフレッドを部屋に通した。


 聖女と特別な関係にありながら、レフィーナの元を訪れる。

 国王陛下は女好きで、何人もの私生児がいるのだと、父が言っていたことを思いだした。

 アルフレッドも、同じ。


 もしかしたらと――淡い期待を抱いていた。

 この暗闇からどこかに、光の差す場所に、穏やかな風が吹く草原に、連れ出して貰えるのかもしれないと。

 そんなことが、起るはずはない。レイドリック家に生まれた以上、レフィーナは生まれながらの罪人である。

 人殺しの子供だ。

 シグナスと二人で死ぬこともできず、その顔を切り裂いた。


「そうか、よかった。レフィーナ、君が不安にならないように、ここに、証を残そう」

「証……?」

「あぁ。俺の子をここに宿せば、不安はなくなるだろう」

 

 アルフレッドは、レフィーナの下腹部に触れた。

 学園生活も、二年目を迎えようとしている。

 レフィーナは十七歳。十六には既に大人だとみなされている王国において、レフィーナは十分に女性として発育していた。


 レイドリック家の女がそうであるように、レフィーナもまた女性的な豊かな体つきをしている。

 愛らしいというよりも妖艶な容姿は、いつまでも若くいることを望んでいる母の自慢だった。

 レフィーナも、母に似てきている。


 とうとうこの日が来たのだ。

 体を重ねれば、きっと父の望みが叶う。


 アルフレッドには愛されていない。そんなことは分かっている。

 分かっているが――ただ、虚しかった。


 ベッドに、強引に倒される。背中に僅かな痛みを感じた。

 覆い被さってくる婚約者を、ランプの明かりに照らされた薄暗い部屋の中で眺めた。


「レフィーナ。君は、初めて出会った日から二年で、ずいぶんと美しくなった。君が私を愛してくれていることを、私はよく知っている。だから、私も君に慈悲を贈ろう」


 これは、慈悲なのだ。

 アルフレッドを愛している、報われないレフィーナに贈る、慈悲。


「ミネアは、その心も体も、女神のように清廉で美しい、聖女だ。君は薄汚い娼婦のような女だが、それでも君は私の婚約者だ。哀れな君に、慈悲を」

「……っ」


 ――哀れなのだろうか。

 きっと、そうなのだろう。

 目を伏せた。抵抗する理由はない。アルフレッドはレフィーナの体だけを求めている。

 それで、いい。そう、心の中で呟いた。

 涙も流れない。レフィーナの心は、凍っている。


「殿下。火急の用があると、ミネア様がいらしています」

 

 足を開かされそうになった瞬間、寝室の扉が叩かれた。

 シグナスの落ち着いた低い声を、久々に聞いた。


 アルフレッドは慌てたように身なりを整えて、部屋から出て行った。


「ミネアを呼んだのか、レフィーナの犬め」


 シグナスとすれ違い間際に、憎々しげにシグナスを睨みつけながら。


 レフィーナは、乱れた衣服を整えることもせずに、ベッドの上でぼんやりと天井を見つめていた。

 シグナスが寝室に入ってくる足音が聞こえる。

 はっとして体を起こすと、シグナスに駆け寄った。

 凍り付いた心臓がバクバクと音を立てている。指先が冷える。背中を冷たい汗が滑り落ちた。


「シグナス……余計なことを……! 殿下の手つきになれば……子を宿せば、レイドリック家の地位は盤石になるの……! それなのに……!」


 ありがとうと、言いたかった。

 助けてくれて、ありがとう。怖かった。嫌だった。ここから、逃げ出したい。


 けれど、その言葉は、喉の奥に押し込めた。

 アルフレッドの怒りに満ちた横顔を見た。王家と、レイドリック家には同じ血が流れている。

 人を人とも思わない――子供を殺すことを、厭わない、冷酷な血だ。


「あなたはもういらないわ。私の元から消えて頂戴。二度と、顔を見せないで!」


 シグナスを、逃がさなくてはいけない。

 きっと、報復があるだろう。

 アルフレッドは、レイドリック家の内情を知っている。

 シグナスがどういう立場なのかも、知っているだろう。

 ただの奴隷に――邪魔をされたのだ。


 シグナスは何も言わなかった。

 感情もこもらない冷たい瞳でレフィーナを見据えると、部屋から立ち去った。


「……もちろんです、レフィー様。ずっと、一緒に」


 一人部屋に残されたレフィーナは、ベッドに体を投げ出すと、呟いた。

 幼い日。秘密の約束をした。

 ベッドの天蓋が、外界から守ってくれるのだと信じていた、馬鹿な子供だった。


「これで、いいのよ。これで……」


 自分にそう言い聞かせる。

 もっと早くにシグナスを解放するべきだった。それができなかったのは、レフィーナの弱さでしかない。


 翌日――教室に向かうと、その空気は一変していた。

 レフィーナを取り巻いていた令嬢たちは、レフィーナから距離を置き、嫌悪の瞳を向けていた。

 誰も彼もがレフィーナに陰口をたたき、廊下を歩いているとゴミを投げつけられた。


「レフィーナ・レイドリック! 王国では許されていない人買いを行い、奴隷を侍らせていた悪女!」


 そう――大声で叫んだのは、誰だったか。

 誰かがそう口火を切ると、皆が一斉に「悪女」「人買い」「最低な犯罪者」だと、レフィーナを罵り始める。


「殿下がお呼びだ」


 レフィーナは、男子生徒たちに拘束されるようにして、礼拝堂へと連れて行かれた。


 礼拝堂には、騒ぎをききつけた生徒たちが野次馬のように集まっていた。

 礼拝堂の奥には聖女ミネアとアルフレッドが、ステンドグラスからさしこむ光を背にして立っている。

 神の代弁者というのも頷ける、神々しい姿だった。

 

 レフィーナは、その前に強引に跪かされた。


「レフィーナ。レイドリック公の悪事は公になった。かねてから、父も心を痛めていたのだ。あのような大罪人が公爵の地位にいることをな」


 レフィーナの背後にいる男が、レフィーナの頭を床に押しつけている。

 どこかを切ったのだろう、鉄錆の味が口の中に広がった。


「父は確かに、大罪人です。ですが、それは、陛下も同じ」

「我が父を愚弄するのか!? 貴様は私の婚約者でありながら、男を傍に侍らせていた。姦淫罪は、重罪だ、レフィーナ!」

「シグナスは、ただの奴隷です。レイドリック家の女が、奴隷に体を差し出すようなことは、いたしません」


 押さえつけられながらも、レフィーナは毅然とアルフレッドを睨み付けた。

 レイドリック家は悪だ。そして、その家に生まれた私も同じく同罪だろう。


 ――ならばせめて、潔く散りたい。


 もう、シグナスはいない。

 もう、なにもない。


「口の減らない女だ。ミネア。君の予言を、聞かせてやれ」

「はい。近い未来、この国は大きな厄災に見舞われます。その厄災を防ぐため、人柱が必要です。ヘルグラシアの祭壇に、人柱を捧げなくてはなりません」

「だ、そうだ。ただ殺すよりも、この国の役に立ったほうがいいだろう、レフィーナ。ミネアは、自らが人柱になると申し出てくれた。だが、ミネアは私の大切な人だ。人柱は誰でもいいのだ。レフィーナ、国のために、死ね」


 ヘルグラシアの祭壇とは、聖女と並ぶこの国の神秘である。

 王国の中枢、冥府の神ヘルグラシアの大神殿の奥にある祭壇に身を捧げたものは、王国を災いから救う人柱となる。


 その体はクリスタルの中に閉じ込められて、死ぬことも生きることもできずに、王国の為に祈り続けるのだ。

 

 レフィーナが、聖女を人柱だと考えている所以である。

 歴代の聖女は、その力が尽きると、ヘルグラシアの神殿で神への貢ぎ物とされる。

 人柱となり、王国の安寧を祈り続ける存在となる。


 本来ならミネアが、そうなるはずだった。

 けれど――その役割は、レフィーナに移った。


 レフィーナは、数日間投獄をされた。

 投獄をされている間は、外がどうなっているのか分からなかった。

 父が、家族がどうなったのかも。まだ幼い妹が、無事であるのかさえ。


 せめて、まだ何も知らない妹が、無事であればいいと願う。

 凍った心に、そんな情が残っていたことに俄に驚き、それがなんだかおかしかった。

 羨ましかったはずだ。愛されたいと願っていたのだから。

 

 けれど――やはり、レフィーナは平気だったのだ。

 心が凍っていたからではない。シグナスが、傍にいてくれたからだ。


 数日後、身を清められ、清潔な祭礼用のドレスを着せられた。

 そして、祭壇へと連れて行かれた。

 

 許された一部の者だけしか入ることのできない祭壇には、歴代の聖女の水晶の柱がある。

 ――あるのだと、思っていた。


 けれど、そこには何もない。

 ただ、祭壇があるだけだ。祭壇の前には、大きな門がある。

 門は、目玉がいくつもあるような、不気味な形をしている。


 国王やアルフレッド、ミネアや、神官たちが居並ぶ中、レフィーナは祭壇へとのぼらされた。


「冥府の王ヘルグラシア様。この者の祈りと引き換えに、我が国に安寧をもたらしたまえ」


 ミネアが歌うような声で、祈りを捧げる。

 祭壇の前にある大きな扉が、内側からゆっくりと開き始める。

 その奥にあるのは、暗闇だ。

 どこまでも続く深淵の向こう側に、何かおそろしい気配がする。


 レフィーナの体が、光で包まれる。

 ――怖くはない。これで終わりだ。


 ほんの僅かな幸福な記憶が、走馬灯のように脳裏を巡る。

 スプーンの使い方が分からずに、手をベタベタにしていたシグナスの姿。

 一緒に、本を読んだ。絵本の子犬が可愛いと笑った。

 ここではない、どこか遠くへいけるだろうかと呟くと、「必ず」と頷いてくれた。

 いい子だと、頭を撫でると嬉しそうに微笑んで、「レフィー様」と名前を呼んでくれた。


 それはレフィーナの罪の記憶だった。

 けれど――今だけは、一方的に想うことを許して欲しい。

 これで、最後だから。


 意識を失う間際、視界の端に赤が散ったような気がした。



 ◆


 ――ここは、どこだろうか。


 誰かが、私を見ている。

 誰だっただろう。どこか暗さがあるけれど、精悍な顔立ちの男性である。

 

 美しい金の髪に、青い瞳。片方だけしかない瞳の奥には、悲しみがある。

 もう片方の瞳は、黒い眼帯で覆われていた。


 その男性の向こう側には、黒々とした化け物がいる。

 それが一体何なのか、レフィーナには分からない。

 

 化け物は、黒い蛇の形をしている。人を丸呑みできるほどの巨体である。

 おそろしい姿だが、大人しく目を閉じて、とぐろを巻いていた。


「――レフィ。どうか、目を覚ましてくれ。君の声が、聞きたい」


 レフィーナは、ガラスの棺に入っているようだった。

 その棺に額を押しつけて、祈るように呟く。

 あぁ――そうだ。


 思いだした。


「……シグナス」


 そう呟くと、棺にぴしりと、ひびが入った。



 ◆


 シグナス。またの名を、ラインハルト・ヴァークスという。

 ヴァークス王国は、アルケイディス王国の隣国だった。

 国土は、アルケイディス王国の王領にも満たない小さな国だ。

 

 シグナスが十歳の時に、アルケイディス王国によって滅ぼされた。

 多くの者は殺されたが、若い娘や子供たちは、奴隷にするために連れ去られた。


 王太子だったシグナスは、ヴァークス王家の者たちは根絶やしにというアルケイディス王からの指示で、殺されるはずだった。

 

 だが、臣下たちが命をはって、シグナスを逃がした。

 一人逃げ延びたシグナスは、けれどすぐにアルケイディス兵に捕まり奴隷として売られた。


 奴隷用の牢獄での扱いは、酷いものだった。

 シグナスは同朋たちの怨嗟の声や苦しみの声を聞きながら、ひたすらに身分を隠し続けていた。

 王子だと知られたら、命を奪われるだろう。

 ヴァークス王国の、無残に命を奪われた両親や親類たち、家臣たちのために、なんとしてでも生き延びなくてはいけないと、泥水を啜り、それがどんなものでも口にした。

 従順で、頭が足りない孤児のふりをしたのだ。


 奴隷商は、様々な者たちを奴隷として売っていた。

 その中にはアルケイディス人も、ヴァークス人も、その他の人種もごちゃ混ぜになっていた。

 自国の者さえ食い物にするアルケイディス人たちは――きっと悪魔だ。


 シグナスは、奴隷でいることに勝機を見いだすようになった。

 どこかの家に買われれば、きっとアルケイディスを打倒するための足がかりになるだろう。

 シグナスを買ったのは、レイドリック公爵だった。


 思いがけない幸運に、シグナスの胸は打ち震えた。

 公爵の傍でなら、王の寝首をかく機会もあるだろう。

 アルケイディス人とは、人を奴隷のように扱う塵のような連中である。

 全員殺し、ヴァークス人を救うのが残された自分の役割だと信じていた。


 だから、どんな仕打ちにでも耐えるつもりでいた。

 けれど――シグナスの主であるレフィーナは、とても悲しい少女だった。


 レフィーナは、記憶を失い、言葉も話せない孤児のふりをしていたラインハルトに、シグナスという名をつけた。

 それは白鳥座という意味だと得意気に言って微笑むレフィーナが、哀れだった。


 誰にも愛されていない少女だ。

 人を人とも思わない人間たちに囲まれて、清廉さを失わない、けれど愛されたいと願っている悲しいレフィーナのことを、シグナスは見捨てることができなかった。


 だから、傍にいた。

 レフィーナが公爵にシグナスを斬れと言われて、自身の死を望んでいることに気づき、シグナスは自分を斬れと視線で訴えた。

 片目など、くれてやると思った。

 何もかもを失ったシグナスを、人として扱ってくれたのは、レフィーナだけだったのだ。


 撫でられるのも、褒められるのも。共にベッドで、秘密の話をするのも、失われた幸せを取り戻せるようで楽しかった。

 レイドリック公爵に叱責されてからは、レフィーナが自分を守るために、冷たくあたり、奴隷として扱い、心を閉ざしたことにも気づいていた。


 レフィーナが王太子の婚約者となったとき、シグナスは複雑な感情を抱えた。

 これで、王家に近づける。

 だが――レフィーナを、アルフレッドに奪われるのかと思うと、嫉妬でおかしくなりそうだった。


 冷静に状況を見極めている己と、感情的になり衝動に身を任せようとする己。

 その二人が、常に己の中で鬩ぎ合っていた。


 レフィーナが学園に入学すると、レイドリック家から離れたことで、シグナスには時間ができた。

 その時間で、仲間をあつめて、反逆の準備を行っていった。


 『聖女』という女が現れたのは予想外だった。シグナスが目を離している間に、レフィーナの立場が厳しいものになっていたことに気づいたのは、アルフレッドがレフィーナの元を訪れてからのことだった。


 アルフレッドは、レフィーナを抱こうとしているのだとすぐに気づいた。

 あの王太子の仮面を被ったいやらしい男の手が、万年雪の底に隠されている氷のように美しいレフィーナに触れて、穢すことを考えただけで、どうにかなりそうだった。

 今すぐこの場で斬り殺そうかという衝動をおさえて、聖女を呼びにいった。


 聖女は取り乱した。未来を見る力があるのなら、アルフレッドの心ぐらい読めるだろうと、呆れた。

 だから、この女は偽者ではないかと疑った。

 確かに、王国には『聖女』という伝承がある。


 五百年も現れていない聖女である。

 未来視をし、最後には人柱になるのだという。


 果たしてそれは、本当だろうか。

 アルケイディス王国が栄えたのは、聖女と、そして、冥府の王ヘルグラシアに人柱を捧げるからだと。


 レフィーナに出て行けと言われて素直に出て行ったのは、調べるためだ。

 ミネアの目的と、人柱と、聖女とは何か、について。


 けれど、シグナスは己の使命に心を注ぐあまりに、何もかも後手に回っていた。

 アルフレッドの行動は迅速だった。

 それほど、奴隷にレフィーナとの情事を邪魔されたことが気に入らなかったのだろう。

 もしくは、レフィーナとシグナスの間に情愛があるとでも、勘違いしたのかもしれない。


 奴隷の抱いた女を婚約者にしておくことは、我慢ができなかったのだろう。

 

 国王にレイドリック公爵の悪事を伝え、レフィーナは悪女であるとした。

 レイドリック公爵の存在が邪魔だった国王は、全ての罪を公爵に押しつけて、捕縛し処刑をすることを決めたようだった。


 アルフレッドは、聖女の予言を後ろ盾としていた。

 災厄が起る。人柱を捧げなくてはいけない。

 自らを人柱とするというミネアを哀れみ、ならば罪人レフィーナを、人柱につかおうと提案をした。

 果たして、そのもくろみは順調に進んでいった。


 シグナスが反乱の準備を整え終わる頃には――レフィーナは捕縛され、レイドリック公爵とそれに連なる者たちは、処刑台の上へと並んでいた。


 ――手遅れだったのだ。

 シグナスが牢獄に忍び込んだ時、そこにはレフィーナはすでにいなかった。

 大神殿に押し入って、刃向かう兵を奴隷たちや王家や貴族に辛酸を嘗めさせられてきた者たち、王家に弓引くことを賛同した一部の貴族たちと共に、切り伏せながら進んだ。


 ヘルグラシアの祭壇に辿り着くと――そこには既に、クリスタルの中に閉じ込められたレフィーナがいた。


 全て諦めたような、どこか安堵したような穏やかな表情で、彼女は眠りについていた。


「レフィ!」


 彼女が一体何をしたというのだろう。

 おそろしい家に生まれて、ただ愛されることを願っていた。


 そして結局、自分もまた、彼女を利用したのだ。

 彼女の奴隷であることを隠れ蓑にした。

 レフィーナはシグナスを信頼していた。

 金の管理もなにもかもを、シグナスに任せていた。

 シグナスはその金で、武器を用意し、反乱の準備をしていたのである。


「レフィ……レフィ……!」


 目の前が、真っ暗になった。

 罪の意識と、愛しさと、悲しみと絶望で、頭がおかしくなりそうだった。


 全てを失い絶望に心が黒く塗りつぶされていたシグナスに、レフィーナは手を差し伸べてくれたのに。

 それがレフィーナの孤独からくる依存だったとしても、シグナスはレフィーナの存在に救われていた。

 愛しかった。


『おやすみ、シグナス』

『ごめんなさい、シグナス』

『痛かったわね、シグナス』

『私を憎んで』

『いつか、私を殺して、シグナス』


 ――愛していたのだ。


「死ね……!」


 シグナスは、その場にいる者たちを血の海に沈めた。

 

 ミネアと王太子は殺さずに捕縛した。

 レフィーナを救う方法を知っている筈だと考えたからである。


 国王の首を掲げ、城を制圧した。

 アルケイディス王国は、欺瞞に満ちている。

 レイドリック公爵を悪だと断じた貴族たちも皆、秘密裏に奴隷を買っていた。

 公爵はそれを知っていたからこそ、己が神であるように振る舞えたのだろう。


 アルケイディスでは違法とされる人身売買に、手を染めている貴族たちが羅列してある名簿を手にしていたのだ。

 飼い犬に手を噛まれたようなものである。


 そして、一番弱い犬だったシグナスは、アルケイディスの城を制圧し、大規模な貴族たちの粛正を行い、王となった。 

 

 シグナスはレフィーナの棺であるクリスタルを、王城へと運んだ。

 それから、投獄しているミネアとアルフレッドを尋問した。

 彼らの返答は、実に馬鹿げたものだった。


「私は何も知らない! 聖女の言葉に従っていただけだ!」

「そんなの、私も知らないわ! この馬鹿が、私を勝手に信じたの! 未来予知なんて嘘よ。神殿は、聖女を欲していた。だから私が選ばれたの。予言によって馬鹿な王子を操るように言われたのよ。それだけよ」

「貴様、私を騙していたのか!?」

「騙される方が悪いのよ。二日後に狩りに出かけるだとか、そこでは馬が暴れるから、猪に気をつけなさいだとか。少し細工すれば、誰にでも簡単に予言なんてできるわよ! 私はただ、権力と金が欲しかったの! それだけよ!」


 馬鹿馬鹿しい――と、ミネアは吐き捨てた。


「人柱に聖女を捧げるだなんて、あんなのも嘘。レフィーナを苦しめたかったのでしょうね。だから、この男にそう言えと言われたの。ねぇ、ここから出して。全て教えたわ。私は何も悪いことをしていないわ!」

「ミネア、自分だけ助かるつもりか!?」

「黙って! 権力のないあんたになんか、なんの価値もないのよ!」


 ミネアという女は、神官たちの傀儡である。

 ミネア自身は、ただの孤児だ。ただ孤児院にいて、見栄えがよく少しは頭が回るから、選ばれたというだけだった。


「聖女なんて、本当にいるかどうかさえあやしいわ。どうせ、過去の聖女も神官たちが作り出したのでしょうね。でも、人柱は本当。捧げられるのは聖女なんかじゃない。哀れな孤児が――贄にされるの。扉の向こうには、いるのよ。本当に、おそろしいものが」


 知っていることは全て話したわ、ここから出して。あなたに抱かれてもいいのよ、だから! と、叫ぶミネアを、アルフレッドが殴りつけた。

 シグナスは牢番に命じて、二人を別々の牢に移した。

 生かしておけば利用できるかもしれないと、考えたからだ。


 シグナスは捕縛した大神官を尋問した。

 

「あれは、冥府の王ヘルグラシア。アルケイディス王国は古に、冥府の王と契約をした。贄を捧げる代わりに、王国に繁栄をもたらすと。ヘルグラシアの加護は、王国を守り続けている。そのため、アルケイディスは一度も戦争に負けたことがなく、国は豊かに栄えた」


 大神官はあっけなく口を割った。

 だが、長年続いていたその慣習も、時が経てばおざなりになった。

 確かに聖女は存在していた。

 聖女は予言により王国に繁栄をもたらす。

 ヘルグラシアの祝福を持ち生まれた乙女である。


 聖女の力が消えるとき、聖女はヘルグラシアの元にかえらなくてはいけない。

 すなわち、祭壇に捧げられて、クリスタルになるのだ。


 クリスタルがその役目を終えるのは、新しい聖女が生まれた時である。

 だが――国王も神官たちも、次第に怠惰になった。

 五百年前に最後の聖女がクリスタルとなり、やがてそのクリスタルは役目を終えて溶けて消えた。


 新しい聖女が生まれたのだ。

 けれど誰も、聖女を探さなかった。

 聖女だと名乗り出る者もいなかった。


 贄ならば誰でもいいだろうと。一年に一度、孤児の血で祭壇を濡らした。

 けれど――贄はただ死んだだけだ。クリスタルにはなりはしなかった。


 およそ五百年の間空の座が続き、そして、ヴァークスへの侵攻戦が起った。

 それは、勝ち戦に思えた。

 けれど、違う。

 今までの戦では、アルケイディスにはほとんど被害が出なかった。

 敵国はすぐに矛をおさめて、恭順の意を示したのだ。

 けれどヴァークスは最後まで抵抗をした。

 多くの血が流れて、ヴァークス王国は滅んだ。


 ヘルグラシアの加護が消えた。

 冥府の王はやがて怒り狂い、アルケイディスを滅ぼすだろう。


 しかし、新たな聖女は見つからない。

 だから、大神官たちは偽りの聖女をつくったのである。


「しかし、ヘルグラシアに捧げられたレフィーナは、クリスタルとなったのだ。偶然にも、幸運にも、彼女は本物の聖女だった。王国を守る人柱となったのだ」

「馬鹿げたことを。この国は、俺が滅ぼした」

「聞けば、お主はレフィーナとは深い関係だったそうだな。お主が勝利をおさめたのは、それがレフィーナの望みだったからだ。贄の聖女が、お主を守ったのだ。喜ぶがいい」


 ふざけるな――と、思った。

 けれど、大神官は本当にそう信じているようだった。

 贄を捧げることができたことで、彼の役目はもう終わったといわんばかりの態度で、満足げな笑みさえ浮かべていた。

 ――神であるヘルグラシアの怒りを鎮めることができた。

 おそろしいものが、国を滅ぼしたりはしない。

 それだけが、彼の心を満たしていた。


 冥府の王が本当にいるのだとしたら、従わせればいい。

 レフィーナを、取り戻す

 国などいらない。復讐など――そんなものに身を焦がしていたから、大切なものを失ってしまった。


 レフィーナはクリスタルの中で、シグナスの幸福を祈り続けているのだ。

 贖罪と、深い愛情の祈りだった。

 シグナスは痛いほどそれがよく分かった。

 レフィーナのことは、シグナスが一番よく知っている。


 城のことは部下たちに任せて、剣を持ちヘルグラシアの祭壇へと向かった。

 シグナスを迎え入れるように――扉は開かれていた。


 シグナスは冥府に降りた。

 数々の試練を乗り越えて、そして、とうとう巨大な蛇の姿をした冥府の王ヘルグラシアを調伏することに成功したのである。


『ここまで来たのは、お前が二人目だ。我はかつて、アルケイディス王と契約をした。国を豊かにする代わりに、贄をささげよと。今にも滅びそうな小国の王だった。アルケイディス王は、美しい女を連れていた。我はその女ほしさに、契約をしたのだ』


 人はどうせ、やがて死ぬ。

 ならば聖女の力が尽きる前に、贄にささげよと。

 それはヘルグラシアにとっては、簡単な契約だった。

 だが――アルケイディスは約束を違えた。


『――滅びる寸前に、レフィーナが捧げられた。だが、国を滅ぼすのは我ではない。手遅れだっただろう。お前が、アルケイディスを滅ぼしたのだ。お前はここまで来て何を望む? 代償さえ払えば、契約をしてやろう』


「そんなものはいらない。俺の望みはただ一つだ。レフィーナをかえせ。神の力などなくても、人の力で国は治められる。お前も共に来るがいい。人は神などなくとも生きていける。どんな境遇でも、そう望めば、善良でいることができる。それを、俺の傍で見ていろ」


 ヘルグラシアは、興味深そうに頷くと、シグナスに従った。


 ヘルグラシアをつれて城に戻ったシグナスだが、ヘルグラシアの姿はシグナスにしか見えていないようだった。神など連れて帰れば、神の力で国を治めることになる。

 だから姿を見せるなと、シグナスが命じていたからである。


 これで、きっと。

 レフィーナは目覚めて、俺の名を呼んでくれる。

 もう、彼女を苦しめる者はいないのだ。

 だが――レフィーナは、目覚めなかった。


「何故だ。お前はレフィを返すといっただろう!」

『レフィーナが目覚めたくないと望んでいるのだ。彼女にとってこの世界は、苦しいものでしかない。であれば、幸せな夢の中に微睡んでいたいだろう』

「レフィ……お願いだ、目覚めてくれ。レフィ!」


 全ては――レフィーナを見捨てた自分のせいだ。

 

 シグナスは祈り続けた。

 朝目覚めたらおはようといい、クリスタルに口付けて、夜になると今日の出来事を話してきかせた。

 ベッドではなく、クリスタルの傍で眠った。

 

「レフィ、愛している。ずっと一緒だ、レフィ」


 そうして――五年、経っていた。

 国政も落ち着きをみせている。アルケイディス人と他人種の軋轢はまだ残っているが、シグナスの治世は皆を平等に扱うものだった。


 貴族の圧政に苦しめられてきたアルケイディスの民は、最初はシグナスの存在に懐疑的であったが、今は――シグナスが目覚めない聖女を傍においている、その聖女はアルケイディス人のレフィーナであると公表したことで、信頼を得られた。


 目覚めぬ贄の聖女を愛し続けているシグナス――ラインハルトの物語は、吟遊詩人によって新生アルケイディス王国全土に広まった。


 五年も経てば愛も冷めるのではないかと、シグナスの配下たちは思っていた。

 だが、そんな気配は一向になく、シグナスはレフィーナをまるで生きているように扱っていた。


 過去、レフィーナがシグナスに与えてくれたものを、すべて返すように。

 それ以上の深い――執着にも似た愛情を、レフィーナに捧げていた。


「……シグナス」


 そして――五年目の、春である。

 小さく可憐な声と共に、クリスタルにひびが入った。

 

 クリスタルの棺は砕け散り――シグナスは、レフィーナを泣きながら抱きしめた。




 

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[良い点] すごく好きなお話しでした! ありがとうございます! その後のイチャイチャな2人を読みたいです。
[良い点] 良い話でした
[一言] やば、泣きそう
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