第2話 奴隷王
アウレア帝国では太陽と月は何よりも神聖視されており、その二つを模ったアウレアの紋章を持つことは如何なる者であろうと許されていなかった。しかし、先代皇帝に仕えた帝国軍最高位——たった二人の大将軍だけが、アウレア史上初めて太陽と月の紋章を与えられたという。
アウレア建国祖三雄神の再来と謳われ、大陸史上最強の生物兵器と現在も恐れられる二人の帝国大将軍の片割れ——それがアウレアの月紋章を持つ〝奴隷王ミデン〟である。
(あの鎧、帝都の神殿に祀られている月紋章と同じ紋様で間違いない……あれが、建国祖たちに並ぶ現代の英雄……!)
現皇帝の即位より姿を消していた二人の大将軍だが、現在でも帝国の多くの人々が現人神のように讃えるほどであり、まさに生ける伝説。そんな伝説の双璧を成す大将軍の一人と、このような戦場で初めて見えることができるとは思いもよらない。
カナリニは、まるで旧友の如く話しだすロホ将とミデンの異様さにも構わず、ただただ二人の会話に聞き入ってしまった。
「それにしても久しいな。またロホ王の子守りの延長線か? レイモンド」
「……貴様は荒神爺から解放されたようだな。大病を患って隠居したと聞いていたが」
「噂如きに踊らされてんじゃねぇよ。それで術師隊も率いずアウレアを攻めに来たのか? そんなことをしていると三国揃って国ごと滅ぼされるぞ、俺に。馬鹿か」
「同感だ。……現に、貴様の〝神器グレイプニル〟で我が軍の主力は全滅した。これは三国共々、多大なる損害に値する……ふざけおって」
「グレイプニルに対抗できる、術師の一人でも連れてこなかった馬鹿が悪い」
〝神器グレイプニル〟とは、奴隷王ミデンだけが扱えるという呪いの秘宝。別名、〝月の銀弦〟とも呼ばれていた。硬度に長さ、伸縮性、形さえも自在に操れるという神器は、封印術に結界術といった特異な力と術を習得した〝術師〟と呼ばれる者だけが唯一対抗できるとされる。
カナリニは、先ほどまで頭上で舞っていたはずの銀糸が、今はミデンの周囲をふわふわと漂っているのに気が付いて、あの銀糸こそが神器グレイプニルであったのだと悟った。おそらく、数百人の騎兵隊を一瞬で真っ二つにするという人智を超えた離れ業も、神器グレイプニルを操るミデンが成した神業なのであろう。
「……世間話はここまでだ。レイモンド、お前は三国の連中の中でも一番話ができる。だからお前が選べ」
ミデンの有無を言わせないような物言いに、ロホ将レイモンドは微かに眉を顰めながら小さく鼻から息を漏らした。
「やはり我が連合軍の総司令と見える気はないか……して、何を選べと?」
「今すぐ三国連合全軍を撤退させるか——全軍全滅、加えてロホという国が亡びるか」
レイモンドの顔は僅かに青ざめ、さらに険しさが増した。
カナリニも血の気が引く思いで、小さく息を吞む。このミデンという男は、帝国軍第二軍団でも劣勢を強いられる三国連合軍を全滅させるどころか、一国をも滅ぼせると、容易く言いのけたのだ。大陸最強の生物兵器——そう恐れられる英雄の行き過ぎた強大さが垣間見える。生物兵器という悪名でさえ、今のカナリニには可愛く思えた。
カナリニは、戦慄せずにはいられない。この場で繰り広げられているのは、言葉無き戦でも、敵同士の歪な世間話でも、生物兵器の性質の悪い冗談などでもない。これは——一武将が請け負うには重すぎる、国家の存亡をかけた〝政〟の駆け引きであった。
「……つまり、言いたいことはこうか? 我々三国に選択肢はない……この十数年続く大陸大戦の中で幾度も我らが国土を侵略、蹂躙してきた貴様らアウレアの侵食をこのまま指をくわえて眺めていろ……と?」
「いいや違うな、レイモンド。お前が国と共に生き延びるか、国と共に死ぬか、だ」
レイモンドは激情を堪え、歯を食いしばりながら馬上のミデンを睨み上げると、やりきれないように頭を振る。
「先代のゼニウス帝は! 貴様らという最悪の生物兵器を駆使して、明らかに三国を侵略するつもりだっただろう! 今は皇帝がすげかわったが、貴様ら侵略者は必ず先代の志を継ぐはずだ……特にミデン! あの荒神、ゼニウス帝の犬だった貴様なら、そう考えているのではないか!?」
レイモンドのまくし立てるような糾弾を最後まで聴き終えると、ミデンは一切迷うこともなく「俺の考えは」と口を開いた。
「三国の侵略はするべきではない。先代皇帝陛下の在位中、近年のアウレアではほとんど戦どころか交易の記録すらなかった、北のエーディーン王国と東のヴィーザル神聖国の連中と戦り合ったんだが……奴らの軍事力の底が計りきれなかった。俺の推測じゃ、アウレアと唯一張り合える西の超大国フランベルジュと同等の国力がある。こういう危うい無知を放っておくと、行き着く先は破滅だ。アウレアは、あの得体の知れない二国を知る必要がある——そこで、北と東の大国連中の隣人であるお前ら中央三国の存在は、これからの大陸情勢の均衡を保つための〝緩衝材〟として重要になってくるわけだ。お前らを滅ぼすのは容易いが、閉ざされた北と東の繋がりを直接的に持ってきたお前らは、無二の存在。国土なんぞを広げることよりも断然価値があると、俺は思う」
淀みなくミデンはそう言い切ると、兜の中で小さく欠伸を嚙み殺したようだった。
「それに、現皇帝陛下も俺と同じような考えだろうな。ここ数年の戦の運び方を見りゃわかる。お前ら三国もアウレアからのちょっかいが暫くないから、調子に乗ってこんな馬鹿やってんだろう。先代が好んだのは戦だが、現皇帝陛下のお好みは、国だ。それで、俺はその愛国心とやらの深い皇帝陛下のお達しで、わざわざこんな辺境を通って帝都に向かってんだよ。……面倒になってきたな。建前で一応脅したんだが、もういい。レイモンド、三国連合を撤退させてくれないか」
レイモンドはしばらく口を開いて、面食らったような表情で固まっていたが、すぐに神妙な顔をしてミデンに尋ねる。
「……貴様らが、もう三国を侵略する気が無かろうと。我々のアウレアに対する憎悪は根深く、決して消えることはないぞ」
「憎悪だ愛だ怒りだ……そんなもので国は守れんだろ。などと言って、生物兵器で仇敵の捕虜に堂々と説教垂れることができる野郎だから、俺はお前を選んで話をしに来たんだぜ。レイモンド」
そしてミデンは「人を見る目も、大陸一の自信がある」と得意げに笑う。レイモンドはそんなミデンを見てしばらく黙り込んでいたが、ついに観念したように瞳を伏せて、「承知した」と頷いた。