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アマルティアの少女  作者: 根占 桐守 (かやま)
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第1話 金糸雀

 もう、もとの世界の色も、音も、匂いも。何もかもを思い出せないかもしれない。


 今日は曇天だったのだろうか。空は味気の無い灰色一色。絶え間なく鼓膜を揺さぶり続けるのは、男たちの雷のような怒号と、部下たちの断末魔。鼻腔にこびりつくのは、肉と鉄と泥の混じった吐き気を催す臭気。

 狭まって、霞む視界はやはり灰色だが、部下たちの散らばった肉と臓物の赤だけは、はっきりと理解できて、脳を焼く。その赤だけを頼りに、今にも飛びそうな意識を繋ぎ止め、錘を吊るしたように鈍い腕を振り上げると、眼前に迫りくる怪物のような顔をした敵兵共を次々に叩き斬った。


「カナリニ隊長!」


 部下の呼び声に振り返った少女——カナリニは、敵兵を屠った剣を力強く振って、血を払った。まるで金糸雀(カナリア)のようだと、常日頃から人々に喩えられる美しい金色の髪にはまばらに血の赤が散っており、白い肌は血の気が引いてさらに青白く、泥と血に汚れている。快活そうな茶色の瞳は焦点が合っておらず、今にも崩れ落ちてしまいそうな酷い顔であった。


「隊長! 戻ってください!」


 カナリニに呼びかけた男兵は、慌てて彼女に駆け寄って、その肩を掴む。鎧が砕けて露になったカナリニの肩はぞっとするほど細く、十四の少女とは思えない凄絶な表情を載せた顔も相まった歪さに、男兵は小さく息を吞んだ。


「……いくら何でも無茶しすぎです! 隊長もいったん本陣の方へ退きましょう!?」

「いいえ、退かない。何度も言わせないで……私は、敵の主力部隊を少しでも削る」


 少女らしからぬ殺気が迸るカナリニの視線は、こちらに迫りくる巨大な騎兵たちの群れを射殺すように捉えていた。カナリニの何倍もの体躯を誇る巨漢たちで編成された騎兵たちは、大陸中央部の三国それぞれの鎧を纏う、名の知れた豪傑たち。

 敵はカナリニの祖国、大陸南部一の超大国——アウレア帝国の領土を侵さんとする、三国連合軍であった。

 カナリニが属するアウレア帝国第二軍団は、帝国の北端に位置する国境線にて何か月にも渡る防衛戦の最中にある。


「隊長一人で、あの三国連合の猛者共相手に何ができるって言うんです!? いくら隊長が百年に一人の逸材だからって、死んじまうに決まってます! とにかく今は本陣の守りに徹して、機を図りましょうよ!」


 男兵は必死の形相で、カナリニを近くにあった古い遺跡の壕に引き込んだ。だが、カナリニは定めた敵から片時も視線を外すことなく、断固として首を横に振る。


「あの騎兵隊は、ここ右翼の前方を食い破って本陣を横から狙うつもりだ。疲弊しきった私たちが加わって守りを固めようと藁の楯……あの突破力では、下手をしたら本陣に辿り着かれる。それなら、今のうちに少しでも敵方の主力を削る必要があるでしょう」


 カナリニは男兵に淡々とそう言って聞かせながら、鋭く指笛を一つ吹いて小さく笑った。


「それにしても……この大陸大戦の中で、最強と長く称された帝国軍が、三国連合如きにここまで乱されるなんてね。我らが将軍様も及び腰のご様子だし。もしかすると、私たちは大陸史にまで残る歴史的瞬間に居合わせているのかもしれない」

「無敗を誇ったアウレアの……歴史的な大敗、ってことですか……?」


 男兵は怯えたように小さく呟いて「笑えない冗談、やめてください」と、両手で顔を覆う。

 カナリニは指笛に応えて駆けつけてきた自分の馬をなだめながら、絶望したように俯く男兵の背中を力一杯叩いた。そして、びくりと身体を震わせて顔を上げた男兵の胸倉を掴み上げる。


「我らがアウレアの歴史的大敗? 容易くそんな馬鹿を言わないで。この防衛戦での歴史的瞬間というのは——私があの三国連合の主力を打ち破った時だ!」


 カナリニの茶色の双眸にはいつもの快活さが耀き、張りのある声は気高さで満ち満ちていた。


「私が、アウレアの英雄となる——建国祖がひとり、アマルティアに並ぶ大英雄に……!」


 それはカナリニの口癖であったが、いつ聴いてもその力強い言葉には、不思議と説得力があった。男兵は、光が弾けるカナリニの金髪と、その金色の奥で燃える茶色の瞳に魅入られながら、涙目で何度も頷く。カナリニは顔を緩めてまた小さく笑うと、男兵に自分の馬を託した。


「動けない者たちも連れ、本陣へ急ぎなさい。私は三国連合軍主力と思われる敵兵に奇襲を試みる」

「わかりました。……カナリニ隊長、ご無事で……必ず、あの腰抜け将軍をうちの部隊の皆で揃って、笑ってやりましょう」

「それ、最高ね」


 カナリニは思わず噴き出して笑いながら一言溢すと、颯爽と壕の外に躍り出て、乱戦の中に姿を消した。


          ○


 赤の染みついた地面に耳をつけると、小刻みの振動を頬に感じる。徐々に強くなる振動と、近づいてくる大量の蹄の音。カナリニは閉じていた眼を開けて、積み重なった死体の下から戦場を睨みつけるように凝視した。


(来た。……アマルティアの加護よ、アウレアの全ての剣に力を)


 内心でそう呟いた瞬間、視界の端に馬の頭が映る。

 カナリニは自身を覆っていた死体を跳ね除け、近くにあった敵兵の首を引っ掴み、先頭を走る馬の頭目掛けて投げつけた。すると、首を目に喰らった先頭の馬はひるんで棹立ちになり、騎兵たちの隊列が僅かに乱れる。

 その隙にカナリニは息を潜めて足の緩んだ騎兵隊に近づくと、一番近くにいた騎兵の馬に飛び乗った。


「!? なんだ、きさ」


 こちらを振り返った騎兵の首を瞬時に撥ね飛ばし、首無しの身体も捨て去って馬を完全に奪う。

 そうしてカナリニは器用に手綱を捌きながら、隊列が乱れたことに気をとられ、未だカナリニの存在にすら気付かない周囲にいた騎兵たちを、目にも留まらぬ速さで次々と斬り殺した。


「おい、敵兵が紛れているぞ! その金髪だ! 殺せぇ!」


 しかし、十人近くを斬り伏せたところで、カナリニはあっという間に敵の騎兵に囲まれてしまう。咄嗟に敵の囲いから脱しようと手綱を繰るが、その前にカナリニの乗っていた馬の身体があちこちから槍で貫かれる。カナリニは暴れた馬から落馬し、血だまりの地面に転がった。

 すぐさま立ち上がろうとするが、右手にあった剣は弾き飛ばされ、地に支えとしてついていた左手はグリーブに踏みつけられる。


「娘……しかも、顔つきからして子どもではないか」


 落ち着いた低音の声が頭上から降ってきて、カナリニはわざわざ馬から降りてまで自身の手を踏みつけてくる男を睨み上げる。

 そこにいたのは三国連合が一国、ロホ王国の立派な鎧を身に纏った中年くらいの男であった。佇まいと鎧から見て、おそらくロホ王国でも将軍格にあたる老練の武将なのだろう。

 ロホ将はカナリニの顔を覗き込むや否や、その静かな眼差しに憐みのような色を浮かべる。そしてカナリニの手を踏みつけていた足を退かすと、代わりに矛の切っ先をカナリニの細い首に突き付けた。


「忌々しきものよ……アウレアは未だ子どもを戦に使うのか。なんと愚かな……その愚かさゆえ、あのような哀しき凶将たちが産まれてしまったというのに」


 ロホ将はカナリニを通して、何やら遠い昔を思い出しているようだった。カナリニは敵兵から向けられた憐みの情を感じ取ると、みるみるうちに身体中が激情に支配され、首筋に当てられた矛の刃を腕で振り払う。怒り狂った獣の如き眼をしたカナリニと目を合わせ、ロホ将は諭すように静かに宣告した。


「たとえ子どもであろうと、そなたはこの戦場においてはアウレアの勇敢な戦士。ここで死ぬことに変わりはない。悪く思うな」

「……ただで死んで、たまる、か!」


 カナリニは矛が振り上げられるのと同時に、隠し持っていた短剣を構え、ロホ将に飛び掛かろうとする——が。


 キン


 竪琴の高音が弾かれたような、そんな美しい弦の音が耳を刺す。儚くも感じる高音は耳鳴りのように鼓膜に残り続けるが、代わりに今までこびり付いていた人々の怒号や断末魔が剥がれ落ちて、無性に心地よい感覚だった。

 瞬きをするよりも短い、たった一瞬。たった一音。

 その場にいた全ての騎兵たち、あわせてカナリニとロホ将さえも互いに動きを止めて、弦の音と残響に聴き入ってしまう。


「こ、れは——月の銀弦(ぎんづる)


 ロホ将は空を見上げて、ぽつりと小さく呟いた。つられてカナリニも空を仰ぐと、きらきらと煌めく銀色の糸のようにか細い筋が、幾本も頭上を舞っているのが目に入る。

 広大な青に映える銀色の煌きを目にしたことで、カナリニはしばらくぶりに鮮やかな空の青さを思い出すことができた。


「——伏せろ!!」


 ロホ将のひどく焦燥を纏った一声で、カナリニはようやく我に返った。そして、反射的に言葉通りその場に伏せる。


「な……!?」


 カナリニは思わず引き攣った驚愕の声を小さく上げた。なぜなら、目の前に騎兵たちの上半身だけが、ずるりと次々になだれ落ちてきたからだ。

 何が起きたのか確かめるため咄嗟に立ち上がるが、すぐにカナリニの身体は石像の如く固まってしまう。己の前に広がる光景の悍ましさに、カナリニは自身の眼を疑わずにはいられなかった。

 見渡す限り全ての馬上の騎兵たちが、上半身のない真っ二つの状態となって死んでいる。唯一生き残ったのは、馬上にいなかったカナリニとロホ将だけであった。

 三国連合軍の精鋭を集めた主力部隊、数百人のあまりにも凄惨な死に様と、今までに体験したこともない奇怪な現象に、カナリニは呆然と立ち尽くす。


「ようやく、話のできそうな野郎に会えた」


 不意に、背後からロホ将とは違う、若い男の声が掛けられた。


「やはり、これは貴様の仕業か……〝奴隷王ミデン〟」


 男の声にいち早く応えたのはロホ将。カナリニはロホ将の口から出た〝奴隷王ミデン〟という名が耳に入った瞬間、思いがけず弾かれたように背後を振り返った。

 そこで恐ろしいほど静かに佇んでいたのは一騎の騎馬。馬上には、〝アウレアの月紋章〟が模られた灰色の鎧兜を顔から全身に纏った男。


「ああ。首だけ撥ね飛ばしたつもりだったが——戦場から長く離れていたもんだから、身体が鈍ってんのか。どうも手元が狂ってならん」


 ロホ将に〝奴隷王ミデン〟と呼ばれた男は、どこか苦々しい様子で小さく息を吐きだした。

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