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アマルティアの少女  作者: 根占 桐守 (かやま)
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序章 鳥の少女

 擦弦楽器の甘やかな旋律。

 耳を擽る横笛のさえずり。

 胸を高鳴らせる人々の手拍子と踵の振動。

 豊かな音で編み込まれる祭囃子に包まれた身体は、泣きだしたくなるほど思うように動かない。戦場でのこの身体は、世界中を駆け回れるのではないかと思い違いをするくらい、自由に、思うがままに生きるというのに。


「トリ——おい、クソドリ」


 肩を叩かれて、祭囃子によって身体をきつく覆っていた見えない膜が途端に弾け飛ぶ。

 少女をトリと呼ぶのは、世界でたった一人。少女は、まるで金糸雀(カナリア)のようだと常日頃からよく喩えられており、彼はそれに因んで少女をトリと呼ぶのだ。かつては名で呼んでいたのに、今はめっきりない。

 少女は小さく息を呑んで、近くの出店から自身の隣に戻ってきた男に顔を向けた。いつも無駄に整っているはずの、後ろになでつけた柔らかそうな髪が人混みで乱れるのも構わず、男——ミデンは片方の口角をニッとつり上げた。いつもと変わらない、らしいその笑い方に少女はまた微かに息が詰まる。


「なに泣いてる。トリは祭りがすきなんだろう? ……それとも、人に酔ったか」


 少女は僅かに水の溜まった眼をしばたかせ、緩く頭を横に振った。同時に、くう、と腹の虫が小さく鳴く。周りの雑踏の音に紛れたかと思ったが、ミデンは耳聡く少女の腹の虫の声を拾い上げ、鼻で短く笑った。


「食ってみろ」


 ミデンが少女を待たせて出店で買ってきたのは、香ばしい焼き菓子の詰め合わせ。紙袋に詰められた菓子の柔らかそうな生地の表面からは、細かく刻まれた胡桃や干し果実がまばらに覗いていた。

 ミデンはその一つを指で摘み取ると、少女の口元に押し付ける。少女は戸惑いながらも小さく口を開けて、焼き菓子を頬張った。

 生地はとろけるようにふわふわなうえに甘さが控えめで、胡桃の歯ごたえと干し果実の凝縮された甘味を、なめらかに包み込んでいる。


「美味ぇな」


 ミデンも少女に続いて焼き菓子を口内に放ると、眼を細めて満足そうに一つ頷く。少女は同じように焼き菓子を頬張っているミデンの横顔から目が離せなくて——しかし、見ていられなくて、血が滲むほどに唇を噛みしめながら思いがけず俯いた。

 眼と鼻の奥と、頭の中が灼き爛れたように熱い。胸が、心臓が剣で突き刺されたように激しく痛む。

 戦場でどれだけ剣と槍に身を貫かれようと、無数の矢の雨に打たれようと、殺した人間の断末魔と血と肉片と臓物を浴びようと、少女の魂が揺らいだことはなかった。

 だが、身勝手にも少女とミデンを祝福するように思える、世界を覆う祭囃子と共に。焼き菓子を頬張って、ニッと片方の口角をつり上げたミデンの横顔を目にしただけで。少女の魂は震えが止まらぬほどに揺さぶられて、掻き乱される。


「……だから、何で泣くんだよ。クソドリ」


 少女は、ミデンの前では泣いてばかりだった。今では見慣れた、大粒の涙が少女の白い頬を伝ってとめどなく溢れ落ちる様を見て、ミデンは呆れたように息を吐く。


「お得意の泣き芸は明日にとっておけ」


 ずぶ濡れな犬のように頭を振って、溢れる涙を振り払おうとしていた少女の顔に腕を押し付けると、ミデンは彼女の濡れた顔を乱暴に拭ってやった。


「そういや、てめぇ名前はどうするんだ。結局、最後は自分で決めるんだろ?」


 ミデンは少女の顔を拭ってやった袖もそのままに、焼き菓子を口に放りながら少女に首を傾げて見せる。すると少女は擦られて赤みを帯びた眼を一つ瞬かせ、もう決まっている、と淀みなく答えた。


「へぇ? 絶対トリのがいいと思うがな、俺は」


 そう挑発的に笑って見せるミデンは、少女のよく通る澄んだ声が続きを語るのを待って、耳を傾ける。ミデンはどこか落ち着きがなく、秘密を打ち明けられるのを前にした少年のような眼で少女の言葉を大人しく待っていた。

 少女は、そんなミデンの少年のような顔を密かに脳裏に焼き付けながら、その名をミデンへと真っ直ぐに突きつける。


 ——アマルティア。


 ミデンは宝珠のように美しい色の瞳を、零れそうなくらいに目一杯見開いた。

 途端に微かに顔を歪めて一度瞳を伏せると、ゆっくりと細くて長い息を漏らしてゆく。そして、乱れて前に垂れてきていた髪を掻きあげながら、どこか悲しそうで、寂しそうな——しかし、ほんの少しだけ、嬉しそうな。

 そんな、様々な感情の色が綯い交ぜになった声で、低く笑った。


「本当……どうしようもねぇな。てめぇは」

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