優しい風
外から微かに聞こえる五時のチャイムでふと目を覚ます。
普段は気にもしない音なのに、今日はなんだか胸に残る。一仕事終え、気づけば寝てしまったらしく、外はもう日が沈み始めている。寝起きにもかかわらず、なんだか頭が冴えている。このまま、仕事に戻ればいいのに、俺はコートを手に取り、冬には寒すぎるであろう草履をはいて扉を開けた。
この辺に引っ越してから早1年ほど。近所にコンビニも店もなく、ただ街灯がぽつぽつと並んでいるのみ。家も建ち並んでいるが、ほんとに人が住んでいるのかも怪しくなる程古びた家が多くある。そんな何もないところでも、住むに決め手だったのは、歩いて五分ほどにある、この海の景色だった。何も考えず、ただのんびりと塀に腰を掛け佇むのが唯一の癒しであり、自分に向き合う時間だった。遠くを見つめ、波の音を聞き続ける。
その時ふと、風が体に吹き付けた。
「はぁ…」
白い息と共に、胸に引っかかる思いを吐きだそうとする。吹き付けた風と共に思い出した記憶。いつまでも答えの出ない問いを自問自答し、真っ暗な時間を繰り返す。俺はふと目を閉じた。
なぜあの時、君は泣いていたの
嫌だと感じたのなら、それで良い。一緒にいるのが辛くて、苦しいのなら俺はその決断で構わない。悲しくないと言ったら嘘になるが、君が望むことに応えられるのならその結果に悔いは無い。無いはずなのに。さよならと言ったのは君なのに。なんで泣いていたの。
自分のことより人の気持ちを優先することが彼女の悪い癖だった。自分の感情を殺してでも人に寄り添い、笑顔で居続ける彼女に惚れ、そして心配でもあった。人前では笑い続ける。俺の前でもそうであった、そんな彼女の最後に見た姿に何も言葉が出なかった。優しくて、優しくて、どこまでも優しい彼女を見ていて、とても苦しかった。
その涙を見て以来、彼女の顔を見ることは無かった。共通の知り合いもいない俺らは、お互いが何をしているのかも知らない。きっとこれからの人生も。
お互いが一緒に過ごした時間なんて傍から見たら短くちっぽけな時間に思えるだろう。彼女を知っているつもりになっていたことも今となっては愚かだったとさえ思う。でも、あの時間は決して他に代えられるものではない。帰ってくることのない、嘘偽りない、二人だけの時間。その時間の重さが、深さが、あの涙を鮮明にさせる。
いつか、そんな記憶さえも忘れてしまうんだろうか。いや、また。きっとまたあの優しい風が運んでくるだろう。
そんなことを考えながら、目を開けるといつの間にかあたりは薄暗くなっていた。いつもこんな感じでひとたび考え出すと文字通りあたりが見えなくなるのが俺の悪いところだ。
「さぁ、帰りますか…」
ぼそっとつぶやき、俺は、塀から腰を上げた。