97 諦めない①
再開がだいぶ遅くなりました。
雨が降っている。
ざぁざぁと、無数の雨粒がうるさいほどに降っている。
水たまりに赤い血が混ざり、流れていく。
雨の中に倒れた人影は、動かない。
体を支配していた熱が、雨によって冷えていく。
雨が降りしきる中、動かない人影をもう一度確認する。
もう二度と、起き上がることはない。
どこかで、子供の声が聞こえた気がした。
「旦那様がお呼びです」
窓を打ち付ける雨の音に、男の声が混ざる。
この家で「旦那様」と呼ばれるのは、ここ数十年ずっと変わらず1人だけである。
日本でも有数の財閥のトップに君臨し続け、一族の中でも不動の立ち位置にいる。
一族の誰も、その人物には逆らえない。
「今行く」
清仁は席を立つと、父親がいる書斎へ向かった。
窓の外は雨が降り、空は黒い雲が覆っている。
廊下を歩く足音は、空間に反響して消えていく。
書斎の扉をノックすると、中から父親の秘書が現れる。
案内されて中に入れば、書斎の奥に不機嫌そうな老人が座っている。
清仁の父、久遠栄太朗である。
「何か、御用でしょうか」
不機嫌な目は、そのままぎろりと清仁を睨みつける。
「また失敗しおったな」
主語も目的語もない文章でも、何のことを言っているのか分かる。
ここ10年ほど、同じ言葉を繰り返し聞いてきたからだ。
「お前は相変わらず、役に立たん」
吐き出されるように言われる言葉も、今までに何度も聞いてきた言葉だ。
栄太朗にとって、息子というのは自分の駒の1つである。
血が繋がっていることも、家族という関係性であることも、栄太朗にとっては駒の性能の1つに過ぎない。
駒は、自分の思う通りに動くもの。
思うように動かなければ、価値はない。
「先の体育祭の時もそうだった。結局何の収穫もないまま、のこのこと帰ってきおって。お前は役に立ったためしがない」
清仁は何も反論せず、叱責を受け続ける。
清仁に向ける怒りからふと思い出したように、栄太朗は尋ねる。
「あれはどうしている」
「おそらく、女の所かと」
ガンッと机を叩く音が部屋に響く。
老人とは思えないほどの重い拳から、肌にビリビリと怒りが伝わってくる。
「お前たちは、何故ここまで役に立たない。仮にも、私の血を引いているというのに」
栄太朗には、息子がいる。
しかしその息子たちが、栄太朗の期待に応えたことはない。
駒としては使えるが、堅物すぎて融通の利かない長男。
何を考えているのか分からず、駒としても扱いづらい次男。
栄太朗のもとには、こんな失敗作の駒しかいない。
だからこそ、栄太朗はあの娘を手に入れなければならない。
誰よりも優秀な駒となりえる、あの娘を。
「一刻も早く、あの娘を手に入れろ。周りがどうなろうと構わん」
「分かりました」
清仁はいつものように頭を下げると、書斎をあとにした。
自分の仕事部屋へ戻りながら、さてどうするかと考えを巡らせる。
あの娘は、簡単にはこちらの手に落ちない。
誘拐しようとしても本人によって全て防がれ、武術の達人を何十人送ったところで全員返り討ちにされる。
多少傷付けても構わないと強行策をとっても、あの娘の身に傷1つ付いたことはない。
周囲の人間を人質にとれば多少は行動を制限させられるが、そもそもあの娘の周りには人質になりそうな人間が少ない。
家族だと、祖母と兄だけ。
交友関係も狭いので、人質の価値として高い人間は数えるほどしかいない。
そしてまず、あの娘の居場所を突き止めるだけでもかなり困難である。
登校日であっても学園に姿を見せず、屋敷を何日も見張っても姿を見せない時もある。
翠邸は簡単に侵入できる場所ではないし、静華学園は翠弥生とつぼみによって守られている。
『いや、それを逆手にとれるか』
学園内で直接手を出すのは難しいが、間接的であればいくらでも手を出すことができる。
学園のどの人間を買収するかと考えたところで、ふと1人の人間を思い出す。
『あれにやらせるか』
そういえば、学園の生徒にこちらの手の者がいたことを思い出した。
どこまで使えるか分からないが、この機会に一度試してみるのもいいだろう。
失敗したところで、所詮は駒。
すぐに捨てられるものなのだから。
7月に入り、太陽から降り注ぐ陽射しはジリジリと強さを増している。
まだ梅雨明けしていないため、蒸し暑い日々が続いている。
『あつい…』
木の葉の間から漏れる陽射しの眩しさに、純は目元を手で覆う。
授業をさぼって木の上で昼寝をしていた純だったが、今日は天気が良いのでだんだんと気温が上がってきたようだった。
木の上が好きな純ではあるが、太陽の陽射しは苦手である。
目の色素が薄いせいで、太陽の光が眩しいのである。
雲1つない空を見て今日は木の上でさぼるのは諦めて、校舎の中に入ることにした。
図書室へ行くと、ちょうど雫石がカウンターで本の手続きをしているところだった。
カウンターに積まれている本の山を見て、純は少し眉をしかめる。
「雫石」
「あら、純」
純の声に気付いて、雫石が振り返る。
「借りすぎだよ」
カウンターの上には、分厚い本が雫石の半身くらいの高さまで積まれている。
「読みたい本がたくさんあって、選べないの」
雫石はよく図書室を利用しているのだが、いつも自分が持てるギリギリの重さまで借りるのだ。
そのせいで本を借りた日は腕を痛めていることが多いのだが、分かっていてもなかなかやめられないらしい。
それにしても、今日はいつもより少し量が多かった。
「よくここまで持ってこれたね」
「男の子が、ここまで運ぶのを助けてくれたの」
その言葉に、純は雫石をじっと見つめる。
「何もされなかった?」
雫石は純を安心させるように、微笑む。
「えぇ。大丈夫よ。とても親切な人だったわ」
「そう。ならいいけど」
体育祭の時もそうだったが、雫石は男子に狙われやすい。
雫石に好意を持つ男子の中には、雫石の気を惹こうとして強引な手段に出る者もいるのだ。
今日のようにただ雫石を助けただけの男子の方が、珍しかった。
雫石が手続きを終えたのを見て、純は雫石が借りた本の半分以上を持つ。
「純、大丈夫よ。私1人でも持てるわ」
雫石はそう言っているが、積み重なった本は雫石の身長の半分はあるのだ。
雫石の腕力を考えると、少し無理がある。
「それに、図書室に来たばかりでしょう?」
「さぼりに来ただけだから」
高等部の図書室にある本は全部読み切っているので、今さら用はない。
新刊が入った時にたまに読みに来るくらいである。
今日は外が暑くなって来たので、冷房の効いたところでさぼろうとして来ただけだ。
雫石は純の言葉に少し呆れたように笑うと、残りの本を持って純の隣に並んだ。
「ありがとう、純」
純は、それに応えるように頷く。
図書室を出て、2人で本を抱えながら廊下を歩く。
「この前純に借りた本、とても面白かったわ」
「また家にあるやつ好きに持っていっていいよ」
「ありがとう。嬉しいわ」
純の家には大規模な図書館レベルの蔵書があり、そのほとんどが祖母である理事長が世界各地で集めてきた珍しい本ばかりなのである。
日本では読むことが難しい本も多いので、雫石もよく借りて読んでいる。
「最近のおすすめの本はある?」
純は、記憶を辿るように少し首を傾げる。
純は本をよく読むが、目的は情報を得ることなので好き嫌いはない。
おすすめの本と言われても特にないのだが、記憶の中から1冊の本が思い浮かぶ。
「この前おばあちゃんが買ってきた中に、絶版された古い旅行記があったよ」
中東地域の古語で書かれた、無名の著者が書いた百年ほど前の古い旅行記だ。
絶版しても仕方ないような、誰が読むのかよく分からない本だが、雫石は興味がありそうだった。
雫石が最近、旅行記や風土記をよく読んでいるのを純は知っている。
「じゃあ、今度はそれも借りるわね」
純からおすすめされた本に、雫石はとても嬉しそうに微笑む。
「楽しみだわ」
わくわくしている雫石を見て、純は微笑んだ。
何気ない日常に、不穏な影が近付いてきていることにはまだ気付かないまま。




