96 雨⑤
何か、黒くて丸いものが自分を覗き込んでいるような気がした。
それは烏の羽根のような、月も星もない夜空のようだった。
暗く、闇のような色なのに、怖いとは思わなかった。
でも、それは自分から離れていった。
目を開けると、黒髪に黒い執事服を身にまとった男性がこちらを覗き込んでいる。
同じ黒色のはずなのに、あの黒色とは違った。
「お嬢様。ご気分はいかがですか?」
その声で、やっとシロだと認識できた。
肌から伝わる柔らかいシーツの感触から、いつもの自分のベッドだと分かる。
見慣れた天井と壁を見て、自分の部屋にいることも分かった。
『なにが、あったんだっけ…』
自分に残っている最後の記憶を、思い出す。
歩いていて、遠くに黒い雨雲が見えたのだった。
すぐにシロに連絡して、どこかへ雨宿りしようと考えた。
しかし数歩も歩かないうちに、風に乗った水滴が肌に当たった。
そこからは、よく覚えていない。
意識を失わないようにするのに精いっぱいの状態で、どこかへ雨宿りしなければと考えていた。
自分がどこへ歩いていたのかも、よく覚えていない。
肌に当たる水滴の数が増えたあたりから、記憶がない。
『雨が…』
雨が、降っていた。
あの時と同じ、雨が。
純から大切なものを奪っていった、雨が降っていた。
心臓が、大きく跳ねる。
ドクドクと、血の流れる音が耳に聞こえる。
呼吸が浅くなり、手が震える。
「……あめ、が…」
シロは、震える純の手を優しく包み込む。
「大丈夫です。もう、雨は降っておりません。大丈夫です」
優しく、あやすように純に微笑みかける。
それでも、純の瞳から恐怖の色は消えなかった。
「わた、しの……」
純の震える手は、何かにすがるようにシロの手を強く握りしめる。
恐怖で揺れる瞳は、幼い子供のようだった。
シロは、純が何を聞きたいのか分かっていた。
「誰もいなくなっておりません。弥生様も、湊様も、この家の者も。みんな、ちゃんとおります」
それを聞いて、純はやっと安心したように体の力を抜く。
呼吸も安定し、手の震えも消えていった。
『良かった…少し、落ち着かれたようだ』
純は、大切なものを失うことを何よりも恐れている。
それは、大切な両親を失ってしまったからだった。
両親が亡くなった日は雨が降っており、純が目を覚ました時には両親はいなくなっていた。
だから純は、雨の日に記憶を失った時は、必ず自分の大切な人がいなくなっていないかを確認する。
そうしていないと、心を保てないのだ。
純が大切なものを増やそうとしないのは、大切なものを失うことを恐れているからだ。
両親を失った時、純は4歳だった。
目の前で両親を失い、幼い少女の心は壊れた。
感情を失い、泣くことも笑うこともなくなった。
周りの声に反応することも、喋ることもなくなった。
食事もとらず、ただ息をしているだけの人形だった。
そんな状態の純が生きていられたのは、兄の湊の存在だった。
残された家族の存在が、消えそうな純を支えた。
食事をとるようになり、少しずつ喋るようになっても、純の心は元には戻らなかった。
怒ることも、悲しむことも、喜ぶことも、楽しむことも、全ての感情を失ってしまったのだ。
そんな純の心に残ったのが、もう大切なものを失いたくないという想いだった。
大切なものが増えれば、それだけ失う回数も増える。
だから純は、大切なものを増やさない。
自分が守れる範囲だけしか、いらないのだ。
もう一度大切なものを失えば、純の心は今度こそ壊れる。
他人に関心を持たない。
大切なのは家族だけ。
そうやっていないと、純は生きていけない。
静華学園に入学し、龍谷グループ社長の息子に近付いたのも。
2位という成績を維持することで、日本舞踊の家元と政治家の娘に自分への興味を持たせたのも。
純のある目的のためだ。
純にとって、友人というのは自分の目的のために利用するものである。
利用価値がなければ、純はその人に近付かない。
『それでも…』
利用価値のある人物だとしても、純は自分が誰かを傷付けたことを知れば自分を責める。
大切ではない。
どうでもいい。
そう口にしながらも、誰かが傷付くことは嫌がる。
矛盾ばかり抱える純の心は、両親を亡くした時からずっと、いつ壊れてもおかしくないほど傷付いている。
『何も仰らないということは、あの少年のことは覚えていないようだ』
それで良かった。
そのことを覚えていると、純は友人を傷付けたと自分を責める。
今にも壊れそうな純の心が、これ以上傷付くのは避けたかった。
純の心を守りたいシロは、そのためだったら純に真実を隠すことも厭わない。
純はベッドに横になりながら、ぼんやりとどこかを見つめている。
「シロ…」
「はい。何でしょう」
「黒い、ものが…わたしを、見てた気がした。本当に黒くて…漆黒、みたいな……」
そう言いながらゆっくりと目を閉じ、再び眠りについた。
呼吸は落ち着いているが、寝顔はまだ顔色が悪い。
『少しだけ、覚えていらっしゃったか…』
しかし、それがあの黒髪の少年だとは気付いていないようだ。
シロは、まだ自分の手を掴んでいる純の手を、そっと握った。
次の日、純は久しぶりに学園に来た。
いつもと変わった様子はなく、雫石と休んでいた最中のことを話している。
灰色がかった薄茶色の髪はさらさらと揺れ動き、薄茶色の瞳は光を映している。
いつもと変わらない無表情には、分かりづらくも感情が乗っている。
無意識に見つめていると、その視線に純が気付いた。
「何?」
「…いや。久しぶりだなと」
純の視線が、翔平の左手に移る。
「怪我?」
「あぁ。カッターで切ったんだ」
「その頬も?」
「折れた刃が飛んできたんだ」
「ふーん」
純は人の心の機微に疎いが、嘘には敏感だ。
覚られないように、平常心を心がける。
純は翔平の顔を窺い、左手を見る。
「ドジだね」
「俺もそう思う」
そう言うと、純は雫石のところに戻っていった。
何か不審に思われたみたいだが、深く聞かれずに済んだ。
あの雨の中の純は、翔平の知る純ではなかった。
ここではないどこかを見て、子供のように何かに怯えていた。
壊れそうな心を必死に抑えているようだった。
『俺にも、守らせてほしい』
純を守りたいと思うのは、初めてだった。
今まで、自分より強くて能力の高い純を守りたいと思ったことはなかった。
勉強も、運動神経も、あらゆる才能において、純は天才と呼べるほどの能力を持っている。
才能に溢れていて、誰にも負けないほど強い純は、他人に守られることを必要としていない。
それでも、昨日の純を見て、「守りたい」という感情が芽生えた。
いくら強くても、能力が高くても、守らせてほしかった。
その心が壊れないように。
その身が傷付かないように。
その笑顔が絶えないように。
『守りたい』
その想いを、心に刻んだ。
第三章、終わりました。
しばらく、更新をお休みします。
5月頃には、第四章から再開する予定です。




