95 雨④
「お嬢様!」
連絡を受けた場所に着くと、シロはすぐに純に駆け寄った。
純の顔色や脈を確かめ、少し安心する。
かなり長い時間雨にあたっていたはずだが、思っていたより落ち着いていた。
翔平は意識のない純に視線を向けたあと、シロたちに頭を下げた。
「すみません。抵抗されて、止めるために腹を殴りました」
「いいえ。あなたがお嬢様を止めたおかげで、思っていたよりも状態は安定しています」
シロは純を見てから、翔平の頬と左手を見る。
「錯乱したお嬢様に傷を付けずに止めていただいたことには、感謝します。あなたに命があることに驚きましたが」
「………」
翔平は今気付いたが、この執事は自分への当たりが強いと思う。
思い返せば、昔からのような気もする。
シロは翔平の代わりに純を抱きかかえ、翔平にちらりと視線を向ける。
「どうぞ、お屋敷に。傷の手当てをいたします」
「…ありがとうございます」
その視線に優しさが含まれていないように見えるのは、気のせいだと思いたかった。
屋敷に着くと、シロはメイドと共に純を休ませに行った。
早く着替えさせて体を温め、安静にしなければならない。
翔平は血に染まった自分の左手を見ながらどうしようかと考えていると、シロが戻ってきた。
「どうぞこちらへ。すぐに縫いますので」
すぐに治療をしてくれようとする。
しかし、一番最初に手に取ったのは針と糸だった。
『…まさか、麻酔なしで縫うのか?』
疑惑の目を向けると、シロは何もなかったかのように消毒を手に取る。
「さすがにお嬢様を助けたばかりなので、そこまでしません」
『助けたばかりじゃなければ、そこまでするということか』
翔平は、今度から純の家に来る時は身の回りに気を付けようと思った。
「安心してください。そこら辺の医者より、腕は良いですので」
「…よろしくお願いします」
「できるだけ傷跡が残らないようにします」
「…?」
その言い方には、少し疑問を覚える。
麻酔なしで縫おうとしていた人間の言うこととは思えない。
「今回は私の独断で、お嬢様のことについてお話しいたしました。しかし、今日のことは忘れていただきます」
「それはどういう…」
「あの状態のお嬢様を見たのであれば察しはつくと思いますが、おそらく、お嬢様は今日のことを覚えておりません。あなたに会い、あなたを傷付けたことも」
「………」
「雨にあたってしまうと、記憶が飛ぶこともよくあるのです。そして、忘れていることを無理に思い出そうとすると…あまり、よくありません」
シロは、その時のことを思い出す。
以前に純が無理やりに思い出そうとした時は、雨が降っていないのにも関わらず錯乱状態になって倒れた。
「ですから、傷跡が残らないようにします。あなたも、今日のお嬢様のことは忘れてください。そして私が話したことも、お嬢様が自らの意志でお話しになるまで忘れてください。それが、お嬢様のためなのです」
純のため、と言われれば、頷くしかなかった。
「…分かりました」
「ありがとうございます」
シロは、ひとまず安心した。
傷の治療を進めながら、ずっと気になっていたことを聞いた。
「どうして、あの場所にお嬢様がいらっしゃると分かったのですか?」
シロは、翔平がいち早く純を見つけたことを不思議に思っていた。
自分たちも思い当たる場所を探していたというのに、納得できなかった。
純がいたのは、山の中だった。
最後に位置情報を発信した場所からはかなり離れており、何故そんな場所にいたのかも分からなかった。
翔平は、あの雨の中に考えたことを話した。
「純が雨に当たれば、正常な判断ができないかもしれない、と言っていましたよね」
「えぇ」
行きの車の中で、シロが言ったことだ。
「もし雨に当たって正常な判断ができない時、純ならどこに行くか考えました。純が学園の中で姿を消す時は、大体人気のない所にいます。もし冷静に考えることができずにいるなら、本能的に人気のないところを目指すのではないかと考えました」
そう考えて、翔平はあの周辺の地図を思い浮かべた。
「あの辺には、住宅地や商店街がありました。人と会うことを避けるなら、その反対へ行くと思いました」
住宅地や商店街と反対の方向には、山しかなかった。
まさかとは思ったが、正常の判断ができていないなら可能性はあった。
結果、山の麓で立ち尽くしている純を見つけたのだ。
「……そうですか」
シロは、それを聞いて少し気持ちが落ち着いた。
雨の中で姿を消してしまった純を、執事である自分が最初に見つけられなかったことに、自分に対して怒りを感じていた。
主人である純のことはよく見ていたはずなのに、何故純がいる場所が分からないのかと、未熟な自分を責めた。
しかし、自分が家にいる時の純をよく見ていたように、翔平は学園にいる時の純をよく見ていたのだろう。
「改めて感謝いたします。お嬢様を見つけていただいて、ありがとうございました」
「いえ。純が無事で、本当に良かったです」
傷口を縫いながら翔平の表情を見ると、安心したような、それでいて複雑そうな表情をしている。
恐らく、シロが敢えて純のことに関して情報を伏せているのに気付いているのだろう。
純にとって雨が、苦手などではなくトラウマであること。
何故、それほどのトラウマとなっているのかということ。
純を捜す時、シロは敢えてその部分を翔平に伝えなかった。
そして翔平も、気付いていてシロに直接尋ねない。
『さすがに、気付いているか』
それらをシロに尋ねることで、純の引いている一線を越えてしまうことに気付いている。
その一線を越えれば、純は翔平を容赦なく拒絶するだろう。
それは、身をもって知っているはずだ。
尋ねてしまえば、最後だ。
その危うい一線を、ちゃんと見極めている。
いろいろ、聞きたいことはあるのだろう。
しかし、その欲に任せて聞いたら最後だということも分かっている。
考えなしに行動するほど、馬鹿ではないらしい。
『お嬢様への想いを自覚したからか、慎重になっているな』
シロは、当たり前のように翔平の純に対する想いに気付いている。
純に仕え始めた時には、もうすでに気付いていた。
翔平が、純に対して特別な想いを抱いていることには。
ずっとそれを友情だと思っていたようなので放っておいたのだが、最近になって恋愛感情だと自覚している。
以前の翔平なら、シロが断っているのに引き下がらないことはなかった。
雨の中、雨宿りのためとはいえ純を抱きしめるようにして腕に抱いていることもなかった。
気を失っている純に対して、心配以上の感情を込めた視線を向けることもなかっただろう。
それらに気付いてから、シロは今まで以上に翔平を警戒している。
恋心を自覚した年頃の男など、何をするのか分からない生き物なのだ。
純のことが一番大切なシロにとっては、翔平は要注意人物だった。
しかし今回は純を助けてくれたので、少しの間は態度を軟化してもいいかもしれないと思うシロだった。
『3日くらいなら』
そう思いながら、傷を縫った糸をパチンと切る。
目の前の顔を見ているとムカつくので、明日からにしようと決めたシロだった。




