94 雨③
「はぁ、はぁっ…」
ぬかるむ足元の中を全力で走り、雨か汗か分からないものが額を流れていく。
こんなに全力で走ったのは久しぶりだった。
不安で走る足が乱れ、焦りで息が浅くなる。
走ることがこんなに辛いと思ったのは、初めてだった。
『この辺りに、いるといいんだが…』
自分の考えが当たっていれば、この辺りにいるはずである。
願うように、雨が本降りになってきた空の下を走った。
周りを見渡しながら、感覚を研ぎ澄ませて純の気配を探す。
ちらりと視界の端に映ったものに反応して足を止めると、雨の中に傘もささずに佇む人物がいた。
その後ろ姿が、雨に濡れる髪が、いつも見ているものだと気付いた。
「純!!」
立ち尽くしている純のもとに走っていく。
意識は失っていないようなので、ひとまず大丈夫かと安心して息をつく。
「大丈夫か、じゅ――」
その肩に手をかけようとした時、力強くその手を振り払われた。
「…純?」
ゆっくり顔を覗いてみると、薄茶色の瞳は虚ろだった。
どこを見ているのか分からない。
ここではないどこかを見ているようで、人形のようにがらんどうな目だった。
『この、目は…』
その目を、翔平は知っていた。
翔平の記憶によく残っている、出会ったばかりの頃の純の目だった。
そこに感情は一つもなく、何も映っていない。
薄茶色のはずの瞳は真っ暗で、柔らかい微笑みも、いたずらっぽい光もない。
翔平は、その濡れた肩にもう一度そっと手を伸ばす。
すると、さらに力強い手で振り払われ、純の左手の爪が翔平の首元を狙ってきた。
「っ!」
その左手をなんとか避け、一度純との距離をとる。
『まずいな…』
どうやら純は、翔平のことを認識していないらしい。
表情から感情が欠落し、その目に翔平を映していない。
声をかけても反応がなく、翔平に対して一切の手加減なく急所を狙ってきている。
どうやら、正気を失っているらしい。
純と体術でやり合うのは分が悪かった。
純の体術は急所狙いで一撃必殺が多いので、気を抜くとこちらの命が危ない。
しかし雨は一向に降り続いており、はやく純を雨のあたらないところに避難させなければならない。
「やるしかないか…」
今まで、翔平が純に体術で勝ったことはない。
そして、互いに本気で戦ったこともない。
今は、やってみるしかなかった。
翔平は覚悟を決め、雨が跳ねる地面を蹴った。
雨が跳ねる地面を蹴り、一瞬で間合いを詰める。
純の初撃は首元を狙ってくることが多いので、純の手に意識を集中させたまま足元を狙って体のバランスを崩そうとする。
しかしその蹴りは避けられ、頭を狙ってきた右足を腕で防ぐ。
地面に下りた瞬間の純を狙って腕に手を伸ばすも、すぐに後ろに距離をとられて逃げられる。
翔平は、顔に撥ねた泥を拭った。
「まずいな…」
今のだけでも、完全に純の方が上手だった。
このままだと、勝てる見込みは薄い。
『一度連絡して、他の応援を待った方がいいか…?』
そう考えてポケットに手を伸ばした瞬間、殺気を感じてその場から後ずさった。
翔平の不審な動きに反応したのか、翔平の首があったところに純の爪が空を切っている。
背筋にひやりとしたものを感じていると、純の視線が足下の水溜まりに移る。
初めて、純の瞳に感情のようなものが宿った。
それは、恐怖だった。
「…め、……かい…と、う…か…、さ…」
ふらふらと揺れながら、震える口から声がもれている。
途切れ途切れしか聞こえないので、何を言っているのかは分からない。
水溜まりを見ていたはずの純は、ふっと視線を上げるとその瞳に翔平を映す。
しかし、それを翔平とは認識していないようだった。
「…や、め…」
何かに怯える子供のように顔を手で覆うと、翔平の喉元めがけて指がのびてくる。
「くっ!」
それをギリギリで回避し、腕を拘束しようと背後に回るも、頭に回し蹴りが飛んでくる。
「…とう…さ、…あ…さ…」
純はだんだん息が荒くなってきており、どこを見ているか分からない目は瞳孔が開きぎみになっている。
多少傷付けてでも拘束するしかないかと狙っていると、純の薄茶色の瞳が翔平を映す。
泣きそうなほど恐怖で染まった瞳の奥には、ほの暗いものが見える。
「……お…て…か…な……で…」
そう言うと、純は服の裾から小さなナイフを取り出した。
「おい…そんなものを持ち歩いてるのかよ…」
さすがに、冷や汗が出る。
本当に命を落とす危険が高くなってきた。
それと同じくらい、純の状態も危うい。
ふらふらと足下がおぼつかず今にも倒れそうなのに、こちらが気を抜けば襲い掛かってくるだろう。
もう連絡どころではなくなり、純から目を離さず神経を集中させる。
『あの状態で倒れれば、純が危ない…』
ナイフが、純の体を傷付ける可能性が高い。
「本っ当に、何てものを持ってるんだ…」
純に対して軽く怒りを向けながら、これからどうするか作戦を考える。
あのナイフが一番危ないが、純の場合は体のいたるところが武器に成りえるのでどっちにしろ危ないのは変わらないと思うようにすることにした。
思い込みというのは、時に大切である。
『次で何とかするしかない』
そう決めて、少しずつ距離を詰める。
雨が激しくなっていき、地面を激しく雨が打つ。
純は左手で顔を覆いながら、何かを恐れている。
「…あめ、が…あか、い……あめ、は……」
その目は、幼い子供のようにも見えた。
「…とう、さ……か、あさ……」
翔平は、やっと純が何を言っているのかが分かった。
だからこそ、早く純を落ち着かせなければならない。
このままでは、純の心が壊れてしまいそうだった。
心を決めて地面を蹴り、純との距離を一瞬で詰める。
顔に向かってきたナイフを反射的に避けながらも、頬に熱い痛みが走る。
それを気にせずナイフを持つ腕を掴み、腹部を蹴ろうとしてきた足を防ぐ。
体を回転させながら踵で顔を狙われたので体を反って避けると、掴んでいた腕は振り払われた。
純はすぐにナイフを持ち直し、翔平の胸に目がけて飛び込んできた。
『くそっ』
翔平はその体をナイフごと受け止め、純の体が離れないように強く掴んだ。
「本当に…今度からこんなもの、持たせないからな…」
そう言って純の腹に拳を入れ、一瞬体が止まった隙を逃さず首の後ろに手刀を落とす。
すると、やっと意識を手放した純の体が崩れるように地面に倒れ込む。
それをギリギリで受け止めた。
「はぁー……」
ここ最近で、一番深いため息が出た。
「死ぬかと思った…」
翔平は、自分の左手を見る。
純のナイフを掴んでおり、ハンカチ越しに血が滲んでいる。
最終的に避けることができないと判断し、肉を切らせて骨を断った。
「純が少しでも正気を保っていたら、死んでたな」
純はただ周りの気配に反応して攻撃していただけだったので、いつもより直線的で避けやすくはあった。
錯乱していて手加減がなかったのでかなり辛かったが、自分の左手と頬を軽く切ったくらいですんで良かった。
翔平は自分の血で汚れないように気を付けながら純を抱えると、地面に落ちていた純の持ち物らしきものを拾って、近くにあった大きな木の下に入った。
完全に雨を避けられるわけではないが、翔平が屋根代わりになれば何とかなりそうである。
地面に寝かせると体を冷やしそうだったので、自分の腕の中に寄りかからせるようにして寝かせた。
純を見つけたことを連絡すると、場所と純の状態を聞くなりすぐに切れた。
あの様子だと、すぐに駆け付けるだろう。
翔平は、ナイフを掴んでいた手の様子を見る。
ナイフが出てきた時点でこの結果を予測し、戦いながら左手にハンカチを巻いておいてよかった。
肉が切れているが、思っていたよりも深い傷にはなっていない。
純の顔を覗くと、顔色は真っ青だが呼吸は落ち着いている。
余裕がなくてかなり強めに殴ってしまったので心配だったが、ひとまず大丈夫そうで安心した。
翔平は、いまだに振り続ける雨を眺めた。
『雨が、赤い……。おいていかないで…父さん…母さん……』
純の目は、幼い子供のようだった。
何かを失うことを恐れ、恐怖に怯える目だった。
『雨が、トラウマだとすると…』
トラウマは、自身か、近くの人間の命の危機を感じるような出来事がきっかけとなることが多い。
『両親の死と、雨に何か関わりがあるのか…?』
恐怖で怯える瞳は、両親を亡くした時の幼い純の瞳なのかもしれない。
地面に落ちていた純の持ち物らしきものは、花束だった。
雨に濡れた白い菊の花が、翔平と純を見ている。
純が、両親を亡くしていることは知っている。
しかし、心が壊れそうなほど傷付いていたのは知らなかった。
純が、自分たちに気付かせないようにしていたのだろう。
言ってほしかったとは言わない。
それでも、言ってくれたらと思ってしまう。
想っているのに、近付けない。
その理由は、今日少しだけ分かった気がする。
昔から一緒にいても、一定の距離を保たれていた。
近付けば、離れる。
離れれば、近付いてはくれない。
だから、今ある距離を大切にするしかなかった。
腕の中で眠っている純は、濡れた服越しに体温が伝わってくる。
静かな呼吸が、耳に聞こえる。
灰色がかった髪は雨に濡れて頬に張り付いており、長い睫毛から水滴が流れ落ちる。
肌は白く、唇に色はない。
初めてこの距離で見た純の顔は、青ざめているはずなのに、とても美しく見えた。
無意識に、顔が近付く。
鼻と鼻が、触れそうになる。
翔平の髪から落ちる滴が、純の頬を濡らしていく。
目を閉じると、薄茶色の瞳で柔らかく微笑んでいるのが見えた。
「………」
翔平は、純の濡れた頬を優しく拭った。




