90 名前④
翔平はひとまず見合い相手を部屋に返し、適当な理由をつけて席を外した。
『疲れる…』
見合い自体も疲れるが、見合い相手と一緒にいるのが一番疲れる。
世間一般的には、ああいう女子が理想の妻と言われるのかもしれない。
控えめで、従順で、夫をたてるような淑女。
しかし、翔平にはそんな気持ちは分からなかった。
喋るのにも気を遣って会話も続かず、相手の言葉が心に響かない。
草履を履きやすいように手を貸し、転ばないように支える。
もしこれから何度か会うことがあったとしても、翔平はあの女子に興味を向けることができない気がした。
『純とだったら…』
いつも好きに話をして、互いに無言でも苦にならない。
純の言葉と行動で、翔平の心は動かされる。
翔平が手を貸さなくても、純は隣を歩く。
『…何を考えてるんだ』
考えないようにしているのに、余計に考えてしまっている。
少し頭を冷やそうと周りを見ると、離れに続くような小さな橋があった。
歩いて行ってみると、下には小川が流れている。
さらさらと風が緑を鳴らす音は、翔平の心を静かに落ち着かせていった。
その風に紛れて、いつの間にか後ろに人の気配を感じる。
『…何でいるんだよ…』
心を決めてここに来たはずなのに、さらに心が揺らぐ。
「…何しに来た」
「聞いてみようと思って」
「…何を」
「見合い、嫌なの?」
「…別に、そんなことはない」
翔平は、欄干をぐっと掴んだ。
「嘘だね」
風が、後ろから流れてくる。
いつも隣にあった気配が、風に乗って背にあたる。
「わたしは人の心はよく分かんないけど、翔平のことは他の人より分かる。昔から、見てきたから」
思わず、後ろを振り返ってしまった。
純は、こちらに背を向けて欄干に座っていた。
足をぶらぶらさせて、小川の流れを眺めている。
その後ろ姿に、聞いてみたいことがあった。
顔が見えないから、聞くことができた。
「…俺が、本当は見合いをしたくないって言ったら…お前は、どうする?」
「見合いを壊してあげる」
頼もしい言葉に、口から笑みがこぼれる。
少し、欲が湧いた。
「俺に、想う相手がいるって言ったら…どうする?」
少しの間、沈黙が流れる。
水が流れる音と、風が葉を揺らす音が、2人の間を通り抜けていく。
「いいんじゃない?」
違う答えを期待していた自分に、苦笑いしてしまう。
今までに何度も分かってきたことなのに、性懲りもなくまた何度も期待してしまう。
「だって」
純はそう言って、くるりと向きを変えて翔平と向き合う。
いつもの、薄茶色の瞳がそこにあった。
「翔平が決めた相手なら、いいんじゃない?」
純らしい、言葉だった。
人に関心のない、純らしい答えだった。
「…どんな、相手だと思う?」
翔平に尋ねられた純は、首を傾げる。
「翔平と似てるんじゃない?」
「俺と…似てる?」
答えが返ってくるとは思わなかったので、翔平は驚いた。
純は、こくりと頷く。
「強くて、頑固で、優しいところもあって、家族が大切」
そう言って柔らかく微笑む瞳には、いつもと違った光が見えた気がした。
翔平がそう思いたかっただけかもしれない。
それでも、よかった。
新しく、風が吹いたようだった。
力なく欄干に寄りかかり、笑ってしまう。
強くて、頑固で、優しいところもあって、家族が大切。
「そうだな…」
そんな人間は、自分の目の前にいる。
『翔平が決めた相手だったら、いいんじゃない?』
「そうだよな…」
この想いを、諦めたくない。
後悔は、したくない。
ずっと隣にいたいと思っていた。
一番理解したいと思っていた。
大切にしたいと思っていた。
大切な人になれたらと思っていた。
『この、想いは…』
「…なぁ」
「何?」
「聞きたいことがあるんだが」
純は、首を傾げている。
「その人の…ずっと隣にいたい、一番理解したい、大切にしたい、大切になりたいっていう気持ちは…何だと思う?」
翔平はその疑問と答えに、ずっと気付かないようにしていた。
「お前なら、その気持ちに、なんて名前をつける?」
純は、首を傾げたまま足をぶらぶらさせている。
少し考え込んだ後、口を開いた。
「わたしにはよく分かんないけど。一般的には、「愛」じゃないの?」
『…やっぱり、そうだよな……』
力ない笑みが、自然と口からこぼれる。
ここまで、自分の気持ちに気付かないと思わなかった。
出会った頃から大切だった。
隣にいたくて、理解したかった。
いつか自分を大切に想ってくれたらと、願っていた。
そう思うことが当たり前すぎて、気付かなかった。
純が異性からの好意を拒絶する姿を見て、気付かないようにしていた。
目の前にいる女の子は、自分が愛している人だった。
『もう、迷わない』
自分の想いに、名前がついた瞬間だった。
「翔平くんは、どちらに行ったのでしょうかな」
「すみませんな。愚息で」
「いえいえ…」
冷たい鉄仮面の惣一に、見合い相手の父親は恐縮している。
翔平が席を外して、けっこう時間が経っていた。
見合い相手は帰ってきてから元気がないし、父親は見合いの行方を心配している。
『逃げたか…?』
それなら、自分がここで結論を出すまでだった。
無駄な時間を過ごすほど、暇ではない。
口を開こうとした時、廊下から足音が聞こえてきた。
「おや。翔平くんが戻ってきたようです…な?」
廊下から聞える足音はよく聞くと2人分で、それもドタバタと走っているような音に近い。
足音に加えて、何やら話し声も聞こえてくる。
「――いいって」
「―――んりょしない」
「いやそうじゃ――」
足音が止まったと思ったら、勢いよく障子が開いた。
そこにいたのは、肩につかないくらいの髪をなびかせ、その瞳に面白そうな光を宿している少女だった。
「おい、純!」
やっと追いついたのか、後ろから慌てて翔平が顔を出す。
純は振袖を着ている少女に視点を定めると、そのまま部屋に入って少女と真正面で向き合う。
「親の言いなりになって結婚なんて、馬鹿なんですか」
「え……?」
「な…何を。急に現れたと思えば、何を言い出すんだ。人の娘に」
見合い相手の父親に非難されても、純はそれをいないものとして扱った。
「それを言えば、翔平も馬鹿か」
「………」
否定したいものの、一度親の言いなりになった身としては何も言えない。
「一体何なんだ、君は!」
見合い相手の父親が純を部屋から出させようとすると、純は簡単にその手からすり抜ける。
掴もうとしていた姿が一瞬で消え、父親は尻餅をついた。
「こんな人と結婚するのはやめた方がいいですよ。死ぬほど朝に弱くて般若みたくなるし、顔は鉄仮面で怖いし、いつも眉間にシワを寄せてて辛気臭いし、心配性過ぎだし、ため息ばっかりつくし、舌壊れてるんじゃないかってくらい辛いものばっかり食べるし…」
その調子で、純は滔々と翔平の悪口を並べていった。
翔平としては、さっき褒められたと思ったばっかりに、崖から突き落とされた感が半端ない。
「それに、想う相手がいるらしいし」
『なっ!』
その衝撃発言で、翔平は顎が落ちるかと思った。
純が落とした爆弾の被害は、全て翔平に向けられている。
見合い相手の父親からの視線は冷たいし、自分の父親からの視線は逆に生暖かい。
「…最後に」
やっと終わるのかと思ってほっとしていると、純は翔平の隣を指差す。
「父親がこれ以上ないくらい冷徹ロボット」
「「………」」
その一言で、部屋の中の温度が初夏から真冬にまで吹っ飛ぶ。
翔平は恐る恐る父親を見てみるものの、怒っているのか怒っていないのかすら分からなかった。
父親は、翔平以上の鉄仮面なのだ。
そんな冷え固まった空気の中で、一番最初に喋ったのは、か細い声だった。
「お父様…どうやら、私には過ぎたご縁だったようです」
「いや、しかしな…」
手鞠は、純を見つめる。
『…この方、なのかもしれない』
庭で、翔平に聞いたことを思い出す。
幼馴染だという女子のことを話していた翔平は、初対面の時の冷たいイメージとは違って人間味があって、小さな笑みすらあった。
手鞠は、つい、尋ねてしまった。
『大切な方なのですか』
『えぇ』
確固たる事実を告げるような、その答えしかないような返事だった。
そこに、手鞠が入るような隙はなかった。
「私では、翔平さんにつりあわないでしょう」
そう言って、惣一に向かって頭を下げる。
「今回のお見合いは、お断りさせていただきます」
手鞠がこの場で自分の意志をはっきりさせたのは、これが初めてだった。
しかし手鞠の父親は、娘の決断に唖然としている。
惣一は翔平に野良猫のように掴まれている純をちらりと見てから、手鞠に視線を戻す。
「そうですか。残念ですが、ご縁がなかったようです」
放心している見合い相手の父親と頭を下げる少女を残し、惣一は息子と野良猫を連れて料亭を出た。
「結局見合いを壊してしまって、すみません」
翔平は、父親に頭を下げた。
あんな形で破断にしたのだ。龍谷グループに影響が出てもおかしくない。
惣一はそれについては何も言うことなく、翔平に目を向ける。
「決めたのか」
「はい」
もう、迷うのはやめた。
諦めるのはやめた。
自分の想いを、見ないふりをするのはやめた。
惣一を見つめ返す翔平の目は、見合いを決めた数日前とは違い、迷うことなく真っ直ぐ前を見ている。
覚悟を決めたらしい息子に、惣一は短く息を吐く。
「20歳まで猶予をやる。それを過ぎたら、何を言おうがグループのために選んだ相手と結婚させる。いいな」
「はい」
さっきからずっと、翔平に首根っこ掴まれている少女を見る。
「自分の言葉に責任を持て。2度目はない」
そう言うと、惣一は迎えの車に乗り込んだ。
最後に、ちらりと翔平たちを横目で見る。
「その野良猫はどこかに捨ててこい」
その言葉を残して、車は去っていった。
『20歳まで』
『2度目はない』
父親の言葉を思い出して、翔平は深くため息をつく。
猶予は延びた。
しかし、このままでは何も変わらない。
何かを変えたいのなら、それ相応の覚悟を持って行動を起こさなければならない。
隣を見ると、野良猫がこちらを睨み返している。
「いい加減離して」
手を離してやると、野良猫扱いが気に障ったのか不機嫌そうにしている。
そんな姿でさえ、微笑んでしまう。
「今日は助かった。ありがとう」
「どういたしまして」
「諦めないからな」
純は、翔平を見て首を傾げる。
「何が?」
「別に」
いつも純が言っているように誤魔化すと、また少し機嫌を損ねたのかぷいっと前を向いてしまう。
この灰茶の髪と、薄茶の瞳を愛おしく思う。
自分に向ける笑顔を、愛おしく思う。
全てを、愛おしく思う。
いまだに不機嫌そうにしている純を宥めながら、翔平はその想いを心に刻んだ。




