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花咲くまでの物語  作者: 国城 花
第三章 変わる想い、変わらない想い
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86 一方通行⑤


突き放される夢を見た。

自分のもとから去っていった夢を見た。

もう、元には戻れない夢を見た。

それはとても哀しくて、恐ろしくて、後悔で心が割かれそうだった。




ふと気付くと、部屋の中が暗くなっていた。


『寝てたのか…』


夢を見ていた気がする。

寝る前の気持ちは少しも落ち着いておらず、自分がどうしたらいいのかも分からなかった。


純に、勝手にしろと言った。

その気持ちは、変わっていない。

しかし、恐怖と哀しみは消えていない。



ソファーから起き上がると、部屋の中の空気が寝る前と違っていることに気付いた。

翔平が寝ている間に、誰かが部屋に入ってきたのだろう。


『宇津巳か…?』


もしかしたら、夕食の時間に一度呼びに来たのかもしれない。

翔平が寝ていたから、起こさなかったのだろう。


食事をとるのも風呂に入るのも面倒で、今日はもう寝てしまおうと寝室への階段を上る。


考え事が頭から離れないまま、寝室の扉を開けた。

すると、暗闇の中に人影があった。


ベッドに腰かけ、こちらに背を向けている。

薄暗い部屋の中でも、それがいつも見慣れている後ろ姿であることは分かった。


「…何しに、来たんだ」


喉の奥で一度詰まった言葉を、吐き出す。

いるとは思わなかった驚きと、何故いるのか分からない戸惑いが重なっては消える。



純は翔平に背を向けたまま、何も答えなかった。

窓の外を眺めており、その背中からは何を考えているのかは分からない。


その姿が、翔平の心を苛つかせた。

自分はあれだけ悩んでいたのに、純はきっと何も悩んでいないだろうという身勝手な思いが思考を埋めていく。

純がここにいる理由が分からなくて、心がざわつく。


「用がないなら、帰れ。俺は謝るつもりはない」


そう言っても、純は動かなかった。

しびれを切らして、純に近付いてその腕を乱暴に掴む。


「帰れって――」


その純の表情を見て、これは何かを言いたい時の純の沈黙だということに気付いた。


急にどうすればいいのか分からなくなり、翔平は純の腕を掴んだまま固まってしまった。



純は相変わらず窓の外を眺めながら、ここではないどこかを見ている。


「…お兄ちゃんとシロに、わたしが悪いって言われた」


それはどこか、幼い子供のような声だった。


「自分で怪我をするのはだめだって」


純は、少しだけ視線を下げる。


「だから、わたしが悪かったんだと思う。お兄ちゃんが、そう言うから」


そう言って、純は隣に視線を向ける。


「でも、翔平が何で怒ったか分かんない。だから、聞きに来た」



純の心を動かしたのは、翔平ではなかった。

純の心に届く言葉を言ったのは、翔平ではなかった。

自分の無力さを、自分の言葉が無駄だったことを、突き付けられた感覚だった。


翔平は純の腕を離し、力なく隣に座り込んだ。


『俺の怒りと哀しみは、無意味だった』


純の心を動かしたのは、兄の湊だった。

純の心に届く言葉を言ったのは、純の家族だった。



ぐっと、固く目を瞑る。

純の問いに答えようと、深く息を吸う。


「…お前は、自分の身体を粗末にした。純が傷付くと、周りの人間も傷付く。かなしくなる」


純が怪我をした瞬間を思い出す。

一瞬で、心の芯が冷えたような思いだった。

頬に流れる血を見て、言い表しようのない不安が翔平を襲った。


「自分を大切にしないということは、俺たちがお前を大切にしたいという思いを拒絶していることになる。周りの声を聞かないということは、純に突き放されているようで…かなしい」


純が引いている一線を翔平が越えた時、純は何のためらいもなく翔平を拒絶してきた。


「俺たちは、お前が傷付くのを見たくない。自分を大切にしてほしい。それが純のための言葉だと、周りの人のための言葉だと、受け入れてほしい。少しでも、分かってほしい」


翔平は、深く息を吐いた。


「…だから、俺は怒った」


純は、また沈黙のまま俯く。



少しして、口を開いて出た声は、とても小さかった。


「わたしは、翔平が悲しむなんて思わなかった」

「…あぁ」


その理由は、昔から気付いていた。


純にとって大切なのは、家族だけなのだ。

関心があるのは、家族だけ。

理解してほしいのは、家族だけ。

それ以外に、関心を向けようとしない。

だから、人の心に気付かない。


でも、翔平はいつか自分のことを大切に思ってほしい、関心を持ってほしいと思っている。

だから、大切に思って、関心を持って、理解しようとした。



「まだ…あんまり分かんない」


純は、自分の足先を眺めている。


「…でも、今回のことはわたしが悪かったんだと思う。お兄ちゃんたちが、そう言うから」


純は、やっと翔平の方を見る。

薄茶色の瞳は、どこか幼い子供のようだった。


「…ごめん」


本当に分かっていなくても、自分の言葉が届かなくても、それでも少し安心した。


「あぁ。俺も、言い過ぎた。ごめん」


純は翔平の顔を窺い、小さく頷く。


翔平は、一気に体の力が抜けて項垂れた。


「怪我は、大丈夫か」

「ちょっと切っただけ」

「そうか…」


翔平の想いは、純には届かなかった。

それでも、ちゃんと隣にいる事実に、心の底から安心した。



6歳の時から一緒にいるこの幼馴染は、人の心に無関心だ。


目の前で誰かが傷付くのを見ると我を失ったように怒るのに、自分が傷付くことで誰かが怒ったり悲しむとは思わない。

家族のことは大切に想っているのに、家族以外の人が自分を大切に想うとは思わない。


どこか歯車が狂ったような、矛盾ばかり抱える純の心に踏み込んだことはない。

踏み込めば最後、純に突き放されるのは目に見えている。


今回のような喧嘩ではなく、純は本当に翔平を拒絶するだろう。

友人でいることも、今のように隣にいることも、できなくなる。

それだけは、どうしてもいやだった。


『それでも…』



純が立ち上がると、その時になって純の右腕を掴んだままだったことに気付いた。

すぐに離したが、何となく名残惜しくて、その手のひらを閉じた。


純は翔平の表情を窺うと、もう怒っていないと分かったのか、薄茶色の瞳に柔らかい色が宿る。


「じゃあ、またね」


それは、初等部1年の時に純が翔平の家に遊びに来た時から変わらない言葉だった。


幼い時から、別れの言葉を口にする時には、必ずまた会うことを言葉にしていた。

何となく、それが2人の間での決まった別れ言葉だった。


初めて純からその言葉を聞いた時、また会えるということが嬉しくて仕方なかった。

もう子供ではないけれど、その言葉は翔平にとって大切なものだった。


「あぁ。またな」


11年間変わらないやり取りをして、翔平は純を見送った。




「本当に、いつの間にか仲直りしてたね…」


次の日のつぼみの部屋は、いつもと変わらない雰囲気だった。

翔平と純の間には昨日のようなピリピリと肌に刺すような空気は漂っていない。


4人はまたキッチンに集まって、2人に聞こえないように小声で話し合っていた。


「どうして喧嘩をしてたのかは気になるけど、仲直りして良かった」


晴は、2人が仲直りして安心したようだった。



雫石は、友人たちを見つめた。


2人が仲直りした後は、変に気を遣って会話が増えたりすることはない。

2人とも自然体で、はた目に見ると喧嘩があったとは思えないほどいつも通りの雰囲気に戻る。


喧嘩になるのは、どちらも頑固で自分の意志を変えようとしないからだ。

仲直りできるのは、必ずどちらかが歩み寄っているからだ。


変わろうとして、変われなくて、変わらない関係に戻る。



2人とも、譲れない想いを抱いている。


翔平は、純を大切に想っている。

純は、家族だけを大切に想っている。


純はきっと、翔平に対して何も想ってはいない。

それでも、雫石から見たらどこかに想いがある気がする。


自分がそう願っているだけかもしれないが、それでもいつかそうなってほしいと見守っている。



雫石は明るく微笑みながら、いつものように2人の側に歩み寄った。



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