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花咲くまでの物語  作者: 国城 花
第三章 変わる想い、変わらない想い
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85 一方通行④


「翔平と、喧嘩をしたって?」


電話越しから聞こえた兄の言葉に、純は近く控えている自分の執事をじろりと睨んだ。


今日あったことは何も言っていないのに、純の様子を見て察したらしい。

それを湊に告げ口するとは、余計なお世話である。


「シロを怒るなよ。心配して、俺に教えてくれたんだから」


湊にそう言われ、純は渋々シロを睨むことをやめる。


「怪我をして帰ってきたら、心配するよ」

「…別に、大した怪我じゃないよ」


テニスラケットで殴られたところは、皮膚が少し切れただけだ。

殴られる時に相手の力を吸収するように動いていたので、たんこぶもできていない。


自分で手当てをしたのに、怪我のこともシロにばれている。

自分の執事が優秀過ぎる。



「どうして、怪我をしたんだ?」

「生徒に罰則を与えるために、挑発してわざと殴らせた」

「純が自分から怪我をしたから、翔平が怒ったんじゃないのか?」

「…分かんない」


純は、翔平が何で怒ったのかよく分かっていない。


「わたしが怪我しても、翔平には関係ないのに」


関係がないのに、何故翔平が怒るのか分からない。

純が怪我をしようが、病気になろうが、翔平には関係ない。


それに、純はあの方法をとったことが悪かったとは思っていない。


「すぐに解決するなら、わたしが殴られるのが一番良かった」


手っ取り早くあの部長を謹慎させるのには、あの方法が一番合理的だった。

気に入らないことがあると手を上げるような人間であることは知っていたから、怒らせるのは簡単だった。

ただ、「負け犬」と言っただけなのにあれだけ怒るとは、沸点が低すぎる。


それに純なら、殴られても最低限の怪我で済ますことができる。

もう一度出直すのは面倒くさかった。

できるだけ早く解決した方がいいと言ったのは翔平だ。


だから、何故翔平が怒ったのか分からなかった。



何も分かっていない、分かろうとはしていない妹に、湊は少し苦笑いを浮かべる。

湊の妹は、面倒くさがりで、合理的で、人の心に関心がないのだ。

だから、今回のような方法をとってしまう。

どうして翔平が怒ったのか、分からない。


シロが自分に電話をかけて来たのも分かる。

こういう時の純に言葉を伝える時には、湊が適任なのだ。


「純が怪我をしたら、俺とばあちゃんが心配するのは分かる?」

「うん」

「シロも、家のみんなも心配するよな」

「うん」


湊は幼子に諭すように、一つ一つ確認していく。


「それは、純のことを大切に思ってるからだ。純が怪我をすると、俺たちは心配でたまらないんだ」


純は、こくりと頷く。


「怪我だけじゃない。純が危ない目にあったり、病気になったり、純の身に何かあったら、俺たちは心配する」


体が傷付くことだけではない。

その心も傷付かないか、心配する。


「そうやって俺たちが純のことを心配するように、他の人も純のことを心配したり、大切に思ったりするんだよ」


そこで、純は首を傾げた。

家族という理由以外で、相手を大切に思う気持ちが分からない。


「家族じゃなくても、相手を大切に思う気持ちはあるんだよ」


電話越しの妹は、きっと首を傾げている。

湊が言うことを、納得して理解することは難しいだろう。

純には、譲れない想いがある。


「わたしの大切なものは、家族だけでいい」


予想通りの言葉に、湊は少し目を伏せる。


「うん。分かってるよ」



純は、家族を何よりも大切に思っている。


それは、何よりも大切な家族を失ってしまったからだ。

もう失わないために、残された家族を何よりも大切にしている。

幼い頃から純のことを家族として大切に思ってくれている使用人たちも、純にとっては家族だ。


そんな純には、家族以外に大切なものはない。

幼い頃から一緒にいる翔平も、純が守ろうとする雫石も、純にとっては「大切なもの」ではない。

友人ではあっても、大切な人ではない。


だから、相手を理解しようとはせず、一線を引き続ける。

近付けば、拒絶する。

離れれば、追いかけない。

嫌われても、心は傷付かない。

失っても、心は痛まない。


相手を理解しようとするのは、家族だけ。

近付いても拒絶しないのは、家族だけ。

離れれば追いかけるのは、家族だけ。

嫌われれば心が傷付くのは、家族だけ。

失うと心が痛むのは、家族だけ。


純の感情を動かすことが出来るのは、家族だけなのだ。


だから、純には翔平の怒りが分からない。

家族ではない存在からの感情を、純は受け付けない。

理解しようとはしない。


幼い頃に両親を失ってから、純はそうやって生きている。

そうしなければ、生きてこれなかったのだ。



『それでも…』


このままの状態が純のためにならないことは、湊も分かっている。

分かっていても、湊が純の想いを否定することはできない。


「…分からなくても、いいんだ。理解できなくても、そういう感情があるってことを認めてあげてほしい」


純がその感情を理解するのは、もう少し先だろう。


「家族じゃなくても、誰かを大切に思うことはあるんだよ。傷付いてほしくないと思うこともあるんだ」


電話の向こうには、沈黙が流れている。

きっと、理解できないながらに考えているのだろう。



少し長い沈黙の後に、小さな声が届いた。


「…お兄ちゃんがそう言うなら、そうなんだと思う」


大切な家族が言うことであれば、純は理解しようと努力する。

それでも、本当に理解しているわけではない。

家族が言うことだから、理解できないながらに何とか受け入れているだけだ。



「…怪我、しない方がよかった?」


まるで幼い子供が親に確認するかのような、様子を見る声だ。

その声に、少しだけ微笑む。


「そうだな。俺は、純に怪我をしてほしくないよ」


湊にとっても、純は大切な家族だ。

自分の意志だとしても、自分の体を傷付けてほしいわけがない。


「……ごめんね。お兄ちゃん」

「分かってくれたら、いいよ」


純は、ずっと近くで控えているシロを見る。


「シロも、ごめん」


シロは、少しほっとしたように表情を和ませる。


「私たちにとって、お嬢様は大切な存在です。お嬢様が怪我をされると、自分が怪我をするよりも心が痛むのです。それだけは、理解してください」

「うん。分かった」


純は親の言い付けを聞く子供のように、素直に頷く。

そうしてしばらく、口を開くことなく沈黙を続ける。


電話越しの湊も、純の様子を近くで見ているシロも、その沈黙の意味に気付く。



数分ほど続いた沈黙の後、純は小さく口を開く。


「出かける」


純の執事であるシロは、その一言で全てを察する。


「車を用意してまいります」


純が頷くと、一礼してから部屋を出て行く。


「謝るなら、早い方がいいもんな」


シロと同じく、純の一言で全てを察している湊である。

純は、少しだけ眉を寄せる。


「…謝るかは、分かんない」

「うん」


先を促すように、湊は優しく相槌を打つ。


「でも…お兄ちゃんが、わたしが悪いって言うから」

「うん」

「悪いことをしたら、ちゃんと謝らないといけないってシロが言ってたから」

「そうだな」

「だから…」


純はそこで、また黙ってしまう。


純はきっと、どうしたらいいか分かってはいない。

それでも、大切な家族の言うことは理解しようと努力しようとしている。


だから、何か行動を起こさなければいけないと思っている。

家族の言葉と、他人への無関心が、心の中でせめぎ合っている。



「翔平に会ってみれば、分かることもあるかもしれないよ」


湊は、妹の背中を少しだけ押す。


「会って、ちゃんと顔を見てみるといい。分からないことは、聞いてみてもいい」


翔平が怒ったのは、純を大切に想っているからだ。

でも、どれだけ翔平が純を大切に想っていても、純はその想いを理解しようとはしない。

純は、これ以上大切なものを増やそうとはしない。


純の家族への想いは、変わらない。

翔平の純への想いが、ずっと変わってこなかったように。


『これからどうなるかは…』


そこで電話越しに、シロの声が聞える。

どうやら、車の準備ができたらしい。


「もう暗くなるから、気を付けて行っておいで」

「うん」


「いってらっしゃい」

「うん。行ってくる」



湊は電話を切ると、まだ明るいフランスの空を見上げた。


決して広いとは言えない家の中で、互いのぬくもりを感じるように眠っていた日々。

温かい料理の匂いに、家族で笑い合う声。

優しくて何でもできる父と、明るくて自由が好きだった母。


春の陽だまりのように、疑いようのない幸せがそこにあった。



幼い少女が無邪気に笑う声が聞こえて、懐かしい過去に想いを馳せるように目を瞑った。



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