82 一方通行①
その日のつぼみの部屋には、剣吞な空気が流れていた。
どことなく空気が重く、肌に刺さるようにピリピリしている。
「…何かあったの?」
皐月は、本人たちに聞こえないように雫石に尋ねる。
キッチンには、凪月と晴も集まっていた。
雫石は、頬に手をあて心配そうに2人を見つめる。
「多分、喧嘩をしたのだと思うわ」
「喧嘩?」
「喧嘩するんだ、あの2人」
「仲が良いイメージだったけど…」
4人はそれぞれ、翔平と純に目を向ける。
翔平は机に座り、パソコンに向かっている。
純はいつもの長椅子に寝転がり、本を読んでいる。
一見すると喧嘩をしたようには見えないが、翔平と純を毎日のように近くで見てきた4人にはその違和感がすぐに分かった。
いつもの2人の間には壁がなく、お互いに信頼し合っているような空気があった。
しかし今はどちらも話しかけようとはせず、相手をいないものとして扱っている。
そんな2人と一番付き合いが長い雫石は、困ったように眉を寄せる。
「仲は良いのだけれど、昔から喧嘩は結構していたの」
「そうなんだ…」
晴たちが今まで見てこなかったということは、つぼみになってから喧嘩をしたのは今回が初めてなのだろう。
「さっきまで、投書の解決に2人で行ってたんだよね?そこで、何かあったのかな」
「僕らが戻ってきたら、あの状態だったもんね」
「詳しいことは、分からないのだけれど…」
雫石は、その投書のことを思い出す。
放課後に投書の内容を確認していたところ、1通の投書に目が留まった。
「女子テニス部の部員からの投書があるわ」
「どんな内容だ?」
「部長の横暴が目に余るから、どうにかしてくれないかという内容ね」
雫石は、少し長めの投書の文章を読んで簡潔にまとめる。
「自分たちでも何とかしようとしたみたいだけれど、家格とか実力が部長の方が上というのもあって、あまりうまくいかないみたい」
「部活連には言っていないのか」
静華学園の部活動は、部活連という組織によってまとめられている。
つぼみほど権力が強いわけではないが、部活動に関する揉め事は部活連が解決することも多い。
「その部長が部活連の幹部のようね。きっと、部活連には頼みづらいのではないかしら」
「なるほどな」
部活連に頼んでも、部活連の幹部であるその部長に揉み消される可能性も考えられる。
それなら、部活動とは縁のないつぼみに頼む方が良いのだろう。
「早めに、状況を調べてくるか」
部長の横暴がどんな内容かは分からないが、こういう問題は後回しにしても良い事がない。
「皐月と凪月がいれば、その部長のことについて分かったかもしれないな…」
今のつぼみの部屋には、翔平と雫石、純の3人しかいない。
皐月と凪月はつぼみの活動の別件で今日はまだ来ておらず、晴は教師の手伝いをしていて遅れるという連絡が来ている。
「ごめんなさい。私はもう少し、学園内の情報に通じておくべきね」
翔平もだが、雫石もあまり交友関係が広いわけではないので情報には疎いのだ。
「それは、これから努力していくしかないな」
雫石の情報の疎さは交友関係が狭いことが起因しているが、翔平の情報の疎さは人の名前と顔を覚えられない欠陥した記憶力のせいである。
仕事の関係者であれば完璧に覚えられるのだが、それ以外となるとポンコツになるのだ。
正直、クラスメイトの名前を全部言えるかと言われると厳しい。
『少し、方法を考えないとな…』
自分の記憶力の悪さをどうにかしようとしたことはあるのだが、改善はされなかった。
しかし、つぼみの活動に影響が出るとなると今までのように見て見ぬふりをしているわけにもいかない。
「とりあえず、俺と純で様子を見てくる。優希は一応ここに残っていてくれ」
「分かったわ」
理事長からの指令が来るかもしれないし、皐月たちが来た時に状況を伝える必要がある。
投書の内容からしても、3人で行くほどのことではないだろうと思った。
「行くぞ、純」
「はいはい」
雫石と同じように投書の山に目を通していた純は、面倒くさそうにしながらも席を立つ。
「いってらっしゃい」
雫石はそうして、2人を送り出した。
そうして30分ほどして帰ってきたと思ったら、この状況だったのである。
「テニス部に行った時に、何かあったみたいね」
雫石は、困ったように2人を見つめる。
「テニス部の方はどうだったのかな」
「投書の問題は解決したみたい。テニス部の部長が生徒に怪我をさせたから、一時的に部活動を謹慎させるそうよ。それ以前の行いについては、他の部員にも事情を聞いてから決定すると言っていたわ」
一通り雫石に報告をした後から、翔平はずっとあんな感じでだんまりである。
純にいたっては、部屋に入ってきてから一言も喋っていない。
「純と翔平って喧嘩するイメージなかったから、ちょっとびっくりだよね」
「翔平って、あんまり怒らなさそうだし」
2人の様子を窺いながら、皐月と凪月は声を潜めて喋る。
「おれも、あのサリファっていう人に怒ってたのを見たのが初めてかな」
翔平は感情的になることが少ないので、怒ること自体が珍しいのだ。
サリファに対してはかなり感情をあらわにして怒っていたが、そういう怒りを純に向けるイメージはなかった。
「何が原因で、喧嘩したのかな」
凪月たちはその場にいなかったので、喧嘩の理由は分からない。
2人の雰囲気を見るに、聞いても答えてはくれなさそうである。
「今までは、どういう喧嘩が多かったの?」
皐月に尋ねられ、雫石は少し眉を下げる。
「純と翔平くんが喧嘩をする時は決まって、翔平くんが怒って喧嘩になってしまうの」
「翔平って、純に怒るんだね」
「いつも文句は言ってるけど、純に怒るイメージはないよね」
「翔平くんは純に対して遠慮なく言っているように見えるけれど、違うの。翔平くんは、純が聞き入れることと聞き入れないことを見極めて言っているの」
「見極め?」
皐月は、雫石の言うことがいまいちよく分からなくて聞き返した。
「純は、自分の考えをほとんど変えないわ。翔平くんはそれを分かっていて、純が聞き入れることは注意をしたり文句を言うけれど、純が聞き入れないことはいくら言っても無駄だから諦めるようにしているの。その線引きは、長年の付き合いだからこそ分かるのだと思うわ」
純が変えようとしないことは、翔平や雫石が何を言っても変わらない。
授業のさぼりすぎや自由すぎる行動などは注意をすれば聞き入れる時もあるが、聞き入れてくれない事柄の方が圧倒的に多い。
純は、人の意見をあまり受け付けようとしない。
友人である翔平と雫石が言っても、純が変わることはほとんどないのだ。
「そうだったんだね…」
そんなことがあるとは知らなかった皐月である。
翔平が純に細々と言っては純が渋々動いている印象だったので、そんな見極めをしていたことには気付かなかった。
「純は翔平に怒ってるけど、それで喧嘩にはならないんだね」
凪月は、つぼみになったばかりの時のことを思い出す。
「翔平が考えた作戦で純が変装をした時は般若みたいに怒ってたけど、喧嘩にはならなかったし」
「あの時の純は、怒っていないわ」
「「え?」」
衝撃的な事実に、3人とも驚く。
その時の純は雷雲を背負っているかのような雰囲気で、視線だけで人を殺せそうだった。
あの場面を見れば、怒っていると思って当たり前の光景だった。
「あれは、文句を言っていただけなの。純は、滅多に怒らないわ。私が知っているのだけでも、数回だけよ」
体育祭の時に純の目の前で翔平が怪我をした時は少し怒っていたが、許さないという感情の方が大きいようだった。
純が本気で怒っていれば、翔平に怪我をさせた人物は無事ではなかっただろう。
「純は、いろんなことに無関心だわ。それは、感情を揺さぶられる対象も少ないということなの。だから、怒ることも少ないの」
雫石は、それはとても哀しいことだと思っている。
だから、雫石は純にいろんなことに興味を持ってほしいと思っている。
「翔平くんはいつも線引きを見極めているけれど、我慢ならない時もあるのね。純が変わらないと知っていても、純のために怒るのよ」
それは、純のことを大切に思っているからだ。
パソコンに向かう翔平は、いつもと変わらない表情をしている。
しかし、雫石にはどこか哀しそうに見える。
それは、純と喧嘩をしている時のいつもの表情だった。
「仲直りできなかったら、どうしよう」
皐月と凪月が、心配そうにしている。
「今までは、どうやって仲直りしてたの?」
「どっちが謝ってたの?」
2人に尋ねられ、雫石は困ったように微笑む。
「それが、私も知らないの」
「「え?」」
「いつも知らないうちに喧嘩をしていたと思ったら、知らないうちに仲直りしていることが多いの」
そして、喧嘩の理由はどちらもなかなか教えてくれない。
雫石は2人を見守って、仲直りしてくれることを願うことしかできない。
しかし、それが2人の友人としての役割だと思っている。
2人の喧嘩に無理やり雫石が入っても、それは意味のある結果にはならない。
不安げに翔平と純の様子を窺っている3人に、雫石は安心させるように微笑む。
「心配しなくても大丈夫よ。2人は、ちゃんと仲直りするから」
今まで、ずっとそうだったのだ。
きっと今回も大丈夫だと、自分にも言い聞かせる。
雫石の笑顔に、3人も安心する。
早く、仲直りしてくれることを願うしかなかった。




