81 1位と2位⑤
『私、次第…』
2人がいなくなった中庭で、雫石は1人ぽつんと立ち尽くしていた。
ふと気付くと、木の下に1冊の本が置いてある。
雫石が図書室で借りて、さっきまであの女の子が読んでいた本である。
この本の続きを借りようと図書室に向かっていた道の途中で、あの男子を追いかけたのだった。
最近はずっとあの2人のことを考えていたせいで、続きを借りてもいなかった。
雫石は、その本を手にとった。
この本は、1人の少女が世界を旅する物語だった。
人を、生き物を、自然を、文化を、歴史を、様々なものを見て、聞いて、旅をする。
自分の足で歩き、人に手を差し伸べる。
知恵を用いて困難を乗り越え、誰かのために心を砕く。
それは無限の可能性が広がっていて、終わりがない。
世界はどこまでも広くて、人々の心はどこまでもつながっていく。
少女はどんな困難も乗り越え、たくさんの出会いをして、いろんな発見をする。
一歩一歩自分の足で前に進み、道をつくっていく。
それはとても自由で、希望に溢れていて、楽しそうだった。
「私も、こんな人になりたかった…」
笑いたい時に笑って、泣きたい時に泣く。
行きたい場所に行って、やりたいことをやる。
辛い時は仲間と協力して乗り越え、思い出を分かち合う。
笑い合って、泣き合って、また明日を歩く。
大きな世界でのその一歩は、小さな一歩だけれど、それは確かに自分の足で歩いた一歩だ。
雫石の一歩は、全て周りに支えられた一歩である。
優希流の家元に生まれ、物心つく前から日本舞踊を身につけた。
雫石が普段来ている着物も、学園の制服も、全て両親が買ってくれたものだ。
優秀な使用人が作った美味しい料理に、あたたかい布団。
お金で苦労したことなどない。欲しいものは、全て手に入った。
ただ、本当に欲しいものだけは、手に入らなかった。
そのことに気付いた時、雫石は大人しく諦めた。
我がままを言って、両親を困らせたくはなかった。
『でも…』
我慢していた涙が、ポタポタと膝に落ちる。
青色のスカートに、雫が落ちていく。
ずっと、忘れられなかった。
幼い頃に夢見た、その願いを、忘れることはできなかった。
「…自由で、いたい……」
どこまでも青くて広い海を見て、天高い空を眺め、幾千もの山を越え、深い谷の音に耳を傾け、そこに住む人々の生き様を聞き、肌で感じたい。
雫石は、世界を知りたかった。
しかし、優希の娘である以上、その夢は叶わないと分かっていた。
家は姉が継ぐだろうが、雫石には優希の娘として価値がある。
どこかへ嫁ぐのが一番良いだろう。
それに、雫石のことを心配してくれる両親を悲しませたくはない。
自分の願いのために、全てを投げ出して飛び出すだけの勇気はなかった。
『強くなればいい』
何を考えているのか、分からない瞳をしていた。
感情がどこかへ行ってしまったような、平坦な声に、人形のように動かない表情。
ただ、その言葉には、確かに意志があった。
雫石の顔色を窺うこともなく、建て前すらない言葉だった。
きっと、あの言葉があの人の本音なのだろう。
『強くなれば…』
強くなれば、雫石は自由でいられるのだろうか。
周りの表情を窺うこともなく、偽りの笑顔を浮かべることもなく、自分の夢を叶えられるのだろうか。
『あんた次第だろ』
それもそうだ。
雫石の人生なのだ。何もかも、雫石次第なのだ。
これから、どうするのかも、雫石次第なのだ。
『心と体を大切に…』
母に言われた言葉を、思い出す。
雫石は、涙を拭った。
立ち上がると、本を手に、2人が去っていった方向へ走り出した。
「純は、私に大切なことを気付かせてくれたの。純のおかげで、私は自由でいたいと思えるの」
雫石がそう言って微笑み、話を締めくくる。
「…え、いや、それは分かるけど…」
「純が2位だったのって、わざとだったんだ…」
その衝撃の事実から、なかなか抜け出せないでいる皐月と凪月である。
「ていうか、どうやってわざと2位がとれるんだろう…」
「雫石の点数が分かるのかな?」
「試験問題を見れば、何となく私の点数が分かるらしいわ」
「「すご…」」
「その後も、純が1位になったことはないんだね」
「えぇ。いつも、私が1位よ」
純にとらされていると知った時はショックだったが、雫石は勉強することをやめなかった。
純も、2位をとることをやめなかった。
「本当のことを知って怒らないのは、何だか雫石らしいね」
「ありがとう。嬉しいわ」
晴の言葉に雫石は嬉しそうに微笑んでいるが、皐月と凪月はまだ納得していなかった。
「よく、そんなマイナススタートから友達になれたね」
「はっきり言って、第一印象最悪じゃない?」
「そんなことないわ。それに、純のお友達になりたかったのは私なの。最初は私が付きまとっていただけだけれど、いつの間にか友達になっていたわ」
翔平は、その時のことを思い出した。
涙目の雫石を置いてあの場を離れた後、少ししてから、泣きながら雫石が追いかけてきたのだ。
そして満面の笑みで純に、
「私とお友達になって!」
と言ったのだ。
翔平はこの女子は頭がおかしいんじゃないかと思ったし、純も珍しく驚いていた。
それから雫石は明るく楽しそうに微笑みながら現れては、純と翔平を遊びに誘った。
何かを我慢するように微笑むのではなく、本当に楽しそうによく笑っていた。
『優希は自分が付きまとったと思っているようだが…』
純は雫石に友達になってと宣告されてから、雫石を少し特別に見ている。
そもそも、純はその人が嫌だと思ったらとことん逃げて、姿を現さない。
雫石に姿を見せている時点で、心を開いているのだ。
純は、誰に対しても容赦がない。
本当のことを言っているだけでも、純のことを恐れる人間は多い。
その中で、雫石は純に友達宣言をしてきたのだ。
そんなことを言う人間は、初めてだった。
「純は優希と友人になってから、明るくなったからな。優希のおかげだ」
純の隣で楽しそうに微笑み、面白いと嬉しそうに喜んでいる雫石を見て、純は少し変わった。
笑うことも増えたし、柔らかい表情をすることも多くなった。
『俺には、できなかった』
雫石よりずっと長い間純の側にいたのに、翔平にはできなかった。
雫石だから、できたのだ。
『それに、俺よりも優希の言うことの方が聞くしな…』
そこに関しては、何故なのか分からない。
純はどこか雫石を特別に思っているせいか、翔平の言うことよりも、雫石の言うことの方が聞く。
『何でだ?』
鉄仮面の内で疑問に思っていると、意味ありげに微笑んでいる雫石と目が合う。
「私と純は、女の子同士のお友達だもの。翔平くんより、仲が良いのよ?」
「…そういうものか?」
「えぇ。そういうものよ」
何だか納得はできなかったが、ひとまずは雫石の言うことを受け入れておいた。
ここ数年で、雫石に逆らうと良いことがないと学んでいる翔平である。
諦めたように肩をすくめる翔平に、雫石は満足げに微笑む。
『これは、翔平くんにも言っていないことだけれど…』
雫石は、5年前に気付いていたことがあった。
純が何故1位をとっていないのか。
それは本人も言っていた通り、「目立つから」だろう。
それならば、何故2位なのか。
純が理事長の面子を気にして成績上位にいたとしても、3位でも4位でもいいはずである。
それに、ずっと同じ順位をとり続ける理由もない。
雫石は、入学以来学年1位。
それは、純によってとらされていたものだった。
純は、入学以来学年2位。
その場所には、何の意味があるのだろう。
純と一緒にいて分かったのは、純の行動には何かしら目的があることである。
純は、無意味なことをしない。
純は、2位になることで何か画策しているのかもしれない。
それが何かは、雫石には分からない。
気になっていたこともあったが、考えても分からなかった。
それに、もうあまり気にならなくなった。
雫石は、純が好きである。
一番の、友人である。
何があっても、それは変わらない。
それだけが分かっていれば、良かった。




