78 1位と2位②
『やっと図書室に行けるわ』
試験結果の発表から1週間ほど経った頃、雫石は借りていた本を返すために図書室に向かっていた。
中等部の広い校舎にもだいぶ慣れ、新しい制服も体に馴染んできた。
最近は少し忙しかったので、図書室に行くのは久しぶりだった。
幼い頃から、本を読むことは好きだった。
周りのことが気にならなくなるし、本の中にはいろんな世界が広がっていて、とても面白い。
中等部の図書室は初等部とは比べものにならないくらいたくさん蔵書があるので、読みたいものがたくさんある。
先日借りた本の続きが気になってしまい、早く続きを借りに行きたくて最近はずっと落ち着かなかった。
図書室に向かっていると、1人の男子生徒を見かけた。
漆黒の髪に他の男子より少し高い背は、見たことのある姿だった。
いつも目で追ってしまうあの人と、よく一緒にいる男子である。
その男子は誰かを探しているのか、キョロキョロと周りを見ながら庭の中をどんどん奥に進んでいる。
『もしかして…』
何か確信があったわけではない。
もしかしたら落し物を探していたのかもしれないし、探している相手もあの人とは限らない。
それでも、心に宿った小さな好奇心に逆らえなかった。
雫石は図書室へ向けていた足を止めると方向を変え、その男子の後をそっとついて行った。
漆黒の髪をした男子は相変わらずキョロキョロと周りを見ているが、心なしか視線を上の方に向けていることが多い。
そしてそのまま、どんどん人気のないところまで進んでいく。
『どこまで行くのかしら…』
こんなに校舎から離れたところまで来たことがないので、迷ってしまいそうである。
「いた!」
急な声にびっくりして、雫石は物陰に隠れた。
恐る恐る物陰から頭を出してそっと見てみると、さっきの男子が木の上を見てため息をついている。
「こんなところにいたのか。古文の先生から呼び出しがかかってたぞ」
「――――」
「いや、ちゃんと行けよ」
「――――」
「面倒くさがるなよ」
「――――」
「なんだと?」
どうやら木の上に人がいるようだが、ここから聞いていると男子が1人で喋っているようにしか見えない。
どうしてもその会話が気になってしまい、もう少し近付こうとした時、持っていた本を落としてしまった。
「ん?」
音に気付いた男子と目が合う。
覗き見していたのがばれてしまい、とても気まずい。
何か言わなくてはと思いながらも動けないでいると、ガサガサッという音とともに、木の上から人が落ちてきた。
はらりと緑色の葉っぱが、風に乗って落ちる。
中等部の制服である濃い青色のワンピースがふわりと風を含み、肩をすぎたあたりで灰色がかった茶色い髪が揺れている。
瞳は、ガラス玉のような薄茶色。
いつも、遠くから見ている姿だった。
「櫻さん…」
いつも自分の隣にあったその名前が、つい口から出てしまった。
今まで名前を呼んだことも、話したこともないのに、何故か無意識に呼んでしまった。
気付いた時には、雫石はその場から走り出していた。
どうして走っているのか、自分でも分からなかった。
いつも話してみたいと思っていたはずなのに、実際に目の前に立つと、何故かそこにいてはいけないような気がした。
「あれ、誰だ?」
長い黒髪が遠ざかっていくのを見て、翔平は首を傾げる。
「優希雫石」
「優希……優希大臣のところの子供か?」
「そう」
「たしか…どこかで名前を見た気がするな」
「学年1位」
「あぁ、そういうことか」
どうりで、どこかで見たことがある名前のような気がした。
初等部1年からずっと、成績表の一番上にいる名前だ。
翔平は入学以来3位なので、成績表を見るたびに視界に入っていたのだろう。
「知り合いだったのか?」
純は首を横に振ると、芝生に落ちている本を拾う。
「人がついてきてるのに気付かないなんて」
翔平は、うっと嫌な顔をした。
純を探すのに集中していたとはいえ、あんな普通の女子がついてきていたことに気付かなかったのは、自分のミスである。
「悪かったな。でも、純がちゃんと古文の先生のところに行ってれば、俺が探しに来なくてもよかったんだからな」
「頼んでない」
「知ってる」
翔平が頼まれて、勝手に探しただけである。
翔平は、さっきの驚いた顔をして逃げるように去っていた女子を思い出す。
「なんで逃げたんだ?」
「さぁ」
「純が木の上から降りてきたから、驚いたんじゃないのか?」
「さぁ」
「それか、聞きに来たとか」
翔平は、ちらりと純を見る。
純の表情はいつもと変わらず、落としていった本を見ている。
「純が、何でずっと2位なのか」
翔平の言葉に、純は雫石が走っていた方向を見た。
『どうしましょう。きっと、おかしな人と思われてしまったわ…』
雫石は、自分の行動を反省していた。
気になったからと言って、あの男子の後をついて行くべきではなかった。
どう弁明しても、あの時の雫石は完全に不審者である。
『それに、本を落としてきてしまったし…』
あの後、少し時間が経ってからあの場所に戻ってみたのだが、本は落ちていなかった。
恐らく、あの2人のどちらかが本を持っていったのだろう。
2人のどちらかに尋ねればすぐに分かるのに、何故か聞きづらくてなかなか聞けない。
学園内で2人を見つけてもとっさに隠れてしまい、2人に近付くこともできなかった。
『ただ本を返してもらえばいいだけなのに…どうして言えないのかしら…』
覗き見をしていたことは、謝ればいい。
許してくれるかは分からないが、これに関しては雫石が悪いのだから謝るしかない。
謝って、本を返してもらえばいいだけなのだ。
それだけなのに、何故かできなかった。
気まずいからなのか、恥ずかしいからなのか、そのどれとも違うものなのか。
雫石は、自分の気持ちが分からなかった。
「優希さんは、どう思いますか?」
クラスメイトの声に、意識が引き戻される。
「ごめんなさい。何かしら?」
今は、いつも一緒にいる女子たちと会話をしていたのだった。
ついあの2人のことが気になってしまって、意識が逸れていた。
「お話、面白くありませんでした?」
1人が、そう尋ねる。
雫石はいつもの微笑みを意識しながら、首を横に振った。
「そんなことないわ。少しぼうっとしてしまって、ごめんなさい」
じっと観察するような視線が雫石に集まるが、雫石は微笑みを絶やさない。
その空気も一瞬だけで、すぐに楽しそうな雰囲気に戻る。
「この子が、お父様からプレゼントでプライベートジェットをもらったんですって」
「まぁ、それはすごいわ」
素直に感嘆すると、本人は少し自慢げに微笑んでいる。
「優希さんは、お父様からどんなプレゼントをもらったことがあるの?」
「優希さんのお父様は、外務大臣でしょう?海外のお土産とか、珍しいものをもらえそうだわ」
少し期待の眼差しを向けられ、雫石は内心苦笑いしながら変わらず微笑みを浮かべる。
「この前は、ベルギーのチョコレートを買ってきてくださったわ」
「…それだけ、ですか?」
期待外れな答えで申し訳ないが、雫石は嘘を言っていない。
「お姉様がチョコレートがお好きだから、買ってきてくださったの」
雫石の父は海外への出張が多いが、お土産は基本的に妻と子供が好きなものしか買ってこない。
そもそも海外への出張が多い外務大臣は早く辞めたいらしく、妻と子供がいる日本にいたいらしい。
『このことは、言えないけれど』
外務大臣を早く辞めたいらしいなんて雫石の口から言ったら、このクラスメイトたちにどんな噂を流されるか分かったものではない。
きっとすぐに親たちに伝わり、噂は尾ひれが付いて広まっていくだろう。
会話する時は、誰が相手でも気を抜いてはいけないのだ。
「優希さんのお父様は、家族思いなのね」
これ以上は面白い情報は聞けないと思ったのか、話の流れが少し違う方向へ変わる。
「優希さんのお母様と結婚するために、お婿さんに入ったのでしょう?素敵だわ」
雫石の母は優希流の跡取りだったので、結婚して家を出ることはできなかった。
それでも母と結婚することを諦めず、政治家を輩出する名家の名を捨てて優希の家に婿入りしてきたのが、父である。
「私も、そんな旦那さまがいいわ」
「私も、私のことを好きになってくれる人がいいわ」
そうよね、と共感の輪が広がっていく。
夢を見るように楽しそうに話している女子たちのうち、自分の想う相手と結婚できるのはどのくらいかは分からない。
政略結婚が当たり前の世界で生きている雫石たちにとって、恋愛結婚というのは決して多くはない。
「優希さんは、どういうお相手がいいですか?」
また話の矛先を向けられ、雫石は少し困ったように微笑む。
「まだ、よく分からないわ」
雫石たちは、まだ12歳である。
妥当な答えだと思ったのだが、少し不満げな空気が伝わってくる。
どうやら、少し答え方を間違えたらしい。
「でも、そうね…」
雫石も、夢見る少女になる必要があるようだ。
「お父様のように、いくつになってもその女性だけを大切にしてくれる人がいいわ」
最後に少し恥ずかしいのを誤魔化すように視線を下げて微笑めば、クラスメイトたちから不満そうな空気は消え去る。
「やっぱり、そうよね」
「優希さんも、そうなのね」
「素敵だわ」
少し熱が入った言葉を聞きながら、雫石は当たり障りのないように頷いていく。
『これで、大丈夫よね』
相手に情報を与えすぎることもなく、相手の機嫌を損ねることもなく、会話を終えられたはずだ。
『…これで、大丈夫よね』
会話とは、終わった時に安堵感と不安感を覚えるものなのだろうか。
少し心によぎった疑問に気付かないふりをして、雫石は微笑んだ。




