66 狙うもの①
静華学園の体育祭は、2日間に渡って行われる。
最終日となった2日目の朝の空は、厚い雲に覆われていた。
今日でチームの勝敗が決まるというのもあって、生徒たちは昨日以上に気合いが入っているようだった。
つぼみが競技妨害を受けたという事実は、よくあることだと特別気にしている生徒はいないようだった。
『今日は、確実に私も狙われるわ』
雫石は、校舎からだいぶ離れたグラウンドに来ていた。
これから、長距離走に出場するのである。
雫石も晴と同じく、運動神経は人並みである。
翔平と同じチームなのでチームの勝利への貢献は翔平に任せ、雫石はあまり生徒に人気のない競技に出ることにした。
雫石が上位を狙うのは難しいので、みんなが出たくない競技を引き受けることにしたのだ。
そのためこれから出場する長距離走は人気がないのだが、何故か観客が多く集まっていた。
どうやら、学園一の美少女が走る姿を見ようと集まっているらしい。
観客も、男性の割合が多かった。
こういったことには慣れきっているので、今さらあまり気にならない雫石である。
『私を、狙うとしたら…』
雫石は、スタート位置に立った。
昨日の晴の話を聞いてから、自分が狙われるとしたらどういう方法か考えた。
雫石は純と翔平のように運動神経が良いわけではないので、競技妨害を受けてもそこまで周りへの影響がない。
どちらかというと、競技妨害をされたことで同情を集めるだろう。
だったら、どうするか。
つぼみの牡丹としての信頼を落とすためには、どんなことをされるか。
雫石は、隣に並ぶ生徒たちを見た。
パンッという音が鳴り、一斉にスタートする。
出場者の中には陸上部の生徒もいるので、雫石がついていけるスピードではない。
しかしつぼみとして、チームの大将として1位を狙えないとしても手を抜くわけにはいかない。
全力を出して走るものの、先頭集団に置いて行かれてしまう。
今のところ、順位はちょうど真ん中あたりだろう。
雫石の隣には、短髪の女子生徒がいる。
陸上部のような綺麗なフォームだが、走るペースは雫石と同じである。
雫石の息はどんどん上がっていくのに、隣で走る生徒の息づかいはほとんど聞こえない。
『私の、信頼を落とす方法…』
それは、いくつか考えられる。
例えば、雫石を狙うのではなく、近くにいる生徒を狙う。
雫石がその生徒を守れなければ、それはつぼみの能力を疑うきっかけにはなるだろう。
雫石自身を傷付けなくても、雫石の信用を落とす方法などいくらでもある。
『それだけは、避けなくては…』
緊張といくつかの不安で、汗のかいた手のひらを握りしめる。
つぼみとして、それだけは避けなければならない。
しかしそのまま走っていても、何も起きなかった。
雫石と同じペースで走っていた女子生徒は最後まで雫石の隣におり、同じタイミングでゴールした。
雫石は息を落ち着かせながら、自分の順位を確認した。
真ん中よりは少し上といったくらいで、ほとんど運動部ばかりの出場者を考えれば、十分がんばった方だろう。
雫石は胸を押さえ、競技中に何もなかったことに胸を撫で下ろした。
労いの声をかけてくれるチームメイトたちに応えながら、少し休憩するためにその場から離れた。
水を飲みに行こうと、水飲み場へ向かう。
競技場から少し離れてしまえば、人はほとんどいない。
グラウンドのある場所が校舎からかなり離れているので、陸上の競技を行う生徒と観客くらいしかこの辺りにはいないのだ。
競技場では別の競技が始まっているので、グラウンドの方からは歓声が聞こえてくる。
さらさらと流れる風を感じながら、流れる汗をタオルで拭う。
ガサリという音で振り向くと、男の人が1人立っていた。
「どうかされましたか?」
生徒ではないし、服装を見たところ学園の職員や警備の人間でもなさそうである。
恐らく、外部から体育祭を見に来た人だろう。
20代くらいの若い男性で、すらりと高い背にブランド物のジャケットを身につけたモデルのようなイケメンである。
「迷われたようでしたら、道案内を…」
「道案内は必要ないですよ」
「では、何か私にご用でしょうか?」
男は、にやりと笑った。
「少し、怖い思いをしてもらうだけさ」
そう言うと、男は雫石に向かってくる。
雫石はその男から離れるように、後ずさりした。
背を向けて走り出そうとしたが、腕を男に掴まれる。
「…離してください」
腕を引くも、雫石の力では男の人には敵わない。
「体育祭で大人しくしていると誓えば、別に何もしないんだけどな」
そう言いながらも、男は口元に笑みを浮かべて雫石に近付く。
男の手が雫石の肩に触れようとした時、シューッという音と共に視界が奪われた。
「なっ!」
思わず目に手を当てるが、刺すような激痛で目が開けられない。
「な、なにを…」
視界が奪われた中で目の前にいた少女を掴もうとすると、次はバシュッという音が聞こえた。
何か網のようなものが自分に覆いかぶさり、そのまま地面に倒される。
もがいて出ようとしたが、動けば動くほど網のようなものが体に絡まった。
「くそっ…一体、何を…」
「それは、こちらの台詞です」
痛みで目は開けられないが、近くから少女の声がする。
「怖い思いとは、私に何をするつもりだったのでしょうか。こんなに、人気のないところで」
男は、ただ沈黙した。
「つぼみの牡丹を襲えと、誰かに命令されましたか?」
雫石の言葉に、男がぴくりと反応する。
「少し脅せば、私が何もできなくなると思いましたか?」
雫石は、一般的に見ればただの勉強ができるお嬢様だ。
そんなお嬢様を使えないようにするには、競技妨害や爆弾なんて必要ないのだ。
ただ、人気のない場所で少し脅せばいい。
何かをしても、しなくても、それすら関係ない。
人気のない場所で若い男と2人きりだったという事実だけで、雫石の信用を落とすのには十分なのだ。
「あなたたちの考えることに、何故私たちが至らないと思うのでしょうか」
雫石は、少し怒りのはらんだ声を繁みの方にも向けた。
ガサガサという音しか聞こえないが、そこではもう1人の男が同じように罠にはまっている。
雫石が人気のないところで男と2人きりだという事実を広めるのならば、証拠がいる。
写真か動画を撮る人間が近くにいると思い、罠を張り巡らしておいて良かった。
雫石は、手に持っているいくつかのグッズを眺めた。
「えぇと…眠らせるのは、これね」
自分の口元を覆うと、網の中でモゴモゴ動いている男にスプレーを振りかける。
少しすると、男はこくりと眠りについた。
もう1人の男も同じようにして眠らせ、雫石はやっとほっと息をつく。
「やっぱり、皐月くんと凪月くんはすごいわ」
雫石は、ポケットから他のグッズも取り出す。
催涙スプレーに、捕獲用の網が出てくる道具。
小型のスタンガンに、強烈な眠り薬入りのスプレーなど、防犯グッズがやまもりである。
昨日皐月と凪月が用意すると言っていたのは、これらのことだった。
純と翔平は自分の身を自分で守れるが、雫石たちはそうとは言えない。
しかしつぼみが狙われると分かっている中で、自衛をしなければならない。
そのため、皐月と凪月が1人でいても自分の身を守れるように防犯グッズを1日で作ってきてくれたのだ。
雫石は特に1人でいる時に狙われる可能性が高かったため、2人はやまもりにグッズを渡してくれた。
「ちゃんと使えて良かったわ」
皐月と凪月が使いやすいように作ってくれたおかげか、どれも小型でありながら威力は十分で雫石でも使いやすかった。
この男たちのことを報告するために学園の職員に連絡をとろうとしていると、いつの間にか男の傍らに短髪の女子生徒が現れていた。
長距離走で、ずっと一緒に走っていた生徒である。
「次の競技に行かなくても、大丈夫?」
「近道すれば大丈夫」
そう言うと、短髪の女子生徒は髪を掴んでぐっと引っ張る。
黒髪短髪の中から、灰色がかった薄茶色の髪がさらりと風に現れる。
「私1人でも、大丈夫だと言ったでしょう?」
ぐしゃぐしゃと手櫛で髪を直すと、純は少し不機嫌な視線を雫石に返す。
「何があるか分かんない」
純は雫石が心配で、ずっと近くにいてくれたらしい。
「皐月くんと凪月くんのグッズがあったから、大丈夫よ。でも、心配してくれてありがとう」
長距離走の時は、雫石の近くにいる生徒が巻き込まれる可能性を考えて、純が変装して紛れ込んでいてくれていた。
そこでは何もなかったので、雫石はわざと人気のないところで1人になったのだ。
しかし純としては、雫石が自ら囮になるような作戦をとったことが不満らしい。
「私も、いつまでも純と翔平くんに守られているわけにはいかないわ」
自分の身を自分で守れるようにならないと、つぼみとしては成長できない。
純が心配してくれる気持ちは十分に分かる。
何故なら、雫石は今までにもこうやって異性から襲われるような経験が何回もあったからである。
雫石の気を引こうとしたり、女子からの妬みや恨みが回りに回ってきたり、理由はいろいろだった。
それらを撃退してくれたのは、いつも純と翔平だった。
雫石には、それだけの力がない。
でも、方法ならいくらでもあるのだ。
「純を安心させられるくらいになるには、少し時間がかかるかもしれないわ。でもいつか、私1人でも大丈夫だと純に言ってもらえるようにがんばるわ」
雫石にとってもそれは少し寂しいことでもあるが、いつまでも純に甘えているばかりではいけない。
純はまだ少し不満げだったが、雫石の覚悟に諦めたように小さく頷いた。
「この人たちは、理事長付きの職員にお願いしましょう」
この男たちの目が覚めたら、話を聞いてもらうしかない。
しかし、この2人を罪に問うような事実はない。
ただ声をかけただけ、ただ写真を撮りたかっただけと言われれば、雫石を襲おうとした事実などどこにもなくなる。
昨日の競技妨害をした2人も、どこまで罪に問えるかは分からない。
昨日の2人は、どちらも金で雇われたと言っていた。
雇い主の名前も知らないらしい。
晴への爆弾の送り主は、存在しないでたらめな名前だった。
今足元で転がっている2人も、きっと金で雇われただけで、雇い主のことは知らないだろう。
つぼみを狙っているのは誰なのか、雫石たちはまだ掴めていなかった。
『できるだけ早く見つけないと…』
それも体育祭中に見つけられなければ、きっと逃がしてしまうだろう。
つぼみが狙われたという事実は、証拠に乏しい。
この機会を逃せば、犯人が誰か分かっても簡単に言い逃れられてしまうのだ。
つぼみが失脚することで喜ぶ人間は、残念ながら少なくない。
理事長をよく思わない者や、つぼみという制度をよく思わない者、静華学園を貶めることで利益がある者など、数え出したらきりがない。
『京極家の当主も、学園の大切なものを狙っていたわ』
京極家の当主もつぼみを狙っていたというのが、翔平の見解だ。
『もし、そうなら……』
雫石は、自分の思い至った思考から浮上するように視線を上げた。
薄茶色の瞳が、自分を見つめ返している。
さっきまでとは違い、感情を読ませない瞳だ。
「…理事長は、つぼみが外部の人間に狙われていることをご存知なのね」
純は、ただこくりと頷く。
理事長が京極家の当主がつぼみを狙っていることに気付いていたのなら、他にもつぼみを狙う存在がいることに気付いていてもおかしくはない。
先日の理事長の指令で動いた時、純は学園の大切なものが何か気付いているようだった。
気付いていて、雫石たちには隠していた。
恐らく、そこには理事長の意志が働いている。
『理事長は、全てを教えてくださる方ではないわ』
それは、この2ヶ月でよく分かっている。
「理事長が1つの目的で動くことはあまりない」
「指令書に全てを書くこともない」
「理事長の一手は何かしらの布石になっている」
これらは全て、京極家から帰ってきた時に純が言っていたことだ。
雫石は、昨日の理事長からの指令を思い出した。
『体育祭は続行』
体育祭を中止してしまえば、つぼみが相手に屈したことになるからだ。
それに、せっかく狙われているチャンスを逃すわけにはいかない。
『他にも、目的があるとしたら…』
体育祭を続けることで、理事長やつぼみにあるメリットとは。
『全生徒を守りなさい』
全ての生徒を守れと言っているということは、暗につぼみを狙っているのが生徒ではないということではないか。
『学園の敵を、排除するように』
排除。
つまりは、押しのけてそこからどかせと言っている。
そこにいないものを、排除することはできない。
雫石は、さっきの自分の思考を再び呼び出した。
『体育祭のうちにつぼみを狙っている人物を見つけなければ、その人物を逃がしてしまう』
自分の思考と、理事長の指令の可能性をすり合わせると、見えてくるものがある。
「純」
雫石に名を呼ばれた純は、視線だけで応える。
「お願いがあるの」
純は、もうすぐ始まる競技に行かなければならないはずだ。
それは分かっているが、純にしか頼めないことだった。
「いいよ」
純は雫石のお願いが何かを聞く前に、あっさり了承した。
「…でも、競技が始まってしまうわ」
「急げば大丈夫」
別に何ともない、という風に純は頷く。
その言い方がどことなく授業をさぼっている時の雰囲気と似ていて、雫石は少し肩の力が抜けた。
「翔平くんに、伝えてほしいことがあるの」
本当ならつぼみのメンバー全員に伝えてほしいところだが、今の時間帯に自由に動けるのは翔平だけだ。
それに、翔平に最初に伝えた方が合理的だと分かっていた。
「つぼみを狙っている人は、今日この体育祭に来ている人の中にいるはずよ」
それが、雫石が導き出した答えだった。
「体育祭でつぼみが狙われることを理事長が事前に分かっていたのなら、この機会を逃すはずはないわ。体育祭という公の場で、その人を排除するつもりなのでしょう」
つぼみが狙われると分かっていて、理事長が何の手も打たないわけがない。
「理事長が招いた来客の中に、私たちを狙っている人がいるはずだわ」
つぼみを摘むために花園に足を踏み入れたその人間は、華の方から招き入れられたのだ。
それが誰かは、まだ分からない。
特定するだけの情報が、まだ集まっていないのだ。
「このことを、できるだけ早く翔平くんに伝えてほしいの」
翔平は、雫石よりも社交界に詳しい。
来客たちのことも、よく知っているはずなのだ。
「お願いできるかしら」
雫石が少し不安げに純を見ると、純は小さな笑みを浮かべていた。
それはきっと無意識のうちに出た、本当に微かな笑みだった。
「いいよ」
純がそう言うと、ふっと風が動く。
瞬きをした時には、純の姿は消えていた。
「急げば大丈夫」と言っていた言葉の通り、どうやら最速で翔平のもとへ向かったらしい。
まるで忍者のようである。
「…私も、私にできること、を………」
今になって湧き上がってきた体の震えを抑えながら、雫石はこれからのことに思考を回す。
今さら恐怖を覚えたところで、何にもならない。
純にあれだけのことを言ったのだ。
これくらいの震えは、自分で乗り切らなければいけない。
まだまだ考えるべきことは、たくさんある。
雫石には、こうやって考えることくらいしかできないのだ。
純と翔平のように敵を倒すことも、晴のような異変に気付くような耳も、皐月と凪月のように様々なグッズを生み出すこともできない。
優秀だと言われ続けていたこの頭を、今使わなければ意味がなかった。




