58 友達③
「ちょっと待ってよ」
女子に呼び止められて皐月と凪月が振り返ると、そこには橘菜久流が立っていた。
肩を過ぎたあたりで髪を揺らし、少し短めの前髪は勝気な目を隠すことなく、視線は強い。
その背後には、千歳梨緒が見え隠れしている。
人見知りなのか皐月と凪月が怖いのか、目を合わせようとはしない。
小柄な体は菜久流の背中に隠れてしまっており、ボブヘアがちらちらと見えている。
「何?」
「僕らに何か用?」
皐月と凪月はこの2人とは特に接点がなかったので、何故話しかけられたのか分からなかった。
「あなたたち、そのオレンジ色の頭は何なの?」
「「何って?」」
「つぼみは全生徒の模範でしょう?そんな人たちが奇抜な髪色なのはどうかと思うわ」
皐月と凪月は、お互いの髪を見る。
明るいオレンジ色をしており、もちろん地毛ではない。
「校則に染髪を禁じるものはないよ」
「そういう問題じゃないわ。つぼみとしての意識の問題を話しているのよ。学園の生徒の模範であるのだから、つぼみは正しくあるべきだわ」
皐月と凪月は、ちょっとイラついた。
よく分からないが、この女子はわざわざ自分たちに髪色の文句を言いに来たらしい。
「生徒の中にも、髪を染めてる人はいるよ」
「僕らがこういう姿だから、みんなやりやすいんじゃないの」
「でも、学生として相応しくないわ」
「それは君の価値観でしょ」
「人に価値観を押し付けるのはどうなの」
「…あなたたちは、つぼみでしょう」
「だから、何?」
少し苛ついている皐月を宥めるように、凪月は皐月に視線を送る。
それだけで分かったようで、皐月は少し息を吐いて落ち着く。
つぼみである自分たちが、こんな些細なことで言い合いになって問題を起こすわけにもいかない。
「つぼみは髪を染めちゃいけないっていう校則はないよ」
落ち着きを取り戻した皐月は、ただ事実を告げる。
「それに、髪色でその人の人間性を疑うの?」
「それは…」
少し旗色が悪くなってきたせいか、橘菜久流には最初の自分が正しいと信じて疑わないような余裕がなくなってきている。
凪月は、この辺りが締め時と見て話を終わらせることにした。
「僕らがつぼみとして正しい姿なのか、今ここで君とこれ以上議論するつもりはないよ。ただ、人を見た目で判断する君が正しいと言えるのかどうかは疑問だけど」
「……っ」
橘菜久流は、皐月と凪月の冷静な反論に顔を真っ赤にしている。
「でもっ…」
「…菜久流ちゃん、もう行こうよ」
「梨緒…」
涙目の千歳梨緒に止められると、橘菜久流は2人をキッと睨み付ける。
「私は、間違っていないわ」
そう言うと、怒りながらその場を離れていった。
「何なの?あれ」
「さぁ?」
皐月と凪月は、怒りというよりはこの状況の意味が分からずに首を傾げた。
自分の意見が正しいと信じているわりには、反論されると言い返せていない。
皐月と凪月が橘菜久流に絡まれたのはこれが初めてだが、どうやらあの感じで今までいろんな人に突っかかってきたらしい。
「よく、今まで大事にならなかったよね」
「言ってることに正当性もないし、みんな聞き流してたんじゃない?」
今まで橘菜久流に絡まれた生徒は多いはずだが、その多くはただ嵐にあったように相手にしていなかったのかもしれない。
一部の我慢ならなかった生徒が言い返したりして、ちょくちょく言い争いが起きたのだろう。
「ま、いっか」
「だね」
そろそろ授業が始まってしまうので、皐月と凪月は足早に教室へ向かった。
その時は何だか天災にあったような気分で、深くは気にしていなかった。
しかし後日、このことを他のメンバーに話してみると、意外な反応が返ってきた。
「おれも言われたよ」
「私もよ」
「俺もだな」
どうやら晴たちも、橘菜久流に文句を言われたらしい。
「廊下で女の子に囲まれてたら、女の子を誑かしてるんじゃないかって言われたよ。おれ、破廉恥なんだって…」
晴はそう言われたことがショックだったのか、少し落ち込んでいる。
晴は少なからず自分の容姿にコンプレックスを抱いているので、少し傷付いたのだろう。
女の子たちが近付いてくるのも、晴が望んでいるわけではない。
集まってくる女の子たちを無下にあしらわず、拒絶しないのは晴の優しさだ。
「私は図書室で本を借りていたら、借りすぎじゃないかって怒られたわ。借りる本の数に制限がないことを伝えたのだけれど、他の人がその本を読みたい時にあなたが借りていたら読めないじゃないって言われたわね」
「俺は中庭で寝ていたらそんなところで寝るなって言われたな。あとは純を探しに学園内を歩き回っていたら行動が不審すぎるとか、その顔で人を怖がらせるなとか、ネクタイを緩めるなとか、制服の前を開けるなとか、あとは…」
「いや、もういいよ…」
「翔平は特に多いね」
「純は?」
「逃げた」
「なるほど…」
文句を言われるのが嫌で逃げ回ったらしい。
純が本気で逃げれば、誰も見つけることはできない。
最近純を追いかけまわったことのある皐月と凪月は、身に染みて分かっている。
今日は昼食にクロワッサンを食べていて、皐月と凪月は顔を見合わせてこっそり笑った。
『今日も、またパンだね』
『何でパン以外食べないんだろうね』
2人が目で会話していると、全員の話を聞いた晴が首を傾げる。
「どうしておれたち、こんなに文句を言われるんだろう。それも、全部細かすぎて無理やり探したみたいだよね」
「そうね。何かあるのかしら」
「この前のことが気に入らなかったんだろ」
「この前のことって?」
「俺と純が注意したやつだ。まったく納得していなかったからな。それに、俺たちが文句を言われ始めたのもあの後からだ」
「えぇー…」
「つまり、僕ら勝手に目の敵にされてるってわけ?」
「そうみたいだな」
翔平は珍しく、純みたいに面倒くさそうにしている。
「まぁ、いつかは終わるだろ。しつこければ、それなりの対処をすればいい」
他の生徒に絡まれるのは、別に珍しいことではない。
嫉妬や恨み、己の野心のために、謂れのない言葉をぶつけられるのは、よくあることである。
今回の橘菜久流はどうやらそういった理由ではないようだが、こちらに非がないのに絡まれているのは同じだ。
「早く終わるといいね」
「すぐ飽きるんじゃない?」
人に言いがかりをつけるのは、意外と大変なものだ。
それも、言ったはいいものの毎回正論で返されているので、いつかは諦めるだろう。
橘菜久流のことは特に気にするものではないとして、翔平たちは大きな問題が怒らない限りは関わらないことにした。
しかし、問題は起きてしまったのだった。
数日後、その一報を持ってきたのは、皐月と凪月だった。
焦ったようにつぼみの部屋に入ってくると、2人して机を叩く。
「まずいよ!」
「問題が起きちゃった!」
2人の緊迫した空気に、何事かと心配になる。
「何が起きたんだ?」
「それが…」
「あの橘菜久流って子、いろんなところに突っかかってたのは昔からなんだけどさ。ついにある生徒を怒らせちゃって」
「その生徒っていうのが、大物弁護士の息子なんだよ」
「怒らせると、けっこうまずい人なの?」
皐月と凪月は、晴の指摘にうんうんと勢いよく頷く。
「その生徒も、どっちかというと短気なんだけどさ」
「一番やばいのは、親が怒ってるんだよね」
「その弁護士が、怒ってるのか」
「そう。それで、その弁護士が橘菜久流の親に直談判したらしいんだよ」
「橘さんのお父様って確か…」
「「警視総監」」
弁護士と警視総監という、何とも面倒くさそうな立場同士の親が、自分たちの子供のことで揉めているらしい。
「だけど、その弁護士からの直談判を、警視総監が突っぱねたらしいんだよね」
「自分の娘は、正しいことをしただけだって言って」
「あら。親子で似ているのね」
雫石の微笑みはいつも通りだが、声色はどことなく冷たい。
「それで、その親同士の問題は解決したのか?」
皐月と凪月は、ふるふると首を横に振る。
「…してない」
「それどころか、弁護士と警視総監が揉めてるせいで、ある事件に影響が出てるらしいんだよね」
どうやら、皐月と凪月はかなり情報を掴んでいるらしい。
そういった噂はすぐに広まるものだが、学園でそういった話はまだ聞いていない。
2人が独自のルートで仕入れてきたのだろう。
「弁護士が警察に文句を言いまくって、警察の不手際を全部警視総監のせいにしてるらしいよ」
「でも警視総監はそんなの認めないからさ。捜査がなかなか進まないわけ」
「しかも、その事件の被害者の知り合いにスポーツ用品メーカーの社長がいてさ…」
「…おい、まさかその会社、今度の体育祭で協賛してもらっているところか?」
一気に表情が険しくなった翔平に、皐月と凪月はゆっくり頷く。
翔平は皐月と凪月がここまで焦っている理由が分かり、その現状にため息が出そうだった。
「あの菜久流って女の子のせいで、大規模な三つ巴合戦が勃発しそう。スポーツ用品メーカーの社長の子供も静華にいるから、学園内でも三つ巴合戦が起きるよ、これ」
「しかも、スポーツ用品メーカーの社長は黙ってないと思うから、今度の体育祭にも影響するかも」
「……最悪だな」
子供の喧嘩に親が関わるとろくなことにならないのが世の常だが、これは規模が大きすぎる。
しかも静華学園に影響が出るとなると、つぼみが動かなければならない。
つぼみの部屋に、ため息がいくつも落ちた。
皐月と凪月が少し落ち着いたところで、今後のために話し合いをすることになった。
体育祭まであと2週間を切っているので、つぼみとしては憂いはできるだけ払っておきたい。
「その女子が弁護士の息子を怒らせた理由は、知っているか?」
マカロンを食べて糖分を補給していた皐月と凪月は、首を横に振る。
「理由までは、掴めなかった」
「その弁護士の息子は、高等部3年の東海林っていう生徒だけど」
「スポーツ用品メーカーの息子は、高等部2年の波多野っていう生徒」
「東海林…聞いたことがあるな。かなりの数の弁護士を抱えている、大手弁護士事務所の所長か」
「…いや、息子の東海林くんは翔平のクラスメイトだけどね」
「そういえば、息子がいると聞いたことがあるな」
「…いや、だからクラスメイトだって」
どうやら、父親の方は知っているが息子の方とはあまり喋ったことがないらしい。
皐月と凪月が雫石に目を向けると、2人が聞きたいことが分かっているのか、雫石はにっこりと微笑む。
「1つのことしか見えていないの」
「…いや、見えてなさすぎでしょ」
「クラスメイトのことも見えてないの…?」
いつも完璧な翔平だが、意外な欠陥があるらしい。
「まずは、生徒同士の喧嘩の理由を掴みたいな」
雫石たちの会話は聞こえていないのか、翔平は話を進めていく。
「子供同士の諍いが解決すれば、親も少しは冷静になるだろう。親同士の仲にまで、関与するつもりはない」
「そうね。それは大人同士で解決していただきましょう」
つぼみは、あくまで静華学園内の組織である。
学園の外の問題に、頭を突っ込んでいる暇はない。
「まぁ、学園に害がないという条件付きだがな」
翔平の言葉に、晴たちも頷く。
学園に害となるもの、敵となりえるのであれば、その限りではない。
マカロンをぺろりと食べ終えた皐月と凪月は、元気になったのか席を立つ。
「僕らは、橘菜久流と東海林くんの喧嘩の内容を探ってくるよ」
「情報収集は、任せて」
2人の情報の確かさはつぼみ全員が知っているので、頼もしい2人に頷く。
「あぁ。頼んだ」
「「じゃあ、行ってくるねー」」
「行ってらっしゃい」
つぼみの部屋を出ていく皐月と凪月を、4人で見送る。
「俺たちは、体育祭への影響を考えて対策を…」
ふと視線を感じると、薄茶色の瞳と目が合う。
さっきからずっと喋っていないが、それは不機嫌だからだ。
厄介ごとに巻き込まれるのが嫌いな純にとって、橘菜久流のせいでつぼみが動くことになったのが気に入らないのだろう。
「何かあるなら、口で言え」
面倒くさがりの純は、たまに喋ることすら面倒くさがって視線だけで訴えてくることがある。
そういう時は決まって、翔平が代弁することになるのだ。
視線だけで純の言いたいことが分かってしまう翔平も翔平なのだが、今はつぼみの話し合いの時間である。
自分の意見は自分で言ってもらわないと、困るのだ。
純は翔平に代弁させることを諦めたのか、面倒くさそうに口を開いた。
「警視総監と弁護士、企業の社長に恩を売れるチャンスがあるのに、何で何もしないの」
「子供同士の喧嘩をおれたちが解決して、恩を感じてくれるかな?」
「恩は押し付けるものでしょ」
純は、そんな当たり前のことも分からないのか、という顔をしている。
しかし、普通の恩は押し付けるものではない。
「親同士の問題に介入するのか?リスクが高いわりに、返ってくるものは不確定じゃないか?」
「恩を売ったとしても、返してくださるとは限らないのではないの?」
純は、翔平と雫石にも「何を言っているのか」という顔を向ける。
「返させるように仕向ける。当たり前でしょ」
「…当たり前ではないと思うんだが」
純基準では、恩は押し付けるものであり、恩返しはさせるように仕向けるものらしい。
「人間は、犬でも鶴でもない」
「…一宿一飯の恩は犬でも忘れない。鶴も恩返しをちゃんとするが、人間はそうではないと言いたいんだな」
純は、こくりと頷く。
結局、純の言葉を翔平が補足説明してしまっている。
「まぁ、確かに純の言うことも一理ある」
恩を売ったからといって確実に返ってくるものではないし、優しさを人に向けたからといって優しさが返ってくるものではない。
人間は、そこまで素直ではない。
もっと複雑で、面倒なのだ。
「それで、お前はどうしたいんだ?」
そこまで言うなら、具体的な策はすでに浮かんでいるのだろう。
純は面倒くさそうな表情から一転、人の悪そうな笑みを浮かべた。




