47 心に響く音②
その後、雫石が持ってきてくれた紅茶とお菓子のおかげもあってやっと場が落ち着いた。
「母さん、どうしてこんなに急に来たの?」
サラはやっと涙が止まっているも、ハンカチを握りしめながらまだ目が潤んでおり、ちょっとした拍子に泣き出しそうである。
「休暇に会えなかったから、会いに来たのよ…」
「それなら連絡して来ればいいんだから、それだけじゃないでしょう?」
晴は自分の母親のことをよく分かっているようで、落ち着かせるように優しく尋ねている。
サラは子供のように頷くと、震える口を小さく開く。
「晴が…晴がね…」
「おれがどうしたの?」
サラはガシッと晴の肩を両手で掴んだと思うと、再び子供のように泣き出した。
「晴が!風船になっちゃったって!」
「え?」
「は?」
「「どういうこと?」」
サラ以外、全員何を言っているのか意味が分からない。
「この前メールで言ってたじゃない!風船になったって!それで心配していてもたってもいられなくなったのよーー‼」
そう叫ぶと、また晴に抱きつくようにして泣いている。
「晴。いつの間に風船になったの?」
「いや、なったつもりはないけど…」
双子の片割れの問いに、真面目に答える晴である。
「メールにそれに近いことを書いたのか?」
「いや…書いてないけど…」
「晴くんは、お母様には日本語でメールを書くの?」
雫石は少し思い当たることがあるようだった。
「いや、いつも英語で…」
晴は、そこで何かに引っかかったようだった。
「母さん、おれのメールになんて書いてあったって?」
「だから、風船…balloonになったって」
それで、周りもなんとなく理由が分かった。
晴は頭を抱えている。
「母さん…メールはちゃんと読もうよ。おれはballoonになったとは書いてないよ。Balloon flowerになったって書いたの。静華学園から、桔梗の称号をもらったんだよ」
「桔梗…?」
「しかも、そのメールを送ってからもう1ヶ月以上経ってるよ。いつ見たの?それ」
「えぇと、2日くらい前かしら?」
「母さん……」
キョトンとしている母親に、晴は何も言えずガックリとうなだれている。
「晴のお母さんって…天然?」
「普段はこんなことないんだけど…おれと父さん絡みになると、早とちりして暴走しがちになるんだ…。仕事をしてる時は、メールに気付かないほどストイックなんだけど…一度その集中が切れると反動がすごいんだ…」
「あー…凄い女優って感じがするよ」
ただ、その反動を受ける人間は大変だろう。
そして映画の撮影を蹴ってきたと言っていたあたり、仕事場でもその反動を被った人間がいるはずだ。
「母さん、よく見てよ。おれは風船になってないでしょう?大丈夫だから、落ち着いて」
「本当ね?今後も風船にならない?」
「ならないよ」
「…そう。良かったわ」
随分とおかしい会話だが、やっと安心したらしい。
涙も収まり、落ち着いたように紅茶を飲んでいる。
「あら、あなたたちはどなただったかしら?」
「………」
分かってはいたが、周りが見えなくなる性格らしい。
晴の問題が落ち着いたので、やっとそれ以外を見ることができたようだ。
「…おれの友達だよ」
「晴のお友達?まぁ、初めまして。晴の母のサラです」
『『知ってます』』
全員が心の中で突っ込んだ。
「晴くんと同じつぼみの、優希雫石です」
「同じく、龍谷翔平です」
「蒼葉皐月です」
「弟の凪月です。初めまして」
「安心したわ。お友達もできて、楽しくやっているのね?」
「うん。みんな優しいし、学校も楽しいよ」
「…そう。本当に、良かったわ」
サラはとても安心したように胸を撫で下ろしている。
そんな母親を見て、晴も微笑む。
その時、何かに気付いたように晴が反応する。
「?」
どうしたのかと思っていると、どこからか微かに音が聞こえてきた。
「何か音がするね」
みんな気付いたらしい。
よく聞くと、それはバイオリンのようだった。
「愛の……」
小さな一言は、晴の口から出たものだった。
晴は唖然とし、サラもかなり驚いている。
晴はふらりと立ち上がると、突然走り出した。
「晴!」
サラも晴を追いかけて走っていく。
「なんだろう?」
「分からないが、ひとまずついていってみよう」
2人の様子は、普通ではない。
音のする方に近付いていくと、バイオリンの音がはっきりと聞こえてくる。
翔平は、その音に違和感を感じていた。
『エルガーの愛の挨拶か。かなり巧いが…随分無機質だな』
並外れた技術はあるのに、感情が全くこもっていないように聴こえる。
愛や優しさなど持っていないかのような、挨拶を面倒くさそうにしているような感じである。
『おい、まさかこれ…』
嫌な予感がしたと思ったら、突然音が途絶えた。
その先に行ってみると、サロンの机の上にヴァイオリンが置いてあった。
その前で晴とサラが立ち尽くしている。
演奏していた人物は、姿を消したらしい。
「今の…いったい、誰が…?」
「…どういうことなの?晴…」
不審に思うほど、2人は動揺していた。
今の音が信じられないような、起こっていることが夢だったかのような顔をしている。
『何だ…?』
2人の様子に違和感を感じながらも、さっき純に言われたことを思い出す。
『突っ込まない方がいい』
『……分かってる』
「…悪い。今弾いていたのは、多分純だ」
「…純が?」
「あそこまで完璧な技術を持ちながら心の全くこもっていない音を出すのは、あいつくらいだからな。人のヴァイオリンを勝手に弾いたことは、俺が謝る」
翔平からそのことを聞いても、晴はいまだに信じられないような顔をしている。
「…だって、このヴァイオリンには……鍵をかけてたはずなのに…」
『あいつ…』
やるだけやって後は人任せとは。
「本当にすまない。鍵も、あいつが開けたんだと思う」
「…そっ…か…」
晴は、別のところに驚いているようだった。
サラは、心配そうに息子の顔色を窺っている。
2人の様子に違和感を感じながらも、帰る時間が迫っていた翔平たちは純のやったことを謝りつつ晴の家を後にした。
家を出た瞬間に、出てくるだろうと思っていた人物が何事もなかったかのように現れた。
「お前な、人の家のものを勝手に開けて勝手に弾くな」
純はそんな言葉は聞こえていないかのように無視をしている。
相変わらずため息が出る。
このままため息ばかりしていたら、自分の息がもったいないと思う。
「でも、最後の晴くんとお母様の様子は何か変だったわね」
「そうだね」
「ヴァイオリンの音を聴いた瞬間に、雰囲気が変わったし」
翔平が感じた違和感には、3人も気付いていたらしい。
しかし気付いていたからといって口をはさめるかというと、また違う。
それぞれの家にはそれぞれの事情があるし、問題を抱えている。
それは簡単に首を突っ込んでいいものではない。自分たちのような家ならなおさらだった。
『当人がどうにかするしかない…』
それは、正しいことだろう。しかし。
『それに手を貸したいと思う気持ちは…間違っているのか?』
翔平は、隣にいる純を見た。
晴の母親は、しばらく日本に滞在するらしい。
晴がそれを母親の仕事関係者に伝えたら、阿鼻叫喚のすえ無理やり連れ帰えらせるために日本に向かっているということだった。
昨日別れた時ほどではないものの、今日の晴は少し暗かった。
「晴にも暗い時があるんだねー」
休み時間、双子と翔平は同じ授業を受けるために教室に向かっていた。
「誰にでもあるだろ」
「それはそうだけどさ…」
「いつも…不自然なくらい穏やかで誰にでも優しいよね」
「気付いていたのか」
「一緒にいればね」
「僕らはまだ1ヶ月しか一緒にいないから詳しくは知らないけど、翔平は知ってる?」
「いや、俺も知らない。つぼみになるまであまり話したことはなかったしな」
そこで、双子は前々から思っていることを聞いてみることにした。
「翔平って、クラスメートとあんまり喋らないよね。あんまり関わらないし」
「そうか?考えたことがなかったな」
今初めて考えた、という顔をしている。
本当に意識したことがないらしい。
『『いつも、純といるからなぁ』』
それに加え、クールで怖そうな見た目のせいもあるのだろう。
双子も確かに最初は近づき難い感じがした。
「雫石は晴と同じクラスだったよね」
「何か知ってるかなー」
「どうだろうな…」
昨日、純に言われた言葉が不自然に心に引っかかる。
あの言葉が、何か他のことにも繋がっている気がする。
『気のせいだといいんだが…』
「翔平?」
「あぁ、いや…最初は見守っていてもいいんじゃないか?言いづらいこともあるだろ」
「それもそっか」
「急に自分の心に踏み込まれても困るしね」
「…そうだな」
晴についての話をしているはずなのに、何だか分からないものに対しての不安が消えない翔平だった。
晴は、1人でつぼみの部屋に来ていた。
いつもいる豪華な部屋ではなく、物置のようになっている隣の部屋に入る。
様々なものが乱雑に置かれていて、歩くだけで白いホコリが舞う。
その中を慎重に歩きながら、あるものを探していた。
それは、奥の机の上に置かれていた。
他のものよりは被っているホコリが少なく、軽くはたきながらその黒いケースに触る。
蓋を開けると、中にはストラディバリウスが収まっている。
晴が入学式の時に、やむを得ず弾いたヴァイオリンだった。
あの時は緊急事態だと自分に言い聞かせて、楽器をその手にとった。
しかし自分が弾いている音は遠くに聴こえ、弓と弦が勝手に動いているようだった。
気付けば式は終わっており、皐月や凪月が演奏を褒めてくれたものの、弾いていた間の記憶はほとんどなかった。
「どうして、あの時…」
吹奏楽部の演奏がないと分かった時、純は自分にこのヴァイオリンを渡したのだろうか。
『得意でしょ』
何故、知っていたのか。
ここに来てから、誰にも言ったことはなかったのに。
純に聞けばすぐに分かることなのに、怖くて聞けなかった。
そしてその言葉を言われたことを、なかったことにした。
目の前の美しいヴァイオリンに、少しだけ手を伸ばす。
しかし、ヴァイオリンに触れる前に何かに阻まれたようにその手は止まる。
しばらくそうしていたが、結局ヴァイオリンに手を触れることなく、ケースを閉じた。
それに背を向けて、部屋を出た。




