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花咲くまでの物語  作者: 国城 花
第二章 忍び寄るもの
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36 兄妹①


少し甘い匂いがして目を開けると、カーテンから薄く陽の光が漏れている。

天蓋のついた広いベッドは、いつもと変わらない柔らかさだ。


視線を少し動かすと、いつもと変わらない家具と、壁が見える。

相変わらず1人で寝るには無駄に広い、自分の寝室である。



ベッドから体を起こすと同時に、部屋の扉をノックされる。

短く返事をすると、若い執事が一礼して部屋に入ってくる。


「おはようございます。お嬢様」

「おはよう。シロ」


犬か猫のような名前で呼ばれた執事は、慣れた手つきでカーテンを開ける。


「本日は、晴れのち曇りです。天気が崩れる予報はありません」


朝日の眩しさに目を細めつつ窓の外を見ると、晴れた青空が広がっている。


「お兄ちゃん、またお菓子作ってるの?」

「やはり、こちらまで匂いが届いてしまいましたか。お嬢様を起こさないように、一番離れたキッチンで作られているのですが…」


そこまでしても、鼻が良い純には分かってしまったらしい。


「湊様も、もしお嬢様を起こしても良いようにと、お嬢様の起床時間に合わせて作り始めたようです」


兄の湊は、純の人並み外れた嗅覚の良さをよく知っている。

妹想いの兄は、妹を起こさないように純の起床時間まで待っていたのだ。



純はスリッパを履いてベッドから降りると、スタスタと部屋の扉へ向かう。

しかし、優秀な執事はそれを許さなかった。


「お嬢様。お部屋から出られるのでしたら、着替えをなさってください」

「別にいいじゃん」

「よくありません。年頃のレディは、パジャマ姿のまま寝室から出るものではありません」


純はため息をついた。

シロは、こういうところが厳しい。

純が立派なレディとなれるように、細かいところまで口うるさいのだ。


「家族しかいないんだから、いいじゃん」

「そういう問題ではありません。マナーの問題です」


純は反論することを諦めると、クローゼットへ向かった。



寝室の隣には着替えをするためだけの小部屋があり、普段着からパーティードレスまで収納されている。

純は自分の着るものに興味がないので、ここにある服のほとんどはシロやメイドが選んで買ったものである。


洗面所もあるので、顔を洗って歯を磨く。

髪はあまり寝ぐせがつかない髪質なので、手櫛で適当にとかす。

今日は登校日なので深紅の制服に袖を通し、ハンガーをしまう。


「お嬢様。ネクタイも、きちんと着けなければいけませんよ」


純は、壁の向こうをじろりと見た。

何故、見えてもいないのにネクタイを着けていないことが分かるのか。

ハンガーに残されていた深緑のネクタイを手にとると、諦めたようにポケットに突っ込んだ。



クローゼットから出てきた純を見て、シロは眉をしかめる。


「お嬢様。ポケットに入れただけでは、着けたとは言いませんよ」

「面倒くさい」

「それに、髪をちゃんとブラッシングしていませんね?」


この優秀な執事は、本当に目ざとい。

純の面倒くさがりを十分に理解している優秀な執事は、どこからともなくブラシを取り出すと、細くて真っ直ぐな髪にブラシを入れる。

寝ぐせもなく、ブラシに絡むこともない滑らかな髪だが、こうやってブラッシングをしないとその滑らかさは保てない。


犬のように大人しくブラッシングされていた純は、終わったとたんに部屋を出て行こうとする。


「お嬢様。ネクタイが、まだです」


純は、面倒くさそうに顔を歪める。

ネクタイを着けるのは、本当に面倒くさいのだ。


「湊様に会いに行かれるのでしたら、きちんとした制服姿をお見せした方がよろしいですよ。お嬢様がつぼみに選ばれたと聞いて、喜んでいらっしゃいましたから」


純はそれを聞いて少し逡巡すると、スルスルとネクタイを結んでから、部屋を出て行く。


『まったく…』


面倒くさがりなのはいつものことだが、兄の名前を出すとすぐに言うことを聞くのもいつものことである。




純がキッチンを覗くと、兄が朝からお菓子作りをしている。

それも、どうやら朝からタルトを作っている。

今はタルトの上部分の飾りを作っているのか、真剣な表情である。


「リンゴタルト?」


純が声をかけると、顔を上げた兄は満面の笑みで頷いた。


「おはよう。やっぱり、起こしちゃったか」

「おはよう。大丈夫。いつもこのくらいの時間に起きるから」


静華学園理事長であり、世界的ブランドVERTの社長である翠弥生の屋敷は、かなり広い。

どこの宮殿かと見まがうほどの豪華な屋敷には、キッチンもいくつもある。

その中でも純の寝室から一番離れたキッチンを使ったのだが、鼻が良い純には甘い匂いが届いてしまったらしい。



「よく眠れたか?」

「うん」

「そうか。良かった」


湊は最後の飾りを完成させると、タルトを見て満足そうに頷く。


「今までで一番よくできた」


タルトの上部には、リンゴのコンポートで作った大輪の薔薇がある。

純が見ても、どこかのパティシエかと思うほどの出来である。



湊は、昔からお菓子作りが趣味なのだ。

本職はデザイナーだが、プロのパティシエに負けないほどのお菓子作りの腕を持っている。


「ちゃんと、甘さは控えめに作ったからな」

「うん」


純は、甘いものが苦手なため普段はケーキやお菓子は食べない。

ただ、湊が純のために甘さを控えめにしたものだけは、昔から食べていた。


「朝の、食後のデザートにしよう」

「昨日は、エクレアだったね」


湊が日本に帰ってきてから、毎食後にデザートが出てくる。


「純に食べてもらいたくて、フランスで練習してたんだ。次は、ザッハトルテを作るよ」

「楽しみにしてる」


純が湊の作った菓子を食べられるのも、湊が日本にいる間だけである。



湊はエプロンを外すと、純の制服姿を見て微笑む。


「その制服、よく似合ってるよ。深緑の制服も良かったけど、深紅も純には似合うな。つぼみになってからの純の制服姿も、楽しみにして帰ってきたんだ」


嬉しそうに微笑む湊に、純も微笑み返す。

シロの言う通りにして良かったと思った。




湊と一緒に朝食を食べ、食後のデザートも美味しく食べた後、純は湊に見送られて学園へと向かった。


シロの運転する車に乗り、学園の校門の前で降りる。


シロに見送られて校門をくぐると、変なものが目に入ってしまった。



大勢の生徒が校舎へ向かっている道のど真ん中で、仁王立ちしている女子生徒がいる。

多くの生徒が着る深緑の制服に、胸元まである縦ロールの茶髪を風になびかせながら腕を組んで立っている。


「櫻純!どこにいるのですか!聞いていますわね?」


自分の名前が出た頃には、純は人目につかないように木の上に隠れていた。


周りの生徒は何事かとその女子生徒に注目しているが、見慣れている生徒はまた始まったかと気にせずに校舎へ向かっている。


「今回の試験!またしてもあなたに勝つことはできませんでしたが、次こそは!私が勝ちます!覚悟しておきなさい!どこかで聞いているのでしょう!櫻純!」


女子生徒の宣戦布告を最後まで聞き終わる前に、純は人目につかないように裏道を使って教室へ向かった。




「朝から災難だったな」


教室に入ると、翔平が同情の目を純に向ける。

翔平も、さっきの宣戦布告が聞こえたらしい。


「最悪」


せっかく朝から兄の作るお菓子を食べて気分が良かったのに、あれのせいで地の底まで落ちた。


「気持ちは分かるが…」


翔平は、純が今いるところを見て眉間にシワを寄せる。


「窓から入ってくるな」


純は木の上から校舎に飛び移り、窓から教室に入ろうと窓枠に足をかけていた。


「別にいいでしょ」


身軽に窓を越えると、教室の中に入る。


「良くはないだろ。また変な目で見られるぞ」

「誰も気付いてないよ」


教室にいた生徒は、誰も純が窓から入ってきたことに気付いていない。

気配を消して入ってきたので、気付いたのは翔平だけである。


「そういう問題でもないと思うんだがな…」


純の行動は、およそ令嬢とは思えないものばかりである。

塔の頂上で昼寝をし、木の上で日向ぼっこをする。

純が姿を消した時は、大体高い所を探せば見つかる。

静華学園に通う令嬢とは思えない行動である。



翔平がもう少し文句を言おうと口を開いたところで、鐘が鳴る。

教師が教室に入ってきたので、純と翔平は席に座った。


純の席は窓際の一番後ろ。翔平は、その隣である。

授業の開始を告げる教師の声を聞き流しながら、純は窓の外に目を向けた。



5月に入り、新緑の季節になってきた。

青々とした緑が学園の庭に広がり、季節を告げる花がいたるところに咲いている。

爽やかな風が流れ、心地よい陽射しが降り注いでいる。

純からすれば、昼寝日和である。


『さぼろうかな…』


そんなことを考えていると、隣から視線を感じる。


「サボるなよ」


唇の動きだけで、それを伝えてくる翔平である。

純のさぼり癖を知っている翔平からすれば、純の考えていることはお見通しである。

純は面倒くさそうにため息をつくと、教科書を開いたまま再び窓の外に目を向けた。


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