18 一歩⑥
理事長からつぼみへの指令があった日から数日後、静華学園では新年度初の試験が行われた。
高等部では試験直前に休講が重なったことで試験の答案が流出したという噂も流れたが、それらはまた違う噂が流れたことによって薄まり、試験が予定通り行われたことから生徒たちはそれをただの噂と片付けた。
「人の噂も七十五日と言いますが…1つ目は、3日ももちませんでしたな」
やれやれとため息をつくと、目の前の人物は楽しそうに笑っている。
「笑いごとではありません。全く、人の苦労を何だと思っているのか」
こちらは答案が外部に流出したことで、全て作り直したというのに。
それだけではない。
「つぼみが流した噂によって、忙しさで頭がおかしくなりそうでした。誰が考えたのかは知らないが、「吉川が生徒に試験対策を教えている」など…」
苦々しく息をついているその表情は、最近の忙しさのせいか少しやつれている。
つぼみに厳しいと評判の数学の吉川教師は、実は厳しいのはつぼみに対してだけではない。他の生徒にも厳しい。
授業の内容も高レベルで、試験も難しい問題が多いため、多くの生徒は試験対策に苦労しているのだ。
その吉川が今回に限っては試験対策を教えているという噂は高等部中を駆け巡り、職員室に多くの生徒が押し寄せる事態となった。
「しかも、「教える条件として自作の数学問題持参らしい」という余計な噂も流されたせいで、試験に不安がある生徒だけではなく数学に自信がある生徒まで押し寄せる事態となりました」
最初の噂だけならば、事実無根だと突っぱねて生徒を返したのだ。
しかし試験対策の教えを乞う生徒の中には、数学を学ぶ道にいれば無視できないような興味をそそられる自作の問題を持ってくる生徒もいたのだ。
それらに少し目を引かれて問題定義の甘さや抜け道を指摘したりしているうちに、いつの間にか長蛇の列ができていたのである。
「人気の教師となって良かった?そんなわけがないでしょう。いい迷惑です」
吉川は嫌そうにそう吐き捨てる。
「そもそも、あなたの話に乗って答案の流出などしなければここまで迷惑を被ることはなかった」
目の前で優雅に座っている人物を睨みつける。
「あなたに弱みを握られていなければ、こんなことはしなかったものを」
吉川に睨み付けられても、目の前の人物はくすくすと笑っている。
「つぼみは早々に犯人捜しを諦めたようですな。そこは賢明な判断と言える。答案の作り直しを依頼しに来た時に馬鹿正直に協力を求められたのには呆れたが、私の協力を得られないと分かるとすぐにその判断に移ったのは悪くない。長々と私を説得するようなら馬鹿の集まりです」
自分がつぼみに協力することは絶対にない。説得の余地もないほどに。
その可能性を考え、犯人捜しの協力が見込めない場合の先の策を用意してきていた。
「情報を流出した私をただの被害者とするかどうかは見物でしたが、まさかこういう責任の取らせ方をするとは…」
つぼみは噂を流すことによって、「働いて責任をとれ」と言外に言ってきたのだ。
吉川が押し寄せる生徒たちを断れないように噂も二重に流し、試験対策をさせることによって試験に悩む生徒たちの力にもなった。
つぼみとしては一石二鳥である。
「この流れを考えたのは、恐らく龍谷翔平だと?あぁ、あの合理的な生徒が考えそうなことですね。自作問題持参は優希雫石の考えですか。あの優等生は、ここでも生徒のことを考えてくるのが憎らしいですね。噂を流したのは、蒼葉兄弟ですか。それについては驚きもしません。何故か私の苦手なものを知っていましたから。あの双子の情報網は侮れない。教員たちへの根回しをしたのは、周防晴ですか。生徒が押し寄せても他の教員から文句が出なかったのは、そういうわけでしたか。そういえば女性陣が周防の話をしていたかもしれません」
そうして目の前の人物は、最後の1人の名を告げる。
「…何ですと?」
それを聞いて吉川は、自分の耳を疑った。しかしすぐに、納得する。
「あの櫻純ならそれもありますな。一度、数学者でも答えの出せていない問題を出したことがあります。周りの生徒は、その問題の存在すら知らなかった。しかしあの生徒は面倒くさそうに、その答えを口にした」
吉川は、神経質そうな目をさらに細める。
「途中の数式もへったくれもない。答えだけを言ったのです。その時の私はただ、分かるはずがないのだから間違っているだろうと高を括っていました。1年後、有名な数学者がその生徒と全く同じ答えを発表するまでは」
その答えを証明するためには、複雑で緻密な数式をいくつも解かなければならない。決して、頭の中で考えて答えを出せるような問題ではないのだ。
そんなことができていれば、数学者たちが何十年も研究していたりしない。
「あの時だけです。何もかもがどうでもよくなったのは」
教師を辞めたくなったとか、そういう次元の話ではない。自分の世界を支える確かなものが、揺らぐようだった。
「それから、あの生徒に関しては考えることをやめました。数学者は解けない問題に興味をそそられるものですが、それは答えが数字であればこそ。理解できないものを、解こうとはしない。私は哲学者ではないので、深淵は覗かない」
ふふ、と面白そうに笑う目の前の人物の深淵も、覗かないことにしている。
「では、私はこれで」
その人物に背を向けると、窓の外が目に入る。
今年は、桜が咲くのが遅かった。数日前に散ったばかりだ。
地に落ちた花びらが、風に乗って舞っている。
「…つぼみなど、考えた人間の頭が知れない」
花は、散るものだ。いくら美しかろうが、いつかは散る。
それを未来ある子供に称号として与えるなど、何を考えているのか。
後ろをちらりと見ると、含みのある笑みを返される。
『…深淵は、覗かないのが身のためだ』
その笑みと桜に背を向けると、今度こそ部屋を後にした。
残された人物は、窓の外に目を向ける。
桜の花びらが雪のように降り積もった景色は、美しい。散っても美しい花は少ない。
花はその多くが、咲くまでが美しい。
咲いて人を楽しませ、実をつけ次代に種を残す。
咲かない花に、人は価値を見出さない。
「そろそろ…」
咲かない花は、いらないだろう。




