閑話③ 犬
『今日の夕食は、トマトの冷製スープに、あとは…』
「柏木さん」
名前を呼ばれて驚いて顔を上げると、いつの間にか厨房の入口に主人の孫娘がいた。
夕食のメニューを考えていたとはいえ、この距離にいて気配を感じなかったことにいつもながら感心する。
「純様。どうされましたか?」
「ちょっと、こっち来て」
何故か厨房に入ってこようとしない純に首を傾げながら、廊下へ出る。
「おや」
廊下にいる純は、子犬を抱えていた。
厨房に入ってこなかったのは、犬が一緒だったかららしい。
『厨房の衛生状況を考えてくださるとは…』
昔は子猫を連れて入ってきたこともあったのに、変わったものだ。
その成長に感銘を受け、涙が流れる。
純は目の前で急に泣き出したこの屋敷のシェフに、慣れたようにハンカチを差し出す。
柏木はずっとこの屋敷の厨房を任されている優秀なシェフなのだが、かなり涙もろい。
純が「ごちそうさま」と言うだけで泣くので、ふとした拍子に泣き始めるのは慣れている。
柏木は純からのハンカチを丁寧に断ると、自分のハンカチを取り出して涙を拭く。
「失礼しました。何かご用でしょうか?」
涙が収まってから尋ねると、純は腕の中に抱えている子犬を見せる。
「名前、どうしようかと思って」
「この子の名前ですか?」
意外な用件に柏木が驚くと、純は眉間にシワを寄せる。
「わたしが挙げたやつ、全部シロがだめって言うから」
「ちなみに、どういった名前ですか?」
「茶色、白茶、ふかふか、ハゲ」
「…最初の三つは何となく分かりましたが…何故、ハゲなのですか?」
その1個前に「ふかふか」と言っているのに、謎である。
「8月に会ったから」
『えーっと…』
少ない言葉の中から、純の真意を考える。
柏木は純が一言も喋らない頃を知っているので、言葉数が少ないのにも慣れている。
『確か、スイと名付けたのも出会った月の名前からでしたね』
スイというのは、今年の6月にこの屋敷に仲間入りした黒毛の馬である。
6月の別名である「水月」からとったと、庭師の榊から聞いている。
『ということは…』
「8月の別名である葉月からとったのですか?」
「そう」
「それが何故、ハゲに…?」
前回と同じであれば、「ハゲ」ではなく「ハヅ」であるはずである。
「ハヅって言ったら、シロがもう少し捻ってくださいって言ったから」
柏木は、少しピンとくる。
「月を「ゲツ」と読んだのですね」
「そう」
「は」と「げつ」の最初の二文字をとって、「ハゲ」となったらしい。
『何故、「はづき」や「はげつ」で止まらないのか…」
捻ってくださいと言われて、捻りすぎてどうしようもないところまでいっている。
「捻ったのに、ダメって言われるし」
純は、何故シロにだめだと言われたのか分からないらしい。
不服そうに唇をとがらせている。
「シロが決めてって言ったら、わたしが決めないとだめだって」
シロとしては、子犬の飼い主である純に決めさせたいのだろう。
それか、純のネーミングセンスの無さをどうにかしたいと思っているのかもしれない。
「そうですねぇ…」
純が自分を頼ってくれたことに涙を流しながら、さてどうするかと考える。
ここで柏木が代わりに考えてもいいが、それだとシロの意向に沿わないだろう。
「名前は、これからずっとその子を呼ぶものです。その子犬と、何か関連性のあるものが良いのではないでしょうか」
「8月に会ったから、ハゲでいいじゃん」
「純様。それだと、その子犬が禿げているように聞こえますよ」
純は子犬の毛並みを撫でると、首を傾げる。
「じゃあ、どんなのがいいの」
「その子とは、どこで出会ったのですか?」
「林の中」
「どんな日でしたか?」
「最悪な日」
久遠に狙われるし、そのことがつぼみに知られるし、わりと最悪な日だった。
「その子と出会った時に、何か印象的なことはありませんでしたか?」
純は少し考えを巡らせると、一番印象的だったことを思い出す。
「ナイフ」
「一体、どんな出会いをされたのですか…」
危険な状況で出会ったことは間違いないだろう。
何となくその状況になった原因も分かったところで、他に何かないかと純に促してみる。
純はうーんと唸ると、その時にあったことを単語で口にする。
「くじ。肝試し。男。たくさん。ムカつく」
「…純様。この子の名前になりそうな単語でお願いします」
子犬を見ると、くぅんと鳴かれる。
耳は垂れていて、生まれて間もないのに小型犬くらいの大きさがある。
真っ黒でまん丸い瞳は純粋で、子供らしい。
毛並みは白っぽい茶色で、ふわふわしている。
あの暗い林の中で、1人月明かりを浴びていた。
純はしばらく何も言わないまま、子犬と見つめ合う。
柏木も静かにそれを見守った。
「…ルナ」
ぽつりと純が呟いた言葉に、柏木は感嘆して涙ぐむ。
「月の女神の名前ですね」
「うん」
月明かりの下で出会ったのだから、悪くない名前のはずだ。
「どう?」
子犬に尋ねると、顔をペロリとなめられる。
どうやら、気に入ったらしい。
やっと名前が決まったので、純も満足した。
「ありがとう、柏木さん」
「いえいえ、私は何もしていませんよ」
純は首を横に振る。
「柏木さんが一緒に考えてくれたから、名前が決まったから」
ぶわっと、柏木の目から涙が溢れ出す。
そのままボロボロと涙を流した。
純は困った顔もせず、柏木にハンカチを差し出す。
申し訳なさを感じてまた涙を流しながら、次はそのハンカチを借りた。
自分のハンカチはさっき涙を拭ったので、もうびちゃびちゃなのだ。
『…変わられた』
もう、出会った頃の人形のような少女ではない。
食事をとってくれなくて、あの頃の柏木は毎日のように泣いていた。
幼い少女が両親を亡くし、食事をとれないほど心に傷を負っていることが悲しかった。
そんな少女に何もできない自分が、悔しかった。
だから、純が「ごちそうさま」と言ってくれるだけで柏木は涙が止まらない。
「ありがとう」という当たり前の言葉も、柏木にとっては宝物のように嬉しい。
やっと涙が少し収まってから、柏木は微笑んだ。
「お力になれて、良かったです」
純は一つ頷くと、ふと厨房の中に視線を向ける。
「今日の晩ご飯、パンある?」
相変わらずのパン好きに、柏木は笑みがこぼれる。
「ロールパンをご用意する予定です」
「やった」
純は子犬を抱えたまま子供のように喜ぶと、足取り軽く部屋へ戻っていく。
きっと、シロに名前が決まったと言いに行くのだろう。
その後ろ姿に懐かしいお嬢様の姿が重なり、また涙が溢れる。
しかし、泣いてばかりもいられない。
「ルナの食事も、用意しなければいけませんね」
この屋敷で厨房を任されているのは、柏木だ。
涙を流しながら食事を作るのは、料理人失格である。
涙を拭うと、子犬には何のメニューがいいかと考えながら厨房に戻った。




