136 追憶⑤
「純が目を覚ました?」
純が弥生の屋敷に移ってから1週間ほどして、純は目を覚ました。
弥生はその報せを聞いて、急いで純の元へ駆けつけた。
ベッドに横たわっている純は、確かに目を覚ましていた。
しかし、目を覚ましているだけだった。
話しかけても反応はなく、喋ることもない。
目は開いているのに何も見えていないかのようで、瞬きすらしない。
表情は虚ろで、感情が全て抜け落ちてしまったようだった。
生きているのに、死んでいるようだった。
「…両親がいた頃は、こうではなかったのね?」
分かっていて聞いたが、湊は力なく頷く。
「…おれが話しかければ喋ってくれたし、笑ったり、拗ねたり、泣いたり……」
それ以上何も言えなくなってしまった湊を、慰めるように背中を撫でる。
純は目を覚ましてから、泣いてすらいないのだ。
両親の死は理解しているはずなのに、幼い顔には悲しみすら見えない。
医者によると、心因的なショックが原因だろうということだった。
食事もとろうとしないので、点滴で過ごすことになった。
よくできた人形が、ベッドに横たわっているようだった。
そんな妹にも、湊は献身的に寄り添った。
反応がなくても話しかけたり、少しでも笑ってくれないかと涙をこらえて笑った。
何も食べない妹のために父親に教えてもらったクッキーを作ってみたりと、見ていて辛くなるほど妹のために心を砕いていた。
そのおかげもあって、純は少しずつ人間らしいものを取り戻していった。
両親を失ってから初めて自分で食べたのは、湊が作ったクッキーだった。
湊が毎日毎日話しかけていたら、湊と目を合わせて頷くことができるようになった。
ベッドから起き上がって、歩けるようになった。
相変わらず人形のように無表情だったが、両親を亡くした頃と比べれば大きな進歩だった。
そうして、弥生は気付いた。
人形のように無表情で無口なのに、どうして気付いたのかは自分でも分からない。
しかし、間違いないと確信して言えた。
『この子は、両親を殺した人間を許していない』
その気持ちは、湊と弥生だってそうだ。
両親を殺した人間を、娘夫婦の命を奪った人間を、許してはいない。
許すはずがない。
しかし純のそれは、2人とはまた違うものに見えた。
底知れぬ怒りと憎しみの中に、揺るがない覚悟があるようだった。
『4歳の子が…?』
たった4歳の子供がそんな覚悟を持つのかという疑問と、純があの2人の子供であることを思い出す。
『あの子の父親は、天才と言えるほどの才能を持っていた』
その人並み外れた能力を、人のために使う優しい人だった。
『もし、純にもその才能があったら』
「4歳の子供」というくくりでは考えない方がいいのかもしれない。
両親を殺された子供は、人並み外れた能力を何のために使うのか。
『私だったら…』
迷いなく、復讐のために使うだろう。
両親を殺した人間を探し出し、死んだ方がマシと言えるほどの苦しみを与え、殺す。
そんなことをしても死んだ人間は返ってこない。
それでも、相手を同じ目に合わせなければ気が済まない。
奪われるだけ奪われて、大人しくなどしていられない。
『私が、やっていてもおかしくないもの』
大切な娘夫婦を殺した人間を殺してやりたい。
弥生の心の中にも、その激情が渦巻いている。
しかし今の弥生には、湊と純という守るべき存在がある。
弥生が復讐に身をやつした時、その災禍は孫であるあの2人にも及んでしまう。
弥生にとっては自分の欲望に任せて復讐するよりも、湊と純を守ることの方が大切なのだ。
『でも、純はきっと…』
コポコポと、紅茶の淹れる音で意識が現実に戻る。
紅茶の葉の香りに、少し心が落ち着く。
「どうぞ、少しお休みください」
「ありがとう」
紅茶を一口飲むと、いつもと変わらない味にほっと息をつく。
窓の外に目を向ければ、夏の太陽が沈むところだった。
その眩しさに目を細めながら、孫たちのことを想う。
純は、復讐することをやめないだろう。
最後まで、その道を突き進む。
そして湊は、純が復讐を終えた後に安心して住める場所を用意しようとしている。
いろんな国の要人と繋ぎを得て、もしもの時に日本から逃げられるように。
湊は、純の復讐を止めるつもりはないのだ。
その憎しみと怒りが痛いほどに分かるから、止めることができない。
『私は…』
弥生も、純を止めることができない。
純がやっていなければ自分がやっているだろうと断言できるほど、憎しみと怒りは消えていない。
それでも、孫が復讐の道を歩むことに何も感じていないわけではない。
「警察庁のサーバーにアクセスしたのは、翔平くんのようね」
「こちらの罠にはかからなかったようですが、つぼみの部屋を調べたということはそうでしょう」
「雫石さんも、純の両親について調べているわ」
「翔平様と情報を共有されているとみて間違いないでしょう」
「純は、それを分かっていて放っておいているのね」
「純様のお考えの全ては分かりませんが…」
山吹は、少しだけ目を細める。
「復讐の計画に支障がでない限りは、放っておかれるのでしょう」
たとえ翔平と雫石が純の両親の死の真相を知ったとしても、純が復讐することを知ったとしても、純を止めることは難しい。
2人の両親は純と契約を結んでいるので、力を借りることはできない。
つぼみに選ばれたと言っても、2人とも10代の学生。
できることはたかが知れている。
「今はまだ、そうでしょうね」
弥生は、少しだけ笑みを浮かべる。
「あの子たちは、まだつぼみだから」
可能性のない者に、つぼみの称号は与えない。
つぼみに必要なのは、元々持っている能力だけではない。
これからどうなるかが大切なのだ。
つぼみを開いて大輪の花を咲かせるために、あの子たちにはもっと頑張ってもらわないといけない。
「次は、海だったわね」
弥生は、窓の外を楽しそうに眺める。
未来ある若者たちが、これからどう成長するか楽しみだ。
ワクワクと楽しそうないつもの主の様子に、山吹は微笑みを浮かべた。
お盆の時期になると、どうしても過去に引っ張られがちになってしまう。
楽しかった過去に、大切だった亡き人に、想いを馳せる。
それでもお盆が終われば亡き人の魂は元の場所に帰り、命ある人々はまた前を向く。
そうして少しずつ、亡き人の過去を思い出として受け入れていく。
『いつか、純様も…』
ふと遠くに人の気配を感じると、玄関の方からシロの声が聞こえてくる。
弥生も気付いたのか、ふふっと笑っている。
「どうやら、純が帰ってきたようね」
「そのようですね」
「シロを置いて外出したみたいだから、このまま説教コースね」
純をあそこまで叱れるのは、シロだけだ。
弥生と湊でさえ、純を叱ったことはない。
純の気持ちが痛いほど分かるから、怒りが浮かばない。
「今日も、あの町に行っていたのでしょう」
毎年、お盆の季節になると純はあの町に戻る。
両親の魂が返ってくるなら、あの場所だと思っているのかもしれない。
「シロの説教が長くならないように、タイミングを見計らって夕食にしましょう」
「かしこまりました」
弥生は立ち上がり、薄闇の窓に背を向ける。
弥生に続いて部屋を出ようとした山吹は、ふとその窓に目を向けた。
視界の隅に、長く美しい髪が揺れた気がした。
しかし気付けば、目の前にはいつもの景色しかない。
山吹は何もない空間に丁寧に頭を下げ、部屋の扉を静かに閉めた。
ふわりと、風が流れた。




