134 追憶③
湊は電話を切ると、机の引き出しから1枚の写真を取り出した。
少し色褪せた、古い写真。
幸せだった頃の4人が映っている、家族写真。
幼い自分と、湊の手を握りながら嬉しそうに笑う純。
湊と純を抱きしめるようにして、微笑んでいる両親。
爽やかな黒髪に、明るい夜空のような瞳で穏やかに微笑む父親。
緩やかなウェーブがかった茶色い髪に、薄茶色の瞳で楽しそうに微笑む母親。
写真は色褪せても、湊の記憶は鮮明にあの頃のことを覚えている。
「いもうと?」
しわくちゃな猿のような生き物を前にして、湊は首を傾げた。
「そうだよ。湊の妹だよ」
「名前は、純っていうのよ」
両親にそう言われ、目の前の生き物が自分の「妹」という存在なのだと認識する。
「妹」というのは、自分よりも小さくて、とても弱そうに見える。
顔はふにゃふにゃしているし、手も足もすごく小さい。
髪はふわふわと柔らかくて、瞳は曇り空みたいな色をしている。
そっと手を伸ばしたら、指を掴まれた。
少し驚いたけど、目の前の生き物が本当に生きていることにも驚く。
湊の指を掴む手はとても小さいけれどあたたかくて、力強い。
「…おれの、いもうと?」
もう一度確かめるように聞くと、母は笑って頷く。
「湊の妹よ」
「湊は、お兄ちゃんになったんだよ」
その瞬間に、湊の世界は変わった。
「おれが、純のおにいちゃん…」
自分は、「お兄ちゃん」という存在になった。
「純」という名前の、妹ができた。
それは湊にとって、大きな変化だった。
なぜだか分からないけど、「お兄ちゃん」であることが誇らしい。
妹ができたことが、言葉に表せないほど嬉しい。
わくわくして、どきどきして、何だか胸がいっぱいになる。
「おれが、純のおにいちゃんだよ」
そう言って笑いかけると、ぎゅっと指を握ってくる。
「すごい!おれがいってること、わかるのかな?」
興奮して振り返ると、父が嬉しそうに笑っていた。
「そうだな。分かってるのかもしれないな」
「まだ目は見えていないけれど、耳は聞こえているわ。だから、湊の声も聞こえているのよ」
「すごい!」
こんなに小さいのに、湊の声が聞こえているのだ。
「おれはね、湊っていうんだよ。こっちが父さんでね、ベッドでいっしょにいるのが母さんだよ。それでね…」
自己紹介から始まり、家族紹介、昨日何があったか、湊が好きなもの、好きな遊び、一緒にやりたいこと。
喋り疲れて眠ってしまうまで、湊は飽きもせず妹に話しかけ続けた。
幸せそうに、両親はそれを見守っていた。
『純が初めて笑ったのを見たのも、俺だったな』
生まれたばかりの純にそうやって話しかけていたら、ある日何かに反応したようにふわっと笑った。
優しい両親が少し嫉妬するくらいだったので、貴重だったのだろう。
よく笑い、よく食べ、よく泣いて。
湊の妹は、元気に育っていった。
首が座ったと思ったら腹ばいで動き回り、気付いたらはいはいしていた。
湊が話しかけ続けていると、そのうち簡単な単語を喋るようになった。
「ちょっと早すぎじゃないかしら…」
大喜びで妹に話しかけている湊の後ろで、育児本を読みながら少し心配になる。
「俺も言葉を覚えるのは早かったから、遺伝かもね」
それに、と夫は微笑む。
「あれだけ湊が話しかけてれば、言葉も覚えやすいよ」
「そうね」
純が生まれてからずっと楽しそうな様子の湊を見て、2人とも微笑む。
あれこれ話しかけては、純の反応に楽しそうにしている。
純が泣けばお腹が空いたのかと聞き、純が寝れば隣で同じように寝る。
まるで、世界の中心がそこになったかのようだった。
「少し心配だったけれど…湊が喜んでくれてよかったわ」
「そうだね」
優しい両親に、妹が大好きな兄。
4人目の家族となった純は、兄に愛され、両親に愛され、当たり前の幸せをその身に受けて育った。
さらさらと風の流れる音に、写真から顔を上げて外を眺める。
日本と違って、フランスの夏は涼しい。
異国の太陽は眩しくて、5年目なのにいまだに慣れない。
『あの話をしたのも、確か夏だった』
純が眠った後、夏の暑さが残る部屋の中だった。
自分の世界が崩れるような驚きと、どこか冷静に納得している自分。
それでも両親の愛情は何も変わらなくて、ほっと安心した。
明日も、明後日も、来年も、その先も。
家族4人で一緒にいられるのなら、それは小さいことのように思えた。
その日は少し泣いて眠ったけど、朝起きて純の顔を見たら少しだけ残っていた不安も吹き飛んだ。
「おはよう。お兄ちゃん」
そう言って笑いかけてくれる存在が愛おしくて、嬉しくて、何よりも大切だと思った。
両親と純がいてくれれば、幼い湊にはそれ以外に何もいらなかった。
『それなのに…』
降りしきる雨の中、倒れて動かない両親。
冷たくなっていく体。
赤く染まった雨が、とめどなく流れていく。
『父さん!母さん!』
何度呼びかけても、声の限り叫んでも、応えてくれることはなかった。
優しく微笑みかけてくれた瞳はもう目を開けることなく、頭を撫でてくれた大きな手はピクリとも動かない。
幸せだったのに。
湊にとって、家族が全てだったのに。
押し寄せる恐怖に、心が押し潰されそうだった。
『おれをおいていかないで!』
雨の日の自分の叫び声に、ふと意識が現実に戻る。
窓の外を見ると、いつの間にか小雨が降っている。
湊は純のように雨がトラウマではないが、見ていて気分のいいものではない。
カーテンを閉めようとすると、扉をコンコンと叩く音がする。
返事をすると、メイドが入ってきた。
「カーテンを閉めに来たのだけれど…」
「あぁ、ありがとう。アリア」
湊が微笑みながら礼を言うと、アリアと呼ばれたメイドは顔をしかめる。
「顔色が悪いわよ。湊。無理して笑わなくてもいいわ」
そう言って、カーテンを閉める。
「そんなにひどい顔してる?」
「椎名が見たら心配して涙を流して問答無用で医者を連れてくるくらいはひどいわ」
「それはまずいな」
執事の椎名は涙もろいところがあるので、こんなことで泣かせるわけにはいかない。
どうやら、雨のせいもあって過去に引っ張られたらしい。
「少し、無理をし過ぎなんじゃないの」
メイドの態度は主人に対するものではないが、湊はそれを許している。
主従関係というよりは、友人関係に近い。
「VERTのデザイナーは、忙しいからね」
「相変わらず嘘つきね。あなたがその程度の仕事で忙しいわけないじゃない」
アリアは、ぎろりと湊を睨みつける。
「今度は、どこへ行くの?」
「純は、月餅好きだと思う?」
「ドイツはどうしたの?」
「バウムクーヘンなら、もう作れるようになったよ」
「………」
会話になっているような、なっていないような会話に、アリアは苛つく。
アリアは、湊のこういうところが嫌いである。
「あなたはただのデザイナーなのよ。それ以上やりすぎると、スパイだと思われるわよ」
「俺はただ、世界各地のお菓子を作れるようになってるだけだよ」
「フランス、イタリア、オーストリア、インド、ロシアにドイツ。次は中国ですって?戦争でも始めるつもり?」
「いろんな国の人とちょっと仲良くなってるだけだよ」
「その相手が問題なのよ。大体が、国の重要人物じゃない」
「力のある人じゃないと、意味がないからね」
「その人たちから機密情報を聞き出して、どうするつもり?」
「どうもしないよ」
「今のところは、でしょう」
アリアは、メイドらしくなく腕を組む。
「それが、あなたがフランスにいる目的?」
アリアの鋭い視線に、湊は穏やかに微笑む。
さっきまでの顔色の悪さは、どこかへ行っている。
「それだけじゃないよ」
「えぇ、そうでしょうね。けれど、それが一番の目的なのでしょう」
湊という男は、嘘と隠し事が上手い。
穏やかな笑みで全てを隠し、自分の思うままに事を運ぶ。
『そういうところは、祖母にそっくりだわ』
「アリアは、俺がやっていることが気に入らないの?」
「危険だと忠告しているのよ」
「そうだね」
それでも、と湊は続ける。
「大切な妹のためなら、俺は何でもするよ」
その言葉の危うさに、アリアはゾッとする。
「…あなた、世界を敵に回してもいいの?」
薄暗い部屋の中、雨の降る音だけが聞こえる。
湊は静かな瞳を、アリアに向けた。
「それって、家族より大切なもの?」
湊にとって何よりも大切なのは、家族のことだ。
復讐に身を捧げる妹のために、湊は今できることをやっているだけだ。
その結果として世界に混乱が起きようと、どうでもいい。
アリアは、深くため息をついた。
湊とは4年の付き合いだから、アリアが何を言っても変わらないことも知っている。
妹が大切な兄は、両親を失ってどこかが壊れた。
本人も周りの人間も、どこが壊れたのか分からない。
過去に関するトラウマはないし、妹のように感情を捨てて人形のようになったわけでもない。
それでも、どこかが壊れているのだ。
妹のために世界を敵に回してもいいと迷いなく言えるほど、どこかがおかしい。
『これでも、前よりマシらしいけど…』
フランスに来てだいぶ落ち着いているらしいのだから、日本にいた頃はどれだけだったのか。
アリアは、ふと思い出した。
「あまりやり過ぎるようなら、あなたの友人たちにチクるわよ」
湊の穏やかな笑みが、そのまま固まる。
アリアが言っているのは湊がつぼみだった頃の友人たちで、この嘘つき終始微笑み人間を諫められる数少ない存在である。
「知られるとうるさいから、やめてほしいな」
「だったらあまりやり過ぎないことね。それに敵が多くなったら、あなたの妹が困るでしょう」
「それもそうだね」
完全に最後の部分に納得したようで、頷いている。
妹が困るとなると、湊は無茶なことはやめるのだ。
相変わらずの様子にため息をつく。
これではいつまで経っても、落ち着いて働いていられない。
『復讐するなら、さっさとやってしまえばいいのに』
アリアとしては、それで心置きなくここで働くことができる。
しかしあの妹にそれを言う勇気はないので、諦めた。




