133 追憶②
「いただきまーす」
今日の夕食は、父親が作ったハンバーグである。
父親特製のデミグラスソースがかかったハンバーグからは、美味しそうな匂いが立ち込めている。
朝と同じように4人で食卓を囲んで手を合わせると、ほかほかのハンバーグに箸を入れた。
「今日は何して遊んでたんだ?」
「かくれんぼしてたの」
「純が見つけるのが速いから、隠れるの大変だったけどね」
「お兄ちゃんも見つけるのはやいよ」
「だって。純、いつも高いところに隠れようとするんだもん」
「だって、高いとこ好きなんだもん」
「2人とも、怪我をしないようにね」
はぁーい、と2人の声が重なる。
「お兄ちゃん、次はトランプしようね」
「いいよ。でも、きっとおれが負けちゃうなぁ」
「じゃあ、父さんが湊の味方につくか」
「それなら母さんは、純の味方につくわ。それなら、いい勝負になると思うわ」
「やったぁ。約束ね」
「あぁ、約束だ」
純は今度のトランプの遊びに思いを馳せながら、ハンバーグを口いっぱいに頬張った。
その日の夜、布団に入って少ししてから純は隣の湊に声をかけた。
「お兄ちゃん」
「どうしたの?」
「そっちいってもいい?」
「うん。いいよ」
純は、隣の湊の布団に潜り込む。
兄の体温が感じられて、あたたかい。
「今日、たのしかったね」
「うん。そうだね」
「明日も、たのしいといいな」
「きっと、明日も楽しいよ」
純は、嬉しそうに笑みを浮かべる。
「純ね。ずっとそれが続いてほしいの。父さんと、母さんと、お兄ちゃんとずっといっしょにいたいな」
「おれもそうだといいな。みんなでずっと一緒にいたいね」
「そしたらね、きっとたのしいと思うの。父さんのパンはおいしいしね、母さんのピアノはきれいだしね、お兄ちゃんとあそぶのはたのしいの」
湊は、純の頭を撫でた。
「ずっと一緒だよ。家族だもん」
純はそれに嬉しそうに微笑むと、湊の胸に顔を埋めるようにして眠った。
ずっと一緒にいたい。
そうすれば、きっとみんな幸せだから。
しかしそんな当たり前の夢は、呆気なく壊れた。
これからもずっと家族で幸せになろうという願いも、呆気なく散った。
それは、幼い2人の心に一生治らない傷を作るのに十分だった。
失ったものは返らず、楽しかった記憶は悲しみに変わる。
思い返すたびに心が痛み、両親と暮らしていた幸せから心が離れない。
両親が優しく微笑みかけてくれることは、もうない。
毎日作ってくれる美味しいご飯と、大好きなパンはもうない。
語りかけてくれるような、綺麗なピアノの音色はもうない。
もう、ない。
もう、いない。
幸せは、全て奪われた。
突然に。
自分たちの目の前で。
どうすることもできなかった。
『父さん、母さん』
その声に応えてくれることは、二度となかった。
雨の中、純は何もできなかった。
自分は、ただの子供だと思い知らされた。
無力で、無知で、無垢なただの子供だった。
だから、もう奪われることのないように、ただの子供でいることをやめた。
必要のないものは全て捨てた。
もう奪われないように、復讐のために、必要なものだけを残した。
そうしたらいつの間にか、人形のようになっていた。
喜びも、悲しみも、楽しさも、恐怖も、愛も、幸せになることも、全て捨てた。
ただ復讐のために生きる、壊れかけの人形になった。
そんな人形に、湊は毎日話しかけてくれた。
大切だと、守ると言ってくれた。
『おれは、純のお兄ちゃんだから』
そう言って、泣きそうな顔で笑った。
その笑顔を見て、壊れかけの人形に感情が宿った。
『もう、大切なものを失いたくない』
いろんなものを捨てた心に残ったのは、その想いだけだった。
ざわざわと、活気のある町の声が純の意識を現実に戻す。
目の前の空き地は、幸せのあった跡。
焼き立てのパンの匂いも、綺麗なピアノの音もない。
ただ空虚な土地だけが、純を見つめ返すだけだ。
純は帽子を深くかぶりなおすと、人目につく前にその場を離れた。
町の中心部から少し離れたところには川が流れており、涼しげなせせらぎの音が聞こえる。
綺麗に整備された河川敷に、隣にはコンクリートが敷かれた広い道が通っている。
川の向こう岸の木に、鳥がとまっている。
『あなたは、その道を選んだことを後悔しないのね』
後悔などしない。
『あなたの両親が、そんなことを望んでいないと分かっていても?』
そんなことは分かっている。
純の両親は、自分の娘に復讐を望むような人たちではない。
きっと今の純を見たら、悲しむだろう。
それでも、その両親はもういないのだ。
復讐を果たしたところで、両親が返ってくるわけでもない。
それを分かっていて、純は自分の決めた道を歩む。
その道の先に、未来がないと分かっていても。
川の流れを眺めていると、スマートフォンが鳴った。
着信相手の名前を見て、ふっと笑みを浮かべる。
「もしもし」
「もしもし?」
電話越しの兄の声は、少し心配そうにしている。
今日は、シロも怜も連れてきていない。
しかしGPSは切っていないので、位置情報はちゃんと教えている。
きっとシロが今純がいる位置を見て、湊に連絡したのだろう。
シロも、大概過保護だ。
「大丈夫か?」
「うん」
純は、川を眺める。
「今、あそこに来てる」
「…そうか」
電話越しに川のせせらぎが聞こえて、湊は目を瞑った。
「…そこは、変わらないか?」
「何も、変わらないよ」
純の目に見えているのは、緑に覆われた河川敷と、雑草が生い茂る狭い道。
13年前の景色だった。
何度ここに来ても、景色がどれだけ変わっても、純の目にはあの頃の景色しか映らない。
「よく、ここに散歩に来たね」
「川に入って遊んだりもしたな」
「父さんと母さんは店が忙しくてあんまり一緒に行けなかったけど…あの日は、久しぶりに4人で行ったね」
「パンが全部売り切れたから、夕方に散歩に行ったんだったな」
「歩いてたら、晴れてたのに、急に曇ってきて…」
純の声が、頼りなさげに揺れる。
純と湊があの日のことを話すのは久しぶりだった。
純の心にはいくつもヒビが入っていて、触れれば壊れてしまいそうなほど危うい。
だから家族でさえ、簡単に過去を持ち出すことはできない。
純の瞳はきっと、4歳の子供のように不安と恐怖に包まれている。
すぐに側に行って抱きしめてあげたいのに、それができない今の距離が悲しい。
それでも、純の側を離れることは湊の意思で決めたことだ。
純のために、フランスに渡ることを決めた。
その選択に後悔はない。
湊は瞼の裏に、優しかった両親の笑顔を思い出した。
「…純」
「…うん」
湊はいつものように、穏やかな笑みを浮かべる。
「純は、俺が守るよ。俺は、純のお兄ちゃんだからな」
両親を亡くした13年前から、それが湊の口癖になっていた。
純を安心させるために、自分をしっかりさせるために、その言葉を口にしてきた。
「…ありがとう。お兄ちゃん」
少し柔らかくなった純の雰囲気に、湊は電話をかけてよかったと思った。
「シロが心配してるから、早く帰ってあげな」
「うん」
「…あんまり、無理はしないようにな」
つぼみになった4月から、純は多忙になっている。
梅雨の時期は雨のせいで体調を崩していたし、ほとんど眠れていなかった。
それに、純を狙う久遠の存在もある。
兄としては、妹のことが心配でならない。
「わたしは、大丈夫」
純は、湊を安心させるように答える。
「お兄ちゃんも、無理しないで」
純の言葉に少し驚いた湊だが、やっぱりな、と納得した。
湊がやっている小さな悪だくみくらい、優秀な妹にはお見通しなのだ。
「じゃあ、お互い無理しないようにしような」
「うん」
「また日本に帰るよ。今度は、バウムクーヘンを作るから」
「楽しみにしてる」
「じゃあ、また電話するよ」
「うん。またね」
純は電話を切ると、また川を眺めた。
川の水はさらさらと流れ、木々は風に揺れている。
木の枝から鳥が飛び立ち、夕暮れの空を飛んで行く。
純は、両親を殺した人間を許さない。
純の幸せを奪った人間を許さない。
殺されたのなら、殺す。
奪われたのなら、奪い返す。
復讐とは、そういうものだ。




