132 追憶①
過去の話が中心になります。
少し暗いかもしれません。
ジリジリと、夏の暑い陽射しが肌を刺す。
太陽は空高く、蒸された空気がぬるい風で流れる。
木々の間で蝉が鳴き、夏の盛りを伝えている。
少し歩けば汗ばむ陽気の中、帽子を深くかぶって歩みを進める。
ここは、都心部から離れた小さな町である。
人口は多くないが、住宅地の近くには学校もあり、活気のある町である。
商店街には八百屋や魚屋が並び、威勢の良い声が買い出しに来た客の足を止める。
その中を人目につかないように歩き、目的の場所を目指した。
少し歩くと、すぐにその場所に着く。
深くかぶっていた帽子を少しだけ上げて、その場所を眺める。
視線の先にあるのは、ただの空き地だ。
両隣には店が並んでいるが、この場所だけは時が止まったように人の喧騒を寄せ付けないでいる。
更地にされた一画には、人の出入りを禁じる立て札が立てられている。
13年前から、ここに建物が建てられることはない。
空き地になってしまえば、そこに何があったかを思い出すのは難しい。
人々は、この場所にあった店のことも忘れていく。
ただ土埃を巻き上げるだけの風が頬を撫でる。
どこかで、子供の声が聞こえた気がした。
「いただきまーす」
窓から朝日が差す、広いとは言えない部屋。
台所のすぐ隣にあるテーブルを4人で囲み、手を合わせる。
食卓の上には、焼き立てのパンやサラダがのっている。
「やっぱり、父さんのパンおいしいね」
いち早くパンを手に取って口に運んだ少女は、嬉しそうに表情を崩した。
娘の笑顔に、父親も嬉しそうに笑う。
「愛情がこもってるからな」
他の2人も、パンを頬張る。
焼き立てのパンは柔らかく、ふわふわと温かい。
「父さん、今度おれにも作り方教えてよ」
息子に頼まれ、父親は嬉しそうに顔をほころばせる。
「今度、一緒に作ってみような」
「あと、この前食べたクッキーの作り方も教えてほしい。自分で作ってみたい」
「湊は料理に興味があるのね。いいことだわ」
母親に褒められるも、湊は懇願に近い視線を母親に向ける。
「母さんは…お願いだから、台所に立たないでね」
「分かってるわ。でも、母さんだってそろそろお味噌汁くらい作れると思うのよね」
どこからくるのか分からない妻の自信に、夫は笑顔で釘を刺す。
「前にもそう言って鍋を爆発させたのは誰でしたっけ?」
「…母さんです」
「あふぇ、ふぉもひろはっらね」
純は口いっぱいにパンを頬張りながら、両手に新しいパンを握っている。
「純。パンを食べるのはいいけど、他のものも食べないとだめだよ」
パンに集中していてちゃんと聞いているのかは謎だが、一応こくりと頷いている。
父親はごちそうさまと手を合わせると、席を立つ。
「そろそろ店に行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
「母さんには、いつも通りピアノを頼むね」
「任せて。それはちゃんと得意だから」
父親が店に出た後は3人で朝食を食べ、食器を片づける。
時計を確認した湊は、ランドセルを背負った。
「学校に行ってくるね」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
玄関から出て行こうとする兄の服を、純が掴む。
「純もいく」
「純はまだ学校には早いよ」
純はまだ4歳だ。
小学校に入学するまで、あと2年ある。
しかし純は一緒に行けないことが不満なのか、ぶーっと不貞腐れている。
「帰ったら遊んであげるから。ね」
湊にそう言われ、やっと機嫌を直す。
「お兄ちゃん、約束ね。純、ちゃんと待ってるからね」
「うん。できるだけ早く帰ってくるよ」
空に太陽が昇り朝の爽やかな風が流れる頃、湊は学校に行くために家を出た。
純はそれを玄関先で大きく手を振りながら見送った。
「これはいくらかしら?」
「150円です」
「メロンパンとクロワッサンを2つずつちょうだい」
「ありがとうございます」
「ピアノの演奏はいつから始まるの?」
「午前中は、10時半からですよ」
「パンもおいしいし、ピアノも上手。いい店ね」
「ありがとうございます」
この商店街に若い夫婦が開いたパン屋は、すぐに人気店となった。
夫が焼くパンはとても美味しくて、焼き上がる時間になると妻がピアノを弾く。
その演奏もプロ顔負けで、すぐに町一番のパン屋になった。
しかしテレビや雑誌の取材は断るし、1日分のパンが売り切れると店を閉めてしまう。
「せっかくこれだけ人気なのだから、もう少しお店を広げたらどう?」
常連客の1人からの提案に、店主は優しい笑みで首を横に振る。
「あまり店を大きくすると、2人ではやっていけませんから」
「それなら、店員を雇えばいいじゃない」
「子供がもう少し大きくなるまでは、妻と2人でやっていきたいんです」
何度もやり取りしたような内容でも、店主は嫌な顔一つせずに受け答えする。
それは妻も同じで、穏やかで誰にでも優しい夫婦は町の人々に好意的に受け入れられていった。
「お兄ちゃん、まだかな」
純はレジの近くに座って足をぶらぶらさせながら、湊の帰りを待っていた。
「まだお昼を過ぎた頃だからね。まだまだかな」
「そっかぁ…」
純は落ち込んだように体を丸める。
両親は店で忙しいし、兄は学校で帰ってこない。
4歳の純からしたら、暇で仕方がない。
見かねた母親が、一つ提案する。
「この前買った本があるでしょう?お兄ちゃんが帰ってくるまで、それで遊んでたらどう?」
純はそれを思い出したように明るく表情を変えると、店の奥の家の方に走っていった。
この前、本屋で新しい本を買ってもらった。
「大学受験対策」というあまり面白くなさそうな題名だが、いろんな問題があるので暇つぶしにはなる。
それをすらすらと解いていると、湊が学校から帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。お兄ちゃん」
純は湊を急かすように腕を引っ張って家の中に入れる。
「純。そんなに引っ張らなくても、分かってるから」
「今日ね、純ね、これしてたの」
純が指さしたのは、湊が見てもちんぷんかんぷんな問題集だった。
しかし湊は嬉しそうに微笑み、純の頭を撫でる。
「やっぱり、純はすごいなぁ」
4歳の純は、小学4年生の湊よりも頭が良い。
湊にとってはそれが当たり前すぎて、妹が誇らしくてしょうがない。
「おれも、学校の宿題やらなきゃ」
「純やる?」
「父さんと母さんにそれはだめって言われたでしょ。宿題終わったら遊ぼうね」
「うん!」
2人はテーブルに並ぶようにして座ると、互いに鉛筆を走らせる。
純は早く湊と遊びたいので、湊の様子をちらちらと横目で見ながら鉛筆を動かす。
純にとってはこの問題集をやるより、湊と遊ぶ方が楽しみなのだ。
「よし、終わった」
湊が鉛筆を置くと、純は急いで本と鉛筆をしまった。
「今日は何して遊ぶ?」
「かくれんぼ!」
「じゃあ、おれが最初鬼ね。30秒数えるから、純は隠れに行っていいよ」
純はさっそく、家の中で隠れられそうなところを探した。
自分の身長の倍は高さがある棚に目をとめると、身軽に登ってその棚と天井の間の空間に身をひそめる。
湊が30秒数え終わった声が聞こえると、見つからないように息をひそめた。
「みーつけた」
しかし数分すると、湊に見つかってしまった。
純は棚の上から軽々と飛び降りる。
「じゃあ、次は交代ね」
「うん」
今度は純が鬼の番で、湊が隠れに行くと30秒を数え始める。
そして数え終わると、湊を探しに行った。
純はこの遊びが得意だった。
迷うことなく両親の寝室に向かい、一番奥のクローゼットを開ける。
そこには、たくさんの服の中に身を隠した湊がいた。
「やっぱりすぐ見つかっちゃったかー」
一瞬で見つかるのはいつものことなので、湊は気にしていない。
今日は結構いい場所を見つけたと思ったのだが、やはり自分の妹はすごい。
「ね、もう1回」
純にせがまれると、湊はもう一度鬼になって純を探した。
そこまで広くない家なので、隠れる場所は限られている。
それでも純は飽きることなく、夕食の時間までずっとかくれんぼをしていた。
どこにでもあるような、日常が続いていた。
そんな日常が続くと、信じて疑わなかった。




