131 後悔⑤
「今回はご縁がなかったということね。お母様に、またお見合い相手を探してもらわないといけないわ」
見合い相手に刃物を向けられたばかりだというのに、次の見合いに積極的な姉に雫石は心配になる。
「お姉様は、お見合いが嫌ではないのですか?」
「嫌ではないわよ?」
少し首を傾げる小雪に、雫石は視線を下げる。
「では、どうして…お見合いを、毎回断ってしまわれるのですか?」
もしかして、見合いが嫌なのではないか。
優希家を継ぐのが嫌なのではないか。
口に出して聞くことのできない問いが、言葉にならないまま重なっていく。
「そんなの、私に相応しい方がいないからに決まっているからじゃない」
あっけらかんとした小雪の言葉に、雫石はぽかんと呆ける。
「…それだけ、ですか?」
「それだけよ。だけれど、それが一番譲れないものよ」
小雪は、艶然と微笑む。
「私は、一緒に優希の家を背負ってくれる人じゃないと嫌なの。優希家当主の私と一緒に、優希の全てを大切にしてくれる人をお婿さんに迎えたいのよ」
それが、小雪にとっての最優先事項なのだ。
母や、祖母、曾祖母たち。
ずっとずっと長い歴史の中で代々の当主が繋げてきたものを、小雪も継いでいく。
「優希の名を継ぐ者として、それだけは譲れないわ」
優希家の跡取りとして頼もしい言葉に、雫石はほっと笑みが出る。
「だからね、雫石」
小雪は、妹に優しく微笑む。
「私のことは気にしないで、自分のやりたいようにやっていいのよ」
少し首を傾げている雫石に、小雪は優しい眼差しを向ける。
「私が優希を継ぐのが嫌だと言ったら、あなたが継ぐつもりだったのでしょう?」
「それは…」
否定をできなくて、口をつぐむ。
「それか、私に何かあった時のスペアとして、優希家に留まるつもりだったのでしょう?」
優希家の長女は小雪だが、突然の怪我や病でいなくならないとも限らない。
そうなった時、跡を継ぐ役割は雫石に回ってくる。
次子とは、そういうものなのだ。
だから婿をとって家に残る場合もあるし、同じような家柄の家に嫁ぐことが多い。
全ては、家のために。
家の名を、財産を、伝統を、人を、あらゆるものを継いでいくために。
「でもね、そんなことをしなくてもいいのよ」
優しい姉の声に、雫石は顔を上げる。
「雫石が家に残りたいのならそうすればいいし、誰かのお嫁さんになりたいのならそうすればいいわ。家を出たいのならそうすればいいし、結婚をしたくないのならそうしてもいいの」
「ですが…それでは、お姉様が優希の家に縛られることになりませんか?」
雫石というスペアがいなくなれば、長女である小雪への負担は増えてしまう。
小雪は、雫石の心配を明るく笑った。
「優希の家を継ぐと決めたのは、私よ。私の意思であり、私の夢でもあるの」
誰に押し付けられたものでもない。
長女だからと言って、引き受けたわけでもない。
小雪が、そうなりたいからその道を選んだ。
「だから、雫石も自由にしていいのよ」
『自由に…』
それは、幼い頃の雫石が願った淡い夢。
純に出会って、少しだけそれが叶った。
それでも本当の夢は、口に出すことはできなかった。
優希の家に生まれた者として、役割を果たさなければいけないと思った。
姉がもし跡を継がなかった時は、自分が継げるように。
叔母や大叔母がしてきたように、結婚して外に出ても優希の家を支えられるように。
それが、自分の役目だから。
「…本当に、良いのでしょうか…」
自分のやりたいようにやっても、いいのだろうか。
自分の夢を追っても、いいのだろうか。
「いいに決まっているでしょう」
小雪は、雫石の頭を優しく撫でる。
「雫石は、気を遣いすぎなのよ」
優等生な妹は、家族にさえ気を遣っている。
政治家である父親に迷惑がかからないように。
日本舞踊の家元である母親の顔に泥を塗らないように。
跡取りである姉の面目を潰さないように。
先祖が守ってきた、優希という名を落とさないように。
優等生過ぎて、時に必要以上のものを背負い込んでしまっている。
そんな妹が少し変わったのは、中等部に上がった頃。
自分のやりたいことをやるようになったのも、それからだった。
それでもまだ我慢をしているのを、小雪は知っている。
「私が優希の家を継ぐと決めた時に、お母様に言われた言葉よ」
凛とした母の声が、耳を打つ。
「『後悔のないように生きなさい。たとえ悔いが残ったとしても、前を向いていきなさい』」
きっとそれは、母自身が自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。
いつも背筋を伸ばし前を向いている母にも、悔やんでも悔やみきれないほどの後悔を抱えているのかもしれない。
「後悔のないように…」
その言葉に背中を押され、雫石の口から言葉が落ちる。
「……私、やりたいことがあるんです」
「えぇ」
小雪は、大きく頷く。
「そのためには、家を出ることになると思います」
「寂しいけれど、分かったわ」
雫石は、視線を上げて姉を見つめる。
「日本にも、いないかもしれません」
「どれだけ遠くにいても、家族よ」
「結婚も、しないかもしれません」
「それも、あなたが決めていいのよ」
全て肯定されるとは思っていなかったのか、雫石は少し呆けた顔をしている。
これらの想いを、ずっと自分の心に留めていたのだろう。
叶うはずはない。
許される願いではないと。
『まったくもう…』
優秀過ぎるが故に手のかかる妹に、小雪は内心微笑む。
「私たちには、わがままを言っていいのよ。優等生じゃなくても、いいの。何かやりたいことがあるのなら、やりたいと言っていいの」
雫石は、そろりと視線を上げる。
その心配げな視線を、小雪は明るく受け止める。
「家族だもの」
たったそれだけの理由に、揺るぎない愛情が込められている。
「…ありがとう。お姉様」
少し元気が戻った妹の様子に、小雪は安心する。
「もしよかったら、雫石の夢を聞いてもいい?」
わくわくしている姉に少し微笑み、そっと耳元に近付いて告げる。
「まぁ」
少し驚いたように雫石を見ると、優しく笑った。
「素敵だわ」
「瓜生さんのお家の問題は、何とか解決したそうです」
時音は、少し疲れたように息をつく。
「小雪には詳しい事情は話していませんが、あの子のことだから察しているでしょう」
「やはり、小雪に見合いなんてまだ早いんじゃないか…?」
論点のずれている夫に、時音は額に青筋を立てる。
「結婚相手を探すことは、小雪の意思でもあります。家を継ぐ者として、早いにこしたことはありません」
「小雪が結婚してしまったら、私はどうすればいいんだ…」
「どうもこうもありません。現実を受け止めてください」
「そんな…」
「親ばかもいい加減にしないと、小雪さんに嫌われますよ」
2人だけの空間に突然聞こえた声に視線を向けると、障子の向こうに人影が映っている。
突然現れるのはいつものことなので、2人は驚くことはない。
差し込む夕陽が、人影を闇のように濃くさせる。
「翔平くんと雫石がいたから誤魔化したけれど、あれで良かったかしら」
「問題ないです」
純があの場にいたのは、時音が呼んだからではない。
時音も純の姿を見て、驚いたのだから。
「君があの場所にいたということは、瓜生家を脅したのはやはりあの家の人間かね?」
「そうです」
想定内の答えに、武長は低く唸る。
「しかし、何故小雪を狙った?今まで、小雪が狙われることはなかっただろう」
障子の向こうで、ため息が1つ落ちる。
「雫石と間違えたんだと思います」
「…どういうことだ?」
「雫石にちょっかいをかけてわたしを困らせるつもりが、間違えて小雪さんを狙ったんだと思います」
馬鹿みたいな話だが、武長にはそういうことをする人物に心当たりがある。
「ということは、次男かね」
「はい」
だから、純はあの場にいたのだ。
雫石が言っていた通り、純は頼まれたからと言って小雪を助けるほど優しくはない。
「普通、小雪と雫石を間違えるかね」
小雪と雫石は姉妹だが、容姿はあまり似ていない。
どちらも美人ではあるが、見間違えるような見た目ではないのだ。
「あの人、普通じゃないので」
あの男が普通の人間であれば、純もここまで振り回されていない。
「あの人、興味のないことをすぐに忘れていくんです。だから、名前も顔も覚えない」
雫石のことも、「利用価値のある優希の娘」くらいの認識なのだろう。
だから今回、優希家の娘が見合いをすると聞いて適当にちょっかいをかけた。
小雪は今回、完全にとばっちりである。
「ということはあの男の目的としては、雫石を人質にとるために瓜生家の長男を人質にとり、次男を脅したということか」
「全ては、あなたに遊んでもらうために」
すっと障子が開き、灰色がかった薄茶色の髪が揺れる。
絹のように真っすぐに流れる髪に、澄んだ薄茶色の瞳。
髪質と色合いは、時音の友人にとても似ている。
でもそれ以外は、似ていない。
理知的な目元も、少し冷たさを感じる形の良い口元も、亡き友人には似ていない。
「…雫石が、あなたの両親について調べているわ」
「分かっています」
やはり分かっていたかと、相変わらずのこの少女の能力の高さに息を吐く。
この子が、何もしていないわけがないのだ。
警察庁に事件の記録を残しておいて、それを見張らないわけがない。
つぼみの部屋の失われた記録に、気付かれる可能性を考えていないわけがない。
「今まで通り、私の両親については喋らないでください」
時音は、頷く。
「あなたが雫石と小雪を守っている限り、私たちはあなたとの契約を守りましょう」
純が提示する条件を時音と武長が飲む変わりに、純は雫石を守る。
それが、この少女が11年前に持ちかけてきた契約だから。
「今回、翔平くんがいたのなら姿を現さなくてもよかったのではないの?」
あのままでも、翔平がちゃんと見合い相手を止めていただろう。
純は、感情の見えない瞳を時音に向ける。
「わたしは、誰も信用しません」
亡き友人の娘とは思えない言葉に、時音は目を伏せる。
『紫織ちゃん…』
瞼の裏に、美しく長い髪が風に揺れている。
振り返ればあの薄茶色の瞳で、明るく笑ってくれる。
感情が豊かで、人を惹きつける魅力があった。
憧れだった。
友人でいることが誇らしかった。
たとえ会えなくても、一生友人でいられると信じて疑わなかった。
あの2人が、誰かに殺される未来なんて考えもしなかった。
『私は、愚かだった』
あまりにも楽観的で考えなしだった若い頃の自分に、吐き気がする。
失ったものは返らない。
そんなことは分かっていたはずなのに。
「あなたは…」
目を開けると、夕陽にあたってオレンジ色になった瞳が見える。
亡き友人もそうだったと、頭の隅で思い出す。
「あなたは、その道を選んだことを後悔しないのね」
「しません」
「あなたの両親が、そんなことを望んでいないと分かっていても?」
純は、ただ頷く。
友人が自分の娘に復讐を願うような人ではないことは、時音はよく分かっている。
『この子も、よく分かっているはず』
それでも、復讐することを選んだ。
『私たちでは、この子を止められない』
友人を殺した人間に少なからず憎しみを抱いている時音や惣一では、復讐に身を捧げる少女を止めることができない。
それどころか、手を貸している状態だ。
『止められるとしたら…』
あの2人を失った悲しみを経験したことがない、純のことを第一に考えてくれる人だろう。
純の幸せのために、純の歩む道を変えられる人。
可能性のある2人を思い浮かべて、時音は心の中でかすかに笑った。
『何の因果かしらね』
亡き友人の子を止められるのが、友人であった自分たちの子供たちというのは、因果を感じざるをえない。
ふと視線を上げると、いつの間にか純の姿は消えている。
『知らずにいて、後で知っておけばよかったと後悔するのは嫌なのです』
雫石の真っすぐな言葉に、時音は自分の娘を誇らしく思う。
『私は、後悔してばかりだった』
だから娘たちには、できるだけ後悔の少ない道を選んでほしいと思う。
後悔しても前に進めるように、強さを得てほしいと思う。
時音が憧れた、あの友人のように。




