126 親子⑤
「仕事とは関係ないことなのですが、一つ聞きたいことがあります」
翔平は仕事用の鞄にファイルを入れて鍵をかけてから、少し迷ってからそう切り出した。
惣一は視線を上げ、その先を促す。
「翠紫織という人を知っていますか」
「理事長の娘だろう」
翔平は頷く。
「13年前に亡くなった、純の母親です」
「それがどうした」
「VERT社長の娘なら、学生時代は静華学園に通っていたのではないかと思いました」
VERTは弥生が夫を亡くしてから立ち上げた会社であり、会社としての歴史は35年と短い。
しかし起業してすぐに大企業まで上りつめ、世界的なブランドになった。
それだけの会社の一人娘であれば、静華学園に通っていたと考えるのが妥当だ。
純の母親が亡くなったのは、13年前。
その時32歳だったから、生きていれば45歳。
翔平の両親と同じ年齢だ。
そして翔平の両親はどちらも、静華学園の卒業生である。
「純の母親について、何か知っていますか」
「………」
惣一の鉄仮面は動かず、何を考えているのか分からない。
しかし少し、何かを思案しているようだった。
しばらくの沈黙の後、惣一は口を開く。
「つぼみの部屋を調べろ」
「…?」
翔平が意味をはかりかねていると、惣一は話は終わったとばかりに仕事に戻る。
しかしふと、キーボードを叩く音が止む。
「絢子には聞くな」
「…何故ですか?」
話の流れ的には、絢子も純の母親について知っているのだろう。
年齢的には、3人とも同級生だった可能性がある。
惣一は眉間に力を入れると、息を吐く。
「あれの体調を気にするなら、心労をかけるな」
それだけ言うと、あとは仕事に戻ってしまった。
ここではこれ以上情報は得られないだろうと、翔平は頭を下げて社長室を出た。
惣一は、翔平が出ていった扉を眺める。
翔平は、純の母親が亡くなったのは「13年前」と言っていた。
それは、警察庁の記録を調べなければ分からない情報だ。
あの事件に関する情報は、警察庁の捜査資料にしか残っていない。
それを分かっていて、翔平はかまをかけた。
そして惣一は、かまをかけられたことを分かっていて話を進めた。
『いつかは、こうなると思っていたが…』
息子があの娘に特別な感情を抱いている以上、いつかはその過去に足を踏み入れるだろうとは思っていた。
しかしあの娘は、それを望まないだろう。
惣一は、勝手なことはできない。
それでも、あの娘との“契約”をかいくぐることくらいはできる。
倒産した会社の今後を翔平に任せたのも、「つぼみの部屋」というヒントを与えたのも、今の惣一にできる最大限の助力である。
『惣一くんは、真面目過ぎるのよ』
昔、そう言われたことがあった。
そっちが自由過ぎるんだろうと言い返すと、面白そうに笑っていた。
『そんなんじゃお爺ちゃんになった時、眉間のシワがとれなくなるわよ』
惣一の眉間を指さして、楽しそうに笑った。
『ねぇ、そう思うでしょう?』
同意を求めれば、隣でずっと笑いを堪えていた人物が微笑む。
それにまた、惣一が機嫌を損ねて眉間のシワが深くなる。
笑い声の絶えない、楽しい日々だった。
懐かしい思い出に、ただ目を瞑った。
「体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ」
純は絢子の車いすを押しながら、顔色を見る。
体調のことを考えて純が喋る予定だったのが、絢子も結構喋ってしまっていた。
絢子は、申し訳なさそうに眉を寄せる。
「ごめんね。純にはずっと迷惑をかけてしまって。それに、今回も巻き込んでしまったし」
「わたしが仲裁に入るのが一番いいというのは、分かってましたから」
「私やあの人が本当のことを言ってもお互いを庇っているように聞こえて、翔平は素直に聞けないでしょうから。それに、翔平は昔から私たちより純の言葉の方が影響力があるから」
「そうですかね」
純は最後の部分には特に関心がないのか、興味なさそうに流す。
絢子は自分の息子を思い浮かべて、苦笑いを浮かべた。
この調子では、いつになったら想いを告げられるのか分からない。
「あの父親の仕事が忙しいのは、他にも理由がありますよね」
純は、昔と比べてだいぶ体調が良さそうな絢子の様子を窺う。
「絢子さんの病気の治療のために、龍谷グループが医療関係に進出してるからですよね。開発された新薬は効き目がいいみたいですね」
絢子は、ふふっと笑った。
純には、龍谷グループの幹部しか知らないような水面下の動きも知られている。
このことは、翔平でさえ知らないというのに。
「本当に、不器用な人なのよ」
「ですね」
翔平は見た目がクローンのように父親に似ているので、不器用な性格まで似ていたら少し可哀想だ。
「やっと仲直りできたかしら。胸のつっかえがとれたわ」
「いい加減、我慢の限界だったので」
純は瑠璃に頼られてこの問題に巻き込まれるようになった3年前の時点で、面倒事は嫌なので無理やり仲直りさせようと考えていた。
純としては親子関係が破綻しようがどうでもよかったのだが、さすがに瑠璃と絢子のことを考えて仲直りの方向にした。
絢子の頼みを聞いて惣一が自分から言い出すのを待っていたのだが、いつまで経っても本当のことを自分から言い出さないのでしびれを切らして今回無理やり仲直りさせたのだ。
「この借りは、また今度返させてもらうわ」
純が利益なしで動かないことを、絢子はよく知っている。
「巻き込まれたことはそこまで気にしてないです」
「あら。珍しいわね」
純は、面倒事に巻き込まれるのを嫌う。
それに、あらゆることに無関心でもある。
「わたしは親子喧嘩をしたことがないので。見てて興味深かったです」
「…そう、だったわね」
純は喧嘩をする機会すら迎えることなく、両親を失ったのだ。
4歳という幼い子供が、父親と母親を同時に亡くすという悲しみは計り知れない。
「また、遊びに来てちょうだいね」
「瑠璃とお茶会をする約束をしてますから」
パーティーの時に交わした約束は、まだ果たされていない。
「うちに最初に遊びに来た時も、お茶会をしていたわね」
「そうでしたね」
その時は、翔平と純だけでお茶会をしていた。
お茶会と言っても、遊び疲れたので庭でお茶を飲みながら休憩していただけである。
「絢子さんと会ったのも、その時でした」
「…えぇ。よく覚えているわ」
11年前、翔平が連れてきた友人を見て、絢子は絶望に打ちひしがれそうになった。
昔の友人とそっくりの容姿に、友人にそっくりの瞳の色。
それなのに、記憶の中の友人と似ても似つかないほどの無表情。
絢子の友人は、風のように自由で明るい人だった。
いつも木の上から身軽に飛び降りてきては、絢子をお茶に誘った。
明るく笑う姿に、鳥のように自由な姿に、絢子は憧れた。
大切な、友人だった。
体の弱い自分より先に亡くなるなんて、想像すらしなかった。
『今日は天気が良いから、外でお茶にしましょう』
『いつか、一緒に木に登りたいわ』
『ねぇ。そう思うでしょう?』
『絢子ちゃん』
記憶の中から薄れていく懐かしい声に、絢子は耳を傾けた。
涙がこぼれ落ちそうになって、目を瞑る。
4歳の時に両親を亡くしてからずっと泣かない少女の前で、大人の自分が涙を流すわけにはいかない。
車椅子の音と純の足音だけが、静かな廊下に消えていった。




