125 親子④
「「馬鹿ですか」」
絢子と純の重なった声に、惣一は少し目を見開いた。
「本当に、不器用な人ですね」
絢子は、怒ったように惣一を睨む。
「あなたのせいで、翔平は父親を嫌うことになったんですよ。あなたのせいで、瑠璃は不安がっているんですよ」
絢子は、辛そうにその視線を落とす。
「その元凶が私であることは、分かっています。私の体が弱いせいで、あなたがしなくてもいい苦労をしていることも、翔平と瑠璃に負担をかけてしまっていることも」
妻としての役割も、母親としての役割も、社長夫人としての役割も、この体ではできない。
絢子は、自分の頼りない心臓に手を当てる。
絢子は生まれつき、心臓に疾患を持っている。
子供の頃に、医者には20歳を超えられないだろうと言われた。
それでも諦めずに何度も手術をして、医者の言っていた年齢を超えた。
相変わらず病弱だったが、学校生活を楽しむことができた。
しかし、好きな人と結婚するという当たり前の夢でさえ、絢子にとっては遠いものだった。
ましてや子供を産むなんて、絢子の体では考えられなかった。
病弱なこの体では、出産に耐えられないだろうと言われていた。
『それでも…』
無理だと言われた夢を、絢子は叶えてきた。
好きな人と結婚し、可愛い2人の子供にも恵まれた。
諦めかけていた絢子の夢を、叶えてくれた人がいたから。
「あなたは、プロポーズの時に言ってくれました。どれだけ結婚に反対する人間がいても、そんなのは全てねじ伏せてみせる。自分が完璧な社長になって、病弱であることを誰にも責めさせないと」
「………」
「あなたは、私を守ってくれました。病気から。人々の批判から。それについては、とても感謝しています」
惣一のおかげで、絢子はここにいられるのだ。
「でも」
絢子は、惣一を睨みつける。
「そのせいで、家族の仲が悪くなるのは嫌です」
絢子は、口先をとがらせて頬を膨らませる。
「7年前もそう言ったのに、翔平には言うななんて格好つけちゃって。強がっているのが見え見えです」
「な…」
「自分が悪いのは本当だから仕方ないですって?本当に素直じゃないですね。親子揃ってそっくりです」
「!?」
父親への文句かと思えば自分に飛んできて、翔平は驚いた。
「2人とも私のためを思ってくれているんでしょうけど、真夜中に部屋に来るのはやめてください」
「「!」」
翔平は驚いて父親を見ると、どんな感情かは分からないがかすかに顔を歪めていた。
「せっかく夫と息子が会いに来てくれているのに、寝たふりをするしかない私の気持ちが分かりますか?」
「「………」」
まさか気付かれていたとは思わず、2人とも何も言えなくなる。
「家族を大切に思う気持ちと心配が一周回ったうえに歪んでて、分かりづらいんですよ。どっちも」
純は相変わらず容赦がない。
「いい加減、ちゃんと話したらどうですか」
純は、薄茶色の瞳を惣一に向ける。
「大切な人が、明日もいるとは限りませんよ」
惣一は、薄茶色の瞳を見つめ返した。
大切なものを失ったことのある者の言葉は、重い。
その懐かしい色で見つめられ、惣一は深く息を吐いた。
それを了承と見て、純は絢子の車いすを押す。
「あとは、2人でどうぞ」
そう言って、絢子と共に部屋を出ていく。
扉が閉まると、2人の間には重い沈黙が流れる。
最初に口を開いたのは、惣一だった。
「本当のことを言わなかったのは、悪かった」
「いえ…」
翔平は、7年ぶりに惣一に父親として真正面から向き合われて、どうすればいいのか分からなかった。
ずっと、父親として嫌っていた。
しかしそれが誤解であったという事実に、心が追い付かない。
「俺は…ひどいことを言いました。父親ではないと」
「そう言われても仕方のないことをしてきた。理由がどうであれ、結果的に家族を省みなかったのは事実だ」
「………」
「お前は、私のようにはなるな」
惣一の静かな声に、翔平は顔を上げる。
感情の読めない冷たい表情は、いつもと変わらない。
しかしそれは、自ら望んで被っている仮面のような気がした。
「龍谷グループの社長として役目を果たせ。夫として、父親として役割を果たせ」
惣一は、その全てはできなかった。
一番大切な家族を守るために、結果的に家族をないがしろにした。
そうすることでしか家族を守れなかった自分が情けない。
惣一は、困惑を瞳に浮かべた自分の息子を見た。
惣一によく似た容姿を持つ息子は、若い頃の惣一によく似ている。
しかし、2人は同じ人間ではない。
「お前には、お前のやり方があるだろう」
惣一にはできないことも、翔平ならできるかもしれない。
翔平は、父親の言葉に少し驚いた。
父親からこういう言葉を貰ったのは、初めてに近い。
『俺には、俺なりのやり方』
翔平から見れば、惣一は優秀な人物だ。
それでも言葉の端々から、後悔のようなものが見える。
『龍谷グループ社長として、夫として、父親として』
翔平には、歩みたい道がある。
叶えたい夢がある。
そのために、欲しいものもある。
「…俺に、龍谷グループ後継者としての仕事をもっと回してもらえませんか」
惣一は少し驚いたように、片眉がぴくりと動く。
「今の仕事内容に不満があるわけではありません」
しかし今の翔平は、他の社員と同じような仕事しかしていない。
大切な商談や話し合いの場に同席することはあっても、全ての決定権は社長である父親にある。
「大切な人を守るために、もっと力が欲しいんです」
それは、龍谷グループの後継者としての力だった。
権力、財力、地位、名声。
今の翔平には、どれも足りない。
「あの娘のためか」
惣一が言っているのは、純のことだろう。
翔平は迷いなく、頷いた。
惣一は少し考え込むように、沈黙が続く。
翔平は少し緊張しながら、父親の反応を待った。
好きな人のために会社の力が欲しいなど、一喝される可能性もある。
しかし惣一は何も言うことなく引き出しの中からファイルを取り出すと、机の上に出した。
「見てみろ」
「?」
父親の意図がよく分からないものの、翔平はそのファイルを手にとる。
中身に目を通すと、すぐにこれが何のファイルなのか分かった。
「少し前に倒産した会社の資料ですか」
その会社が倒産した話は耳に入っていたので、すぐに分かった。
この会社はただ倒産したのではなく、倒産させられたのだ。
大きな力に逆らえず、押し潰されてしまった。
しかし、何故その会社の資料がここにあるのかは謎である。
龍谷グループとは特に関係のない会社だったはずだ。
「その会社を救ってみせろ」
「…?」
翔平が惣一の意図を図りかねている間にも、惣一はどんどん話を進めていく。
「その件については全て任せる。だが、他の人間には秘密にしろ。何かあれば必ず社長室で聞くように。まずは3日やる。具体案ぐらいは出してこい」
他の人間には秘密にしろという言葉に、この会社を潰した相手を思い出した。
圧倒的な力と財産を持ち、一族経営という強い絆であらゆる業界を牛耳っている存在。
自分たちに逆らったものは、蟻を踏みつぶすように消していく。
『久遠財閥…』
ファイルを持つ手に、汗がにじむ。
何故、父親がこの会社を救えと言ってきたのは分からない。
久遠財閥に潰された会社を救うことの意味も分からない。
分からないことが多い中で分かったのは、惣一に期待されているらしいということだった。
この件を翔平が1人でやりこなせるかで、後継者としての能力も試されているのだろう。
今までとは違った責任重大な仕事に、翔平は身が引き締まる思いだった。
「お前なら、できるだろう」
それは、父親としての惣一から貰った初めての期待と称賛の言葉だった。
「期待に応えられるように力を尽くします」
惣一は珍しく、口の端に笑みを浮かべた。
惣一はずっと、息子として、自分の後継者として、翔平を認めていた。
嫌われていると知っていて放っておいたのは、それが向上心に繋がると考えたからでもあった。
久しぶりに父親と息子として話した会話は相変わらず上司と部下のようだったが、壁は取り払われていた。




