124 親子③
「母さんは?」
翔平は病院に着くなり、いつも母親の世話をしている年配のメイドに迫って問い詰めた。
「赤ちゃんが産まれそうになったのですが、奥様の容態が悪くなられて…奥様も赤ちゃんも、危ない状態です」
「そんな…」
「できるだけ、奥様の側にいてあげてください」
「うん…」
メイドに背中を押されて母親の元へ向かおうとした翔平の足が、ピタリと止まる。
「…父さんは?」
メイドはその言葉を予想していたのか、言いづらそうにしながらも口を開いた。
「…お仕事で、来られないそうです」
「仕事……?母さんと赤ちゃんが危ないのに?こんな時に、仕事…?」
「旦那様はお忙しいお方です。坊ちゃんもご存じでしょう」
「分かってるけど…母さんが苦しんでるのに、何で来ないんだよ」
「坊ちゃん…」
翔平の表情が険しくなり、メイドは複雑そうに眉を寄せる。
翔平はメイドを置いて、母親の元へ向かった。
治療室の中には入れないので、その外で母親と赤ちゃんの無事を祈る。
しかし考えれば考えるほど、2人が死んでしまうのではないかという恐怖心に襲われる。
それは1人で抱えるには重たくて、辛くて、涙が出そうだった。
使用人たちが言葉をかけてくれるも、それは翔平の心には響かなかった。
大人たちの言葉には悲しみとともにどこか諦めがあるように思えた。
それを、翔平の心は拒絶した。
『大丈夫…きっと大丈夫…』
何度もそうやって自分に言い聞かせても、体の奥底から湧き上がる恐怖は消えない。
何も考えたくない頭には、何故か母親との思い出が浮かび上がってくる。
母親は、いつも翔平に優しかった。
穏やかで日向にいるようにあたたかくて、側にいると安心した。
翔平が学校のことや純のことを話すと嬉しそうに聞いてくれて、部屋の中から翔平と純が一緒に遊んでいるところを見て楽しそうに微笑んでいた。
翔平は、兄になれることがとても楽しみだった。
もし弟だったら一緒に遊んでキャッチボールをしたいとか、もし妹だったら湊みたいな兄になって可愛がろうとか、たくさん考えていた。
『もし、死んじゃったら…』
そんな考えが頭を過ぎり、それを追い出すように頭を振る。
そして、ここにはいない父親のことを思い出した。
仕事で家にあまりいないのはいつものことだった。
しかし、自分の妻と子供が死ぬかもしれないのに仕事を優先することが理解できなかった。
『そんなに仕事が大事なのかよ…おれたち、家族より…』
翔平の心にあった不安と恐怖心は、だんだん父親への怒りに変わっていく。
今まで我慢して心の奥に蓋をしていたことも、溢れ出してくる。
『遊んでくれたことなんてなかった。どれだけ成績が良くても、褒めてくれることなんてなかった。おれの話を聞いてくれることもなかった』
翔平の瞳は、だんだん怒りに染まっていく。
「仕事だからって…母さんを放っておくなんて…。家にいないなんて…家族を大切にしないなんて…そんなの…」
翔平は、ここにはいない父親を睨みつけた。
「父親なんかじゃない」
その後、母親は無事に女の子を出産した。
しかし出産が影響して病状が悪化し、以前より寝付くことが多くなった。
父親が家に帰ってきたのは、妹が生まれてから1週間経ってからだった。
翔平は母親と妹が寝ている部屋の前で、父親を迎えた。
父親は何も言わず、扉を背にして自分に向き合う翔平と見つめ合う。
「…なんで、帰ってこなかったの」
「仕事だ」
父親の表情は少しも変わらない。
「母さんが死ぬかもしれなかった。妹だって死んでたかもしれない。そんなに仕事が大事なのかよ」
翔平の心は怒りで満ち溢れ、その感情のままに父親を睨みつけた。
父親は少しの沈黙の後に、翔平を見たまま口を開く。
「あぁ。そうだ」
翔平は、その言葉に拳を握りしめた。
湧き上がる怒りで、体が震えた。
「…あんたなんか、父親なんかじゃない。おれたち家族を大切に思わないなんて、父親なんかじゃない」
父親は翔平の怒りに少しも動じることはなかった。
それが、さらに翔平の心をざわつかせた。
「帰れよ。仕事の方が大事なんだろ。帰れ!」
父親は翔平を見つめると、何も言わずに翔平に背を向けてその場から去っていった。
翔平は、その背中を睨みつけた。
『おれは…絶対に、あんな人間にはならない』
その日、父親と息子の間には深い溝がうまれた。
それ以来、翔平は父親を避けるようになった。
家ではほとんど喋らず、家族を省みず仕事ばかりする父親に怒りを持ち続けた。
高等部に入ってからはグループを継ぐ覚悟を持ち、仕事に関わるようになった。
仕事上では父親は優秀な人間であることを知り、最初はそれを受け入れることはできなかったが、仕事ぶりを見るうちに認めるようになった。
それからは仕事上では上司として尊敬し、父親としては嫌悪して常に壁を持ち続けた。
『昔から、何も変わらない』
翔平は、目の前で仕事をしている父親を見る。
龍谷グループ社長である龍谷惣一は、優秀な人である。
龍谷グループはIT企業を中心とした子会社をいくつも持ち、ネット広告やネット通販、旅行やホテルなど様々な業種に手を広げている。
子会社の数だけ業種があり、子会社が増えるほどその親であるグループの長には責任が増える。
その全ての責任を負いながら、社長に就任して以来ずっと利益を上げている。
しかしいくら社長としては優秀でも、父親としては尊敬できない。
だからずっと、父親ではなく上司だと思っている。
きっと父親も、翔平のことを息子ではなく部下だと思っているのだろう。
そのくらい、2人の関係は冷え切っていた。
『それでも…』
父親の顔を見ていると、先日母親が体調を崩したのに帰ってこなかった怒りが思い出される。
純のおかげでだいぶ収まり、家では出さないようにしているものの、本人を前にすると心の奥で怒りが燻る。
それを感付かれたのか、父親の目が翔平に向いた。
「何か言いたいことでもあるのか」
「いえ。ありません」
仕事場で家のことを持ち出すつもりはない。
そこは昔から分けて考えている。
父親は翔平をそのまま少し見つめた後、書類に視線を落とした。
「失礼いたします」
父親の秘書が社長室に入ってくる。
父親と同年代の男性で、いつも毅然とした態度を崩さない有能な秘書である。
しかし惣一と翔平の姿を確認すると、焦りと不安を見せる。
その瞬間、翔平は嫌な予感がした。
「…奥様が、発作を起こされたようです」
嫌な予感が的中して、翔平は表情を固くした。
「容態は?」
「…あまり良くないようです」
「そうか」
父親はそう言ったきり、机から動こうとしなかった。
その行動に、翔平の心が波立つ。
「また、家に帰らないつもりですか」
「仕事がある」
それは、いつもと同じ返事だった。
その声に動揺や心配は感じられない。
翔平は、思わず拳を握りしめた。
「仕事が大切なのはわかります。ですが、それは家族よりも大切なものなんですか」
翔平は、初めて仕事場で父親を上司ではなく父親として扱った。
その問いは、翔平が7年前にしたものだった。
そして翔平がずっと父親に対して思い続けていたことだった。
父親はちらりと翔平を見た後、また書類に視線を落とす。
「あぁ。そうだ」
それは、7年前と同じ返答だった。
そして翔平も7年前と同じように父親を睨みつけた。
「あなたはいつになったら母さんを心配するんですか。いつになったら俺たち家族を省みるんですか」
「ここは会社だ。仕事に関係ない話はここまでだ」
「…何故そこまで、家族よりも仕事が大切なんですか」
「………」
父親は顔を上げるも、何も言わなかった。
「いい加減、本当のことを話したらどうですか」
突然自分たち以外の声がして振り返ると、秘書の後ろから純が現れた。
「…純?何してるんだ?」
何故龍谷グループの社長室に純が現れたのか、翔平には分からない。
純はいつも通り無表情だが、どこか面倒くさそうにしている。
「…それに、本当のことってどういうことだ」
今さっき純が口にした言葉は、惣一に向けられたものだった。
しかし惣一は眉間のシワがかなり深くなっているが、その表情からは心の内を読み取れない。
純はそんな惣一に、面倒くさそうな視線を向ける。
「翔平に、7年前のことをちゃんと話したらどうですか」
「…瑠璃が生まれた時のことか?」
「そう」
翔平に答えながら、純は視線を外さずにじっと惣一を見つめた。
惣一はそれを見つめ返すも、冷たい表情を一切変えなかった。
「何のことだ」
純はその言葉に深くため息をつき、部屋の扉の方を振り返った。
「自分から言うつもりはないみたいですよ」
「?」
秘書に話しかけたのかと思ったら、いつの間にか秘書はいなくなっていた。
そして扉の向こうから現れたのは、発作を起こしたはずの母親だった。
車いすに座り、秘書に車いすを押してもらっている。
「母さん!?」
翔平は慌てて母親に駆け寄る。
「発作を起こしたんじゃ…」
「大丈夫よ。嘘をついてもらっただけだから」
「何でそんな嘘を…」
絢子はそれに答えずに、椅子に座ったままの自分の夫に呆れた目を向けた。
「もう7年ですよ。どこまで不器用なんですか」
「お前…」
「純。お願いできるかしら」
絢子は惣一の低い声を遮って、純に微笑みかける。
純はそれに頷き、翔平に目を向ける。
「7年前、この父親が絢子さんのところに行かなかったのには理由がある」
「仕事だろ」
「そうだけど、それだけじゃない」
「…どういうことだ」
「あの時ちょうど、龍谷グループにとって大切な商談があった」
「部下に任せればいいだろ」
「任せられない理由があった」
「どんな理由だ」
純は惣一にちらりと視線を向けるも、まだ自分で言いそうにないのでため息をついた。
そして、翔平の問いとは違うことを返した。
「社長夫人が病弱で、表に出れないことは会社にとって不利でしょ」
「それが…どうした」
翔平も、それは分かっている。
社長夫人としての役割である社交界での交流や繋がりは、夫を助ける有力な手立てとなる。
しかし、病弱な絢子は社交界に出ることができない。
翔平が10代という若さで会社で仕事をして、パーティーなどの社交界に積極的に出ているのは、絢子の代わりとしての意味も大きい。
家の使用人をまとめるのも女主人の役割だが、それも絢子に代わって翔平がやっている。
「絢子さんとこの人が結婚する時も、だいぶ反対されたらしい。絢子さんが病弱で、社長夫人に相応しくないって」
絢子は、少し哀しげに微笑む。
「でもこの人は、それを押し切って結婚した」
「じゃあ、何で母さんを大切にしないんだ」
翔平は純に話しているようで、その言葉は父親に向かっていた。
「社長夫人として役割を果たせない妻が体調を崩すたびに仕事を放りだす夫は、社長として正しいと言える?」
「………」
翔平は、何も言えない。
「この人が仕事を放り出して絢子さんの元に駆け付ければ、仕事に影響が出る。それに対する批判は、絢子さんに向く」
何かあった時に責められるのは、立場の弱い者だ。
「だからこの人は、絢子さんが体調を崩しても仕事を投げ出すことはしなかった。会社の人間の不満が絢子さんに及ばないように、常に完璧な社長であり続けた」
そうして、冷徹な仕事人間が出来上がった。
「自分が仕事を放り出せば絢子さんの立場が悪くなるから、仕事を優先した。7年前も、この前も」
「…じゃあ、本当は母さんのことを大切に思っていて、母さんを守るために仕事に行ったっていうのか」
純は、ただ頷く。
「………」
翔平は、純を見たまま何も言えなかった。
純は、嘘を言っていない。
本当のことを言っているのだと分かっていても、心が追い付かなかった。
ゆっくりと父親の方へ振り返る。
いつもと変わらず、感情の読めない冷たい表情をしている。
「…どうして、そのことを俺に言わなかったんですか。俺が誤解していると、知っていたでしょう」
ちらりと自分の妻を見ると、「いい加減自分で話せ」という圧を感じる。
さっきからあまり喋らないようにしているのは体調を考えてのことだろうが、その分目で訴えてきている。
「私が仕事で駆け付けられなかったのは事実だ。お前の私に対する感情は何も間違っていない。仕事ばかりしていて、父親らしいことは何もしていない」
惣一は、7年前の翔平の怒りに満ちた強い瞳を思い出した。
翔平が自分に対して感情を表に出したのは、あれが最後だった。
「私は父親に相応しくない。お前の言う通りな。だから、言わなかった。私が父親として言えることは何もない」
「「馬鹿ですか」」
部屋の中で、声が重なった。




