123 親子②
「純様」
「なに?真弓さん」
廊下で純を呼び止めたのは、メイドの真弓だった。
この屋敷にはメイド長を除けばメイドは怜と真弓の2人だけである。
少人数でこの大きな屋敷を綺麗に保っている、優秀なメイドの1人だ。
いつも冷静なメイドの目元には、少し険しさが見える。
「申し訳ありません。ネズミに逃げられました」
「珍しいね」
「逃げ足が速いようです」
メイドは、少し悔しげに眉を寄せる。
「ネズミ捕りの罠を強化しましょうか?」
純は、それには首を横に振る。
「そのままでいいよ」
あまり罠を強くすると、引っかかるものも引っかからない。
「こっちでも少し探してみる」
「かしこまりました」
真弓と別れると、タイミングを見計らったようにシロが現れる。
「お客様がいらっしゃいました」
シロは純に一礼すると、自分の後ろに視線を向ける。
純は少し眉を下げると、シロの後ろにいる人物に手招きをした。
シロの後ろから走り出してくると、その勢いのまま純に抱きつく。
「…お、おねえさま……」
純を訪ねて来たのは、瑠璃だった。
その漆黒の瞳からは、涙がぽろぽろとこぼれている。
「分かってるから。大丈夫」
瑠璃は顔を上げると、純の顔を見て我慢の糸が切れたように泣きじゃくった。
それを宥めるように、頭を優しく撫でる。
純は、何故瑠璃が自分を訪ねてきたのか分かっている。
こうやって瑠璃が泣きながら訪ねて来るのは、初めてではない。
「お、お母さまが…」
「入院したの?」
瑠璃は、泣きじゃくりながら頷く。
瑠璃の母親は、瑠璃以上に病弱だ。
昔からベッドの上にいることが多く、入退院を繰り返している。
しかし瑠璃が泣いているのは、他にも理由があるのは分かっている。
「翔平の様子は?」
瑠璃は、首を横に振る。
それだけで、翔平の状況が分かる。
純は瑠璃に気付かれないようにため息をつくと、少し呼吸が荒くなってきた瑠璃を落ち着かせるように背中を撫でる。
このまま泣きすぎると、発作を起こしてしまう。
瑠璃もそれをよく分かっているのか、純の手の動きに合わせながらゆっくりと呼吸をしている。
「シロ。出かける」
「かしこまりました」
瑠璃が訪ねて来た時点でこうなることは分かっていたシロだったが、あまり機嫌がいいとは言えなかった。
瑠璃がここを訪れる原因となっている人物のことが気に入らないのである。
『あれだけ大口を叩いておいて、このざまですか』
あの漆黒の髪色の少年を頭の中で思い浮かべ、せせら笑った後に土の中に埋めた。
それで少しすっきりしたシロは、外出のための車を用意しに行った。
カタカタとパソコンのキーボードが叩く音だけが、静かな部屋に響く。
自分を落ち着かせるために仕事をしているものの、心の中の嵐は収まらない。
いつもより強くキーボードを叩いている音に、自分がどれだけいら立っているのかに気付く。
少し落ち着こうと、一度席を立つ。
コーヒーでも飲もうとコップを取りに行こうとして、翔平は心臓が飛び出るほど驚いた。
自分の部屋のソファーに、純が座っているのだ。
ソファーに腰かけ、いつの間に淹れたのか、コーヒーを飲んでいる。
「…いつからいたんだ」
「10分前」
そうすると、翔平は純の存在に10分も気付かなかったらしい。
「何しに来た」
純が来た理由は分かっているのに、そう聞いてしまう自分の心の余裕の無さに腹が立つ。
「絢子さん、入院したんでしょ」
絢子というのは、翔平の母親の名前だ。
宇津巳から連絡が来てすぐに、翔平は母親の元へ向かった。
容態は安定していると聞いていたが、顔を見るまで生きた心地がしなかった。
母親は翔平と瑠璃の顔を見て、「心配しなくても大丈夫よ」と微笑んだ。
本人からしたら慣れているのかもしれないが、入院される側としては毎回不安でしょうがない。
その場に、父親はいなかった。
翔平は湧き上がる怒りを抑えられず、拳を握りしめる。
「…また、来なかった」
今までにも何度もあった理由に、純は内心ため息をつく。
「母さんが倒れても、病院にすら来ない。仕事ばかりしていて、家族を省みない」
翔平が怒りを向けているのは、自分の父親だ。
翔平は仕事上では父親を上司として尊敬しているが、家族という関係性の中では嫌っていると言ってもいいほど確執がある。
それは、7年前からだった。
純はその原因を知っているが、首を突っ込むつもりはさらさらなかった。
ただこの3年ほどは瑠璃が自分を頼ってくるので、仕方なく首を突っ込んでいるのだ。
純は基本的に他人事に関心がないので、この問題に関わっているのはかなり珍しいことだった。
2人が喧嘩、と言っても翔平が一方的に怒っているだけだが、そうなると2人の雰囲気が険悪になる。
瑠璃はそういった雰囲気を感じ取り、不安になる。
そうすると、家族以外で唯一頼れる純を頼ってくるのだ。
「瑠璃を不安にさせないでよ」
「させてるつもりはない」
「瑠璃が不安がってる時点で翔平が悪い」
瑠璃にかなり肩入れしている言葉だが、純の言っていることは正しい。
翔平は、深く息を吐いた。
心の中の怒りを隠しているつもりでも、瑠璃が不安がっているのなら翔平が悪い。
「…そうだな。俺が悪かった」
「瑠璃に言って」
「あぁ、もちろん」
瑠璃には、いつも不安な思いをさせてしまっている。
それを分かっていても、溢れ出す怒りを抑えきれなくなる時がある。
『俺は、どれだけ未熟なんだ…』
純を守ると言っておきながら、さっそく純に助けてもらっている。
瑠璃の兄として妹を大切にしたいのに、その妹を不安にさせてしまっている。
自分の未熟さに、腹が立つよりも落胆する。
すぐには変われないと分かっていても、すぐに変わりたいと思ってしまう。
怒りから落ち込んだ様子の翔平を見て、純はただコーヒーを飲む。
翔平は、昔から家族にさえもあまり感情を出さない。
喜怒哀楽が表に出づらい鉄仮面のせいもあるが、本音をこぼさないのだ。
『翔平が本音を言うのは、純の前だけよ』
翔平の母親はそう言っていたが、純は理解していない。
興味もない。
「じゃあ、帰る」
自分の仕事は終わったとばかりに、純はコーヒーカップをテーブルに置く。
「わざわざ来てもらって悪かったな」
「瑠璃に頼まれたから」
翔平のためではなく、瑠璃に頼まれたから。
純は昔から、翔平より瑠璃の味方である。
いつもと変わらない純の様子に、翔平は少し安心した。
純は「好きにしろ」と言ったが、もしかしたら今以上に距離を取られてしまうのではないかという不安もあった。
しかしそれは杞憂であったらしい。
『諏訪大和も、今のところは大人しくしているみたいだしな』
純が雨がトラウマであることは、今のところ外部に洩れていない。
翔平も大和の動向には少し気を付けていたのだが、あれ以来目立った行動はしていない。
恐らく、純が何かしたのだろう。
自分の弱点を知った人間をそのままにしておくほど、純は優しくない。
『今日知ったことは、純には知られない方がいいな』
恐らく純は、自分の過去を探られるのを嫌がる。
両親のことを全く話さなかったのも、隠したかったからかもしれない。
分からない点が多すぎる今は、慎重に行動する方が良い。
純は翔平の心の内に気付いた様子もなく、慣れたように部屋の扉を開ける。
「またな」
背中にかけられた声に振り返ると、いつも通りの翔平がいた。
「またね」
そう言って、純は部屋を出ていく。
いつもと変わらない別れの言葉に、ほっと安心した。
真夜中、電気の付いていない部屋の扉をゆっくりと開ける。
ベッドで眠っている人物を起こさないようにそっと近付き、落ち着いた寝息が聞こえてほっと安心した。
面会時間はとっくに過ぎているのだが、もう一度顔を見ておきたかった。
翔平が幼い頃から、母親はよく体調を崩していた。
そのたび自分の世界を支えるものが揺らぎ、崩れてしまいそうだった。
でもその不安定さを病弱な母親には見せたくなくて、あまり感情を表に出さないようにした。
それでも母親に悟られそうな時は、こうやって夜にこっそり様子を見に来ていた。
『純は4歳の時に、両親を亡くしていた』
その時の悲しみや絶望感は、今の翔平には計り知れない。
それでも翔平も家族を大切に思っているから、家族を失いたくないと思う。
『それなのに…』
怒りで拳を握りしめる。
しかし目の前で母親が眠っていることを思い出して、すぐに怒りを収めた。
しかし、眉間から深いシワは消えない。
翔平が物心ついた頃から母親はベッドにいることが多く、父親は家にいることが少なかった。
龍谷家の長男という立場から簡単には家の外に出してもらえず、友達もいなかった。
それでも、父親が家にいないのも、自分に自由がないのも、仕方ないことなのだと理解していた。
優しく病弱である母親を心配させないように習い事や勉強に打ち込み、外の世界を知るうちに父親の凄さを感じて尊敬した。
『だが…』
7年前のことを思い出して、感情が乱れそうになる。
頭を振って平静を取り戻すと、もう一度母親の姿を確認してから部屋をあとにした。
7年前。
「弟?妹?どっち?」
「翔平は、どっちがいい?」
翔平は母親の大きなお腹を見て、うーんと唸った。
「どっちでもいい」
翔平は顔を上げて、母親を見た。
「どっちでも、うれしい」
「そうね。母さんもそう思うわ」
翔平は興味深そうに母親のお腹をずっと見ていたが、ふと何かを思い出したように眉間にシワを寄せた。
「…母さん」
「なに?」
「父さんは?」
「お仕事よ」
「母さん体調悪いのに、何で帰ってこないんだろう」
「父さんは忙しいのよ」
「父さんがいなくて、母さんは寂しくないの?」
「翔平がいてくれるから寂しくないわ」
優しく微笑んでくれている顔色は悪く、病人のように青白い。
頬もこけていて、お腹以外は骨と皮しかないくらいに細い。
子供の翔平でも、この出産が危険なものであることは分かる。
出産というのは母親の体力が必要だが、翔平の母親は病弱だ。
「大丈夫よ」
翔平の心を見透かしたように、母は微笑む。
翔平はそれ以上は何も言えず、ただ頷いた。
「ほんとに大丈夫かな…」
翔平は母親が心配で仕方なくて、学園の中庭でポツリと呟いた。
隣からは返事が来ることなく、本のページをめくる音だけが聞こえる。
「父さんは帰ってこないけど、母さんは寂しくないって言うんだ」
「………」
「ほんとに寂しくないのかな?」
「………」
本のページをめくる音しか返ってこなくて、翔平は不満げに眉間にシワを寄せる。
「このくらい答えてくれてもいいだろ」
パラリとめくる音に、どことなく面倒くさそうな雰囲気が混じる。
「絢子さんがそう言うなら、そうなんじゃない」
「でも、ずっと帰ってこないんだぞ?」
「忙しいからでしょ」
「そうだけど…」
翔平は複雑そうにしている。
そんな翔平に、純は首を傾げる。
「お兄ちゃんになるのに、うれしくないの」
「それはすごくうれしい。弟か妹ができるから」
弟か妹が生まれると聞いた時から、翔平は楽しみにしていることがあった。
「おれは、湊さんみたいなお兄ちゃんになりたいんだ」
純は、じっと翔平を見る。
「わたしのお兄ちゃんの方がお兄ちゃんだから」
「なに意味分かんないこと言ってるんだよ」
翔平は、昔から憧れている純の兄を思い浮かべた。
いつも妹を大切にしていて、優しくて、あたたかい。
自分もそんな兄になりたい。
「おれも湊さんと同じ、お兄ちゃんになるのか」
その事実に、だんだん実感がこもってくる。
純は、無表情のまま首を横に振る。
「わたしのお兄ちゃんの方がお兄ちゃん」
「だから、それ意味分かんないって」
そんなことを話しているうちに、翔平はさっきまでのモヤモヤとした気持ちを忘れていった。
翔平が家に帰ると、家の中が騒がしかった。
嫌な予感がして、何があったのかと不安に思っているとメイドが駆けつけてきた。
その青ざめた顔を見て、何も聞かなくても何があったのか分かった。
「坊ちゃん。奥様が…」
目の前が、真っ暗になっていく。
足下がガラガラと、崩れ落ちていく音がした。




