119 交差する思い③
純はパーティー会場からどんどん離れていく大和についていきながら、周囲に気を巡らせた。
パーティー会場の近くには、瑠璃の気配はない。
今日の会場はホテルなので、かなり広い。
どこかの部屋に隠されているとなると、さすがに気配を探るだけでは限界がある。
瑠璃の居場所を無理やり吐かせる方法はいくらでもあるが、この男子の性格を考えればその方法では絶対に言わないだろう。
逆に瑠璃に危害が及ぶような方法をとられる可能性が高い。
今は、大人しくついていくのが最善だった。
『前回、力の差を見せつけたのが仇になったか』
以前よりも悪知恵が働くようになっている。
そしてやはり、素直に諦めることもなかったらしい。
大和はエレベーターに乗ると、客室のある階下に降りる。
そのまま1つの部屋の前で止まると、暗証番号を入れて部屋の扉を開ける。
部屋の中に入ると、お菓子を食べながら椅子に座っている瑠璃がいた。
その顔色や落ち着いた呼吸を見て、ほっと安心する。
「お姉さま、どうしたの?」
瑠璃は、椅子から降りて純に近付く。
「すぐに来るって聞いていたのに、ずっと来ないんだもの。何かあったの?」
首を傾げる瑠璃に、純は少し微笑む。
「少し話が長引いただけ。瑠璃は大丈夫?」
「あのお兄さんがお菓子をくれたから、元気なの」
瑠璃の指さす先には、優しそうな笑みを浮かべた大和がいる。
部屋の中央にあるテーブルにはケーキやお菓子があり、茶器も用意されている。
「お姉さまがお茶会をするって聞いて、待ってたの」
どうやら、テーブルの上のものは瑠璃がセッティングしたらしい。
かなり楽しみにしていたのか、今にもお茶会を始めようとしている。
「瑠璃。そのお茶会はまた今度ね」
「…どうして?」
ティーポットを持ったまま、瑠璃は不安そうに眉を寄せる。
「せっかく、準備したのに…」
そのまま泣きそうになってしまっている瑠璃の頭を、優しく撫でる。
「今日は、翔平のところに戻ろう。翔平に、何も言ってないでしょ?」
「あのお兄さんが、言っておいてくれるって…」
瑠璃は我慢できなくなったのか、ぽろぽろと涙をこぼす。
「瑠璃がお兄さまにちゃんと言わなかったから、だめなの?」
純は何も言わず、ただ優しく微笑む。
「今度は、瑠璃の家でお茶会をしよう」
「でも…瑠璃は、そのお茶会に出れるか分からないわ…。せっかく、今日は…」
瑠璃の頬に、涙が次々と流れていく。
久しぶりに体調が良くて、パーティーに出ることもできて、純にお茶会に誘われて。
瑠璃にとって、嬉しいことばかりだった。
「次」というのは、体が弱い瑠璃にとって必ずあるものではない。
「今度は、瑠璃が元気な時にやるから大丈夫」
「…でも、お姉さまはお忙しいでしょう?」
「瑠璃のためなら、行くよ」
純は膝をかがめて、瑠璃に視線を合わせる。
「だから、今日は翔平のところに戻ろう」
瑠璃は少し落ち込みながらも、こくりと頷く。
その瑠璃の手を引いて、部屋の外まで連れて行く。
「先に戻ってて。わたしは少しこの人と話があるから」
「でも…」
瑠璃は、長い廊下を見て不安そうに眉を寄せる。
ここに来る時はあの人に連れられるままに来たので、パーティー会場まで自分一人で戻れる自信がない。
「大丈夫。瑠璃の知ってる人に道案内頼んだから」
「だぁれ?」
「それはあとのお楽しみ」
純は瑠璃の頭をポンポンと撫でると、優しく背中を押すようにして部屋の外に出した。
「またあとでね」
「うん…」
バタンと扉が閉まると、廊下で1人になる。
不安と恐怖でまた泣きそうになっていると、肩をポンポンと優しく叩かれた。
涙目で見上げると、そこには確かに瑠璃の知っている人がいた。
黒髪の執事は、瑠璃を安心させるように微笑む。
「会場までお送りいたしますよ」
「あんたも、あんな顔するんだな」
瑠璃がいなくなると、大和はこちらに背を向けたままの純に面白そうな視線を向けた。
「ずいぶん、龍谷の妹を可愛がってるみたいだな」
人を殺せそうなほどの眼差しをすると思えば、姉のような優しい眼差しも持つ。
ああいう顔を見ていると、その中身がどうなっているのか気になる。
瑠璃が出ていってからの純は、扉に向かったままずっと無言である。
「おい、何か言ったら――」
灰色がかった髪がふわりと舞ったと思うと、瞬きをする間もなく大和の体は後ろに吹っ飛んだ。
吹き飛ばされた体は椅子にあたり、それごと倒れ込む。
背中に痛みを感じた時に、やっと自分が殴られたことを理解した。
左頬が痺れて熱を持ち、口の中に鉄の味がする。
椅子に手をかけながら何とか体を起こすと、感情のない瞳が自分を睨みつけていた。
そこには怒りがあるはずなのに、何も見えない。
今まで見たそのどれとも違う、光のない瞳だった。
「今のは、瑠璃を巻き込んだ分」
大和は口の中の血をペッと吐き出すと、痛む顔面を歪めて笑った。
「殴ったくらいで許してくれるのか?思ったより優しいんだな」
「再起不能にすると、いろいろ差し支えるから」
そう言いながらも、右手を軽く振りながら大和に近付く。
その手に何の跡も残っていないことに気付き、大和は内心笑った。
『男一人をこれだけ吹っ飛ばしておいて、殴った手は無傷か』
強いのは知っていた。
だから、前回から今日までの間に少し体を鍛えてきた。
しかし、純の強さはそこら辺の人間の強さとは何か違う。
その事実に、背筋がゾクゾクする。
胸ぐらを強く掴まれ、息がしづらくなる。
目の前の瞳は薄茶色のはずなのに、その奥は真っ黒だった。
人形のように無表情なのに、灰色がかった髪がかかる白い頬と鮮やかな色の唇に人間としての美しさを覚える。
「わたしの周りに手を出せば、あんたの大切なものを潰すと言った」
純はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を大和に見せる。
大和はそれを見て、余裕のあった笑みが固まる。
「諏訪邸の2階、北側の部屋。朝9時から夕方6時頃まで、窓際にいる」
純が見せたのは、1人の女性が窓際で外の景色を眺めている写真だった。
「警備は手薄。屋敷の使用人も、食事と掃除の時間以外は寄り付かない」
純は、その女性が映っている写真を拡大する。
窓際に、一輪の花が置いてある。
それは、百合の花だった。
「わたしが、言葉だけの脅しをすると思ったの」
「…こんな女、どうなろうが知ったことじゃない」
大和は、苛立たしげに写真の女性を睨む。
「馬鹿で、愚かな女だ。俺の足を引っ張るくらいなら、あんたの好きにすればいい」
そう言いながらも、大和の表情から先ほどまでの余裕は消えている。
純は大和から手を離すと、感情のない目を向けた。
「あんたじゃわたしに敵わない。諦めなよ」
再び言われたその言葉に、大和は喉で嗤う。
「…諦めないさ。俺は、諦めが悪いんだ」
雰囲気の変わった大和に純が少し警戒した時、大和はポケットから何かを取り出した。
『リモコン?』
テレビなどに使うような、普通のリモコンである。
大和はにやりと笑うと、リモコンのスイッチを押した。
すると、部屋中のスピーカーが音を鳴らし、テレビがついた。
『な……』
スピーカーから聞こえるのは、雨の降る音。
テレビに流れている映像は、雨が降りしきる景色だった。
ザァザァと、純の耳に雨が降る音が聞こえる。
視界の隅で、雨が降る景色が見える。
『雨が、降ってる…』
大和はゆっくり立ち上がると、純に近付く。
純は無表情のまま、動かない。
その唇に触れようとするとその手を捻られ、肘と肩の骨がミシリと音がする。
「…再起不能にしたら、いろいろ差し支えるんじゃなかったのか?」
骨を折られそうになりながらも、口元に笑みを浮かべる。
純はどこを見ているか分からない瞳をしていたが、自分が大和の手を折ろうとしているのを見るとその手を離した。
大和はひとまず純の手が届かないところまで下がり、純の様子を観察する。
『どうやら、俺の考えは当たったみたいだな』
純に初めて接触した時、純は何故か抵抗をしてこなかった。
大の男を一瞬で倒すほど強いのに、何故抵抗せずネクタイを奪われるのを見逃したのか分からなかった。
優希雫石に近付いていたのを知っていたからというのは、理由として弱い。
あの時点では優希雫石に何もしていないし、大和から守ろうと思えば簡単に守れるだろう。
それなのに、抵抗しなかった。
二度目に接触した時は、大和を圧倒し、ネクタイを取り戻した。
それなら、一度目の時にちゃんと抵抗していればよかった話だ。
『しなかったんじゃなくて、できなかったんじゃないか』
その小さな疑問から、純とのやり取りと周囲の環境を思い出し、考えられるだけの理由を並べた。
一度目に接触した場所は、図書室の奥。
人はほとんどおらず、雨が降っていたため室内は少し暗かった。
大和が腕を掴んでも押し倒しても、全く抵抗してこなかった。
二度目に接触した場所は、使われていない空き部屋。
2人きりしかおらず、外は曇り空だったので部屋は明るかった。
ネクタイを人質にとっていたにも関わらず、力で圧倒してネクタイを取り戻した。
一度目の時に抵抗できなかった理由は、何か。
怪我をしているようには見えなかったし、もししていたとしても抵抗してきただろう。
人の目を気にしたというのも考えられたが、図書室では周りに誰もいなかった。
何か他に目的があったとしても、つぼみの証であるネクタイを取られるのはリスクが高い。
抵抗できなかった理由は、何だったのか。
『環境』
大和は可能性の高い答えとして、それを導き出していた。
その場の環境ゆえに、力づくで抵抗できなかったのではないかと考えた。
暗所恐怖症や閉所恐怖症、高所恐怖症というのはどれも当てはまらない。
対人恐怖症や男性恐怖症というのは、幼馴染が男という時点で考えづらい。
そこまで考えて、1つの可能性にたどり着いた。
『まさか、本当に雨が理由だったとはな…』
今日この部屋におびき寄せたのは、これを確かめるためだった。
しかしここまで用意しておいてなんだが、大和は確信を持っていたわけではない。
学園でさりげなく純についての情報収集をしていた時、教師から聞いた話があった。
「いつも最低限の出席しかしないが、毎年同じ時期になると出席率が下がる」
その時期というのが、大体6月から7月。
雨の多い、梅雨の時期だ。
図書室で会った日、外では雨が降っていた。
細い糸で繋がったその可能性に、賭けてみた。
その結果に満足し、大和は心からの笑みを浮かべた。




