117 交差する思い①
「あら、純様。お待ちしていましたよ」
メイドの怜は、部屋の主が姿を現したことに微笑む。
黒猫を抱いた少女は、不機嫌そうな面持ちをしている。
それはそうだろう。
隣にいる執事に、それこそ猫のように首根っこを掴まれているのだから。
どうやら散々逃げ回ったあげく、最後にシロに捕まったらしい。
「パーティー行きたくない…」
このお嬢様は、パーティー嫌いなのである。
「今日のパーティーは弥生様の名代なのですから、行かなければなりませんよ」
純もそれが分かっているから、散々逃げながらも最終的にはここにいるのだ。
純が本気で逃げれば、この屋敷の誰も捕まえることはできない。
「それに、今日のドレスはとても可愛らしいですよ」
メイドの怜は、クローゼットに掛けているワンピースを見てキラキラした笑顔で微笑む。
「いつもより一層可愛らしくて、純様に絶対にお似合いになりますよ」
「…もっと地味なやつがいい」
純は、淡い桃色のワンピースを見て顔を歪める。
純は、パーティーが嫌いである。
パーティーで人目を集めるのも嫌いである。
だからいつもできるだけ、人目につかないように地味な恰好をしていた。
それなのに今日のドレスは、いかにも年頃の少女が着るようなワンピースである。
「弥生様が、純様のためにお作りになったものですよ。それに、純様はお若いのですからこのくらい明るいお色の方がお似合いですよ」
怜は、楽しげに桃色のワンピースを純の体にあてる。
純が少し後ずさったのにもお構いなしにがしりと腕を掴むと、問答無用で着替えの部屋に連れて行く。
純は抵抗しても無駄なことを今までの経験から知っているので、大人しくされるがままになった。
怜は、純を着飾ることを楽しみにしている変わった人である。
昔からいろんな服を着せられたり髪型を変えられたりしており、純はだいぶ前に根負けして好きにさせている。
ワンピースを着て鏡の前に立つと、純は顔をしかめた。
全体的に花柄の刺繍が施されており、デコルテの部分は肌が透けている。
淡い桃色にふわりとしたワンピースの形は、いかにも女子という恰好である。
「せっかくですから、お化粧もいたしましょう」
怜が化粧道具を取り出したのを見て、純は逃げようとした。
しかし、腕をがっしりと掴まれる。
「せっかくですから」
「…やだ」
純は、化粧も嫌いである。
化粧をすると、ただでさえ煩わしいことがさらに増えるからだ。
「…純様がお化粧を嫌われる理由は、よく分かります」
純は、今年18歳になる。
さらりと絹のように流れる髪に、光に透けるような美しい色の瞳。
白くなめらかな肌に、成熟に向かう女性らしい体つき。
少女から女性への階段を上るように、純は美しくなっている。
しかし純は、自分の見た目に興味がない。
どちらかというと、厭うている。
異性からの好意を理解できない純は、異性を惹きつける自分の容姿が好きではないのだ。
『それでも…』
怜は、化粧道具の中から1つだけ取り出す。
「これだけは、つけておきましょう」
そう言って、純の唇に口紅をのせる。
「お化粧は、女性の戦闘服ですから」
「?」
怜の言っていることはよく分からないが、とりあえず口紅だけで許してくれるらしいので我慢した。
着替えの部屋から出ると、シロとクロが待っていた。
ふらふらと、体が自然とクロの方へ向かう。
しかしクロに手が届く前に、シロがひょいっとクロを抱きかかえる。
「ドレスに毛が付いてしまいます」
パーティーに行くのが嫌すぎてクロを抱っこして紛らわせようとしたのに、シロに止められてしまった。
仕方ないので、頭を撫でるだけで我慢する。
「行ってくるよ。クロ」
クロは主人の言葉を理解したかのように、にゃあと鳴いた。
「行ってらっしゃいませ」
「うん。行ってくる」
シロに見送られて、パーティー会場へ入る。
今日のパーティーは、高級ホテルの最上階で行われる大規模なパーティーである。
立食パーティーらしく、テーブルの上には飲み物や軽食が置かれている。
『パンがない…』
豪華なスウィーツやお酒はたくさんあるのに、パンが1つもない。
『帰ろうかな…』
パンを食べられるのがパーティーの唯一の楽しみと言ってもいいのに、パンがない。
もうこれは、帰ってもいいということだろう。
「帰るなよ」
まるで純の心を読んだかのように、翔平が現れる。
濃紺のスーツという、いつもと同じような落ち着いた格好だった。
翔平が明るい色を着ることはまずない。
年齢にしては落ち着いた性格と、冷静沈着な姿から色合いを抑えた服が多いのだ。
「お前がこういうパーティーに参加するのは珍しいな」
「おばあちゃんの名代」
「あぁ、なるほど」
翔平は、純の不機嫌の理由に納得する。
今日のパーティーの主催者を考えれば、おそらく招待したかったのは純の方だ。
しかし純はパーティーにはほとんど出ないので、弥生に招待を送ったうえで孫が名代で来るように手を回したのだろう。
『それでも、ちゃんと来るのは珍しいが…』
「お姉さま。こんばんは」
翔平の後ろから、ピンク色のふわふわしたワンピースを着た瑠璃が現れる。
「こんばんは。パーティーで会うのは久しぶりだね」
「今日は元気だから、お兄さまに連れてきてもらったの」
幼い少女らしい可愛らしいデザインのワンピースを着た瑠璃は、久しぶりに来たパーティーが楽しみなのか顔色も良い。
『………』
瑠璃と和やかに話している純の姿に、翔平はいつ口を開こうか迷っていた。
今日の純は、いつもより明るい雰囲気で可愛らしい。
ドレスの色合いのおかげか表情も明るく見え、口紅の色も魅力的だった。
「じゅ――」
「お姉さま。今日のドレス、とてもすてきだわ。とってもきれい」
「ありがとう」
「………」
妹に先を越されてしまった翔平は、褒めるタイミングを完全に失ってしまった。
瑠璃と純が楽しそうに話しているので、今はいいかと会場に視線を向けて列席者の顔ぶれを確認する。
今日はIT企業の御曹司の成人記念誕生日パーティーということで、列席者の年齢層も同年代が多い。
それは、この場がその御曹司の婚約者探しも兼ねているからである。
こういった社交界の場は、若者からすると結婚相手を探す絶好な機会なのである。
若者が集まればそれだけ出会いも生まれやすいので、それを狙って出席する人間も多い。
翔平はどちらかというとその親たちとのつながりを持つために来ているのだが、純はこのパーティーの目的で呼ばれたうちの1人であることは間違いない。
純はVERT社長の孫とはいえ、兄の湊が後継者と目されている。
弥生を味方につけたい人間は多いため、純を結婚相手として狙う家は多いのだ。
『こいつの場合、それだけじゃないがな』
いつもの面倒くさそうな表情を抑えて外向き用の表情をしている純は、元々の整った容姿を際立たせてかなり魅力的になっている。
元々、美少女のくくりに入るくらい整った容姿なのだ。
ドレスアップした姿が異性の目を集めるのは当たり前のことだった。
中等部の途中からやっと少しずつパーティーに出始めたくらいなので、社交界的にもあまり知られていない。
そのレア度に加え、今年はつぼみに選ばれている。
会場の若い男性の視線のほとんどは、純に向けられている。
その視線に当然気付いている純は、なんとか外向き用の表情は保っているものの、背中から帰りたいオーラが立ち上っている。
帰るなと釘を刺した翔平ではあるが、純が多くの男子の視線を集めているのは何となく気に食わなかった。
純が他の男子に心を寄せることはまずないし、無理に迫られても打ちのめすのは目に見えている。
そのため心配はいらないと分かっているはずなのだが、純を狙う男子たちのことが気になってしまうのだ。
「何で不機嫌なの」
純に心中を指摘され、自分の眉間にかなりシワが寄っていることに気付く。
すぐに、いつもの鉄仮面に戻した。
多くの人間の注目を集める場所で感情を表に出し過ぎるのは、良い策ではない。
「何でもない。考え事をしていただけだ」
「ふーん」
純の返事は、翔平のことを気にしているのかしていないのかよく分からない。
とにかく今ここでは、余計な感情は頭の隅に追いやることにした。
ワッと会場が沸くと、どうやらパーティーが始まったようだった。
今日の主役である御曹司とその親が一番前に出てきて、挨拶をしている。
「俺は挨拶回りをしてくる。お前も大変だろうが、耐えろよ」
「はいはい」
純はこの後にくるであろう自分の状況にすでに辟易としていた。
しかし祖母の面子を潰すわけにもいかないので、最低限のことはしなければいけない。
それでも気は乗らず、ため息ばかりが出る。
「お姉さま、大丈夫?」
そんな純の様子を心配したのか、瑠璃が不安げにこちらを覗き込んでくる。
その頭を撫でながら、少し微笑んだ。
「大丈夫。瑠璃は具合が悪くなったら、すぐに言うんだよ」
「うん」
「退屈かもしれないが、できるだけ俺の側にいてくれ。それが一番安全だからな」
今日は体調が良いとはいえ、この人の多さでは疲れも出るだろう。
体の弱い瑠璃にとってはあまり好ましい環境ではないのだが、せっかくの機会なので楽しめるだけ楽しんでほしい。
「じゃあまたな。純」
「はいはい」
主催者側の挨拶が終わって会場内の人が動き始めたので、2人は別れた。
翔平は、仕事関係の人脈を作るために。
純は、これから来るであろう現実から少しでも逃れるために。




