107 何のために①
雨が降っていた。
手を伸ばせば届きそうなのに、その瞳は自分を見ていない。
ここではない、どこかを見ている。
泣きそうなほどの恐怖で染まった瞳は、まるで幼い子供のようで。
触れたら、壊れてしまいそうで。
放っておいたら、そのまま壊れてしまいそうで。
いつか目の前から、ふっといなくなってしまいそうで。
だから、守らせてほしいと思った。
ナイフを振り上げた手。
ここではないどこかを見ているような、虚ろな瞳。
手を伸ばしても届かなかった、自分の手。
声の限り名前を呼んでも届かなかった、自分の声。
止められなかった、無力感。
このままではいけないと、思った。
だから、もっと力が欲しいと思った。
「ここ…か…?」
翔平は、廃墟のような木造の建物を前に立ち尽くした。
正面には看板らしきものが掛かっているが、ボロボロすぎて読めない。
風雨にさらされたままの門から見える敷地内は、草がボーボーに生えている。
ここから見ただけでは、人の住んでいる場所とは思えない。
『ここだよな…?』
予想とは違う景色を前にして、翔平は自分が持っている地図をもう一度確認した。
しかし何度見ても、目的の場所がここであることを示している。
翔平が来たのは、ある道場だった。
そこにはかなり強い伝説の武闘家がいるという、かなり怪しい情報を掴んでここまで来たのだ。
翔平はほとんどの人間に負けないくらい運動神経が良く、身体能力は人並みを外れている。
今までは一般的な武道の師範に教わったり自己流でやってきたが、純を守るためにさらなる力を得ようとするなら今までの方法では駄目だと思った。
翔平は、さらなる強さを求めたかった。
それで、確かな証拠もない幻のような人物を訪ねてここまで来たのである。
『純を守る…か』
それは、自分の中でも矛盾を感じる言葉だった。
純は翔平よりも身体能力に優れ、全てにおいて翔平よりも強い。
普通に考えるのなら、翔平が守る必要はない。
それでもあの雨の日の純を見て以来、純を守りたいという思いは変わらない。
ナイフを振り上げた純を止められなかった時から、今以上に力を得たいという思いは強い。
純に何かあった時に守れるように、さらに強くなりたかった。
『だが…』
翔平は、もう一度目の前の道場を見上げる。
どう見ても廃墟のようで、いつ倒壊してもおかしくないほどボロボロである。
望みは薄いかもしれないと思いながらも、敷地内に入ってみる。
建物の周りも手入れされることなく草木が生い茂っており、ここだけ小さな森のようだった。
人がいるかは分からないが、一応は呼び鈴を鳴らしてみようとボタンに手を伸ばす。
その時、背後からとてつもない殺気を感じた。
反射的に振り返りながら、本能的に急所を腕でガードする。
腕に思い衝撃が走ったと思った時には翔平の体は後ろに吹っ飛び、壁に打ち付けられるようにしてやっと止まった。
背中に強い痛みを感じながらも止まっていた息を無理やり吐き出すと、今度は頭上から気配を感じて地面を転がるようにしてギリギリでそれを回避する。
咳き込むように荒く息をついて、警戒しながら視線を上げる。
翔平の目の前に立っていたのは、1人の老人だった。
白髪に同じ色の髭をたくわえ、見た感じは70歳は超えているように見える。
身長は翔平の胸あたりまでしかなく、翔平を吹き飛ばしたとは思えないくらい体型は細く、体重も軽そうだった。
今の攻撃だけでも、自分より強いというのが分かった。
しかし老人に適わなかったという事実を受け止めるのに時間がかかり、そのまま固まってしまう。
そのうちに、老人はもう用がないかのように道場の中に入ろうとしていた。
翔平は慌てて、その背中に声をかける。
「ここの道場主の方ですか。俺は、龍谷翔平といいます。ぜひあなたに師事したくて来ました。お願いします」
頭を下げて、緊張しながら反応を待ってみる。
返事は来ないかと思ったが、老人は足を止めて少しだけ翔平に振り向いた。
「何のために」
翔平は頭を上げて、老人の視線を真っすぐに返した。
「守りたい人がいるからです」
その言葉を口にするのに、迷いはなかった。
しかし老人はそのまま何も言わず、沈黙が続く。
「帰りなさい」
長い沈黙の後にその一言だけを告げて再び歩き出した老人に、翔平は納得できずに言葉を向けた。
「何故ですか。何故、教えていただけないんですか」
「帰りなさい」
老人の返答は変わらず、振り返ることもない。
その背中で明らかに翔平を拒絶しており、取りつく島もなかった。
道場の中に入って姿を消してしまった老人に、翔平は拳を握りしめる。
老人が自分より強いのは明らかだった。
自分が今以上に強くなるためには、この人に師事するしかない。
翔平は、簡単に諦めるわけにはいかないのだ。
「…また、来ます」
翔平は痛む体を庇いつつ頭を下げ、帰った。
その姿を、老人は物陰から見送っていた。
「なかなかやるじゃないか」
そう言って、視線を後ろに向ける。
「お前の友人は」
視線を向けられた人物は、不機嫌そうに翔平の後ろ姿を見ている。
「儂の不意打ちを防いだのは、お前以来だね」
「わたしはすぐ反撃しました」
「あれは、儂が驚いて一瞬気が逸れたからだ」
「それでもそれが事実です」
無表情ながら明らかに不機嫌な目をしている少女に、老人はため息をついた。
「分かった分かった。だからそう不機嫌になるな」
翔平の姿が見えなくなると、純は老人を見下ろす。
「何でここバレてるんですか。一応、幻の道場でしょう」
「何でかの」
「どうせ、また自分から噂を流したんでしょう」
「さぁの」
「年とって頭ボケたんですか」
「失礼な。儂はまだボケてないわい」
「ボケた人間はみんなそう言うんです」
そのまま不機嫌そうに道場の奥に消えていった純の後ろ姿を見ながら、老人はさっきの少年の強い瞳を思い返した。
『守るため、か』
それはとても甘美で、普遍的で、自分勝手な理由だった。




