105 大切なもの④
「晴くんたち…大丈夫かしら」
家に帰る車の中、隣に座る雫石がポツリと呟く。
あの後あの場所に理事長が現れて、今回つぼみを狙った人物のことについて説明してくれた。
VERTの顧客の1人で、確かな証拠はなかったがつぼみを狙っているのは明らかだったらしい。
動かぬ証拠を掴むためにも、つぼみを餌としてばらまいたらしい。
その説明を聞いている間も、晴と皐月、凪月はどこかぼんやりとしていた。
目の前で起こったあの出来事を、消化できていないのは明らかだった。
その3人も、それぞれ迎えの車に乗って帰った。
「大丈夫だろ。護衛は増やしたし、これ以上狙われる可能性は低い」
「………」
雫石は、翔平を睨みつけて軽く頬を膨らませる。
雫石が本当は何を聞きたいのかは分かっているが、この車には翔平と雫石以外に運転手や護衛がいる。
信頼できるか分からない人間がいる空間で、あまり純の話はしたくない。
しかし雫石の何か言いたげな目と圧力に負けて、翔平はため息をついた。
「理解できないものに恐怖を抱くのは、人間として当然のことだろ。それから離れたいと思うことも、責められるものじゃない」
翔平と雫石は純の行動の理由を理解しようとしてきたから、側にいられた。
恐怖を抱くほどの純の行動を見ても、恐怖よりも純のことが心配だった。
全ては理解できなくても、理解したいという気持ちがあった。
恐怖を抱いても、側にいたいという気持ちの方が大きかった。
ただ、今日の純の怒りは翔平と雫石から見ても尋常じゃなかった。
「翔平くんは、今日みたいなの…見たことある?」
「…あぁ」
雫石は、あそこまで怒りをあらわにした純を初めて見たのだろう。
純は翔平や雫石が傷付けられても怒るが、今日の比ではない。
純が今日あそこまで怒りをあらわにしたのは、湊を傷付けられそうになったからだ。
純は、家族を一番大切にしている。
そして家族を傷付ける者への怒りは、その相手の命すら奪ってもいいと思うほどの怒りだ。
どろりとした闇に包まれた瞳に、全てを燃やし尽くす怒りの炎。
怒り以外の感情が欠落したようなのに、怒りが見えない無表情。
周りの情報を遮断し、全てが終わるまで止まらない。
翔平があの状態の純を見たのは、二度目だった。
初めて見たのは、初等部の頃だった。
その時は湊が誘拐されそうになって、抵抗した湊が少し傷を負った。
その瞬間に、純はその場にいた敵を全て一瞬で倒した。
そして最後に、怒りに身を任せたまま湊に傷を付けた人間に、今日のようにナイフを振り下ろした。
『…あの時も、止めたのは湊さんだった』
翔平は、ただ見ていることしかできなかった。
純が大の男たちを次々と倒していくのも、最後の1人にナイフを振りかざしたのも。
気付けば今日のように、湊が純の腕を掴んで止めていた。
『…俺はまた、何もできなかった』
翔平の声は、純に届かなかった。
何度も名前を呼んだのに、純には聞こえていなかった。
純を止められたのは、湊だった。
無力感が体を襲い、拳を握りしめる。
「…家族が大切だというのは、多くの人が持っている感情だと思うの」
雫石の静かな声に、翔平は拳に入れた力をゆっくりと解く。
「湊さんが言ったような過去があるのなら、なおさらだわ」
その先を促すように、視線を向ける。
「それでも…」
雫石は、哀しげな瞳を翔平に向ける。
「本当にそれだけが、理由なのかしら…」
それは、翔平も考えたことだった。
目の前で両親を亡くしたから、誰かが傷付くのを見たくない。
特に家族を傷付けられると、怒りをあらわにする。
純の怒りはそれだけの理由だけでは足りないような、全てを破壊しつくすかのような怒りだ。
翔平は、雨の日の純を思い出した。
『おいていかないで…とうさん、かあさん…』
あの雨の日の純は、両親を亡くした時の純だった。
大切な家族を失う恐怖で怯え、必死に心の均衡を保とうしていた。
純は、両親の死を乗り越えられていない。
今にも壊れそうなほどの傷を、心に負っている。
そして今日の、家族を傷付けようとするものへの計り知れない怒り。
『何か、あるのか…?』
純をあれだけの怒りに駆り立てる、何かが。
車の外に目を向けて、ふと雨の日の純の声が思い浮かぶ。
『あめが、あかい…』
その言葉の意味を、翔平は深く考えたことはなかった。
両親を失った場面を思い起こしているのだろうと、その程度しか考えなかった。
『雨が、赤い…』
空から降る雨が赤くなることは、通常あり得ない。
少なくとも、日本で赤い雨が降ったことはない。
両親を失った純の目に映った、赤い雨とは。
『まさか…』
翔平は、自分の思いついた考えにゾッとする。
確かな証はない。
しかしそう考えると、純の果てしない怒りに理由がつく気がする。
『両親を目の前で亡くしたから』
湊は、そう言っていた。
純が両親を亡くしていることは、周知の事実である。
しかしどうやって亡くしたのかは、誰も知らない。
両親が何故死んだのかなど気軽に聞けるものでもなく、誰も知らないまま、憶測だけが広まっていった。
『きっと、事故か病気だろう』
翔平も、そう思っていた。
しかし、ナイフを振り上げた純の姿が頭から離れない。
『雨が、赤い…』
今この場で雫石に意見を求めることもできず、翔平はひとまずその考えを自分の胸にしまった。
次の日、純はいつも通りつぼみの部屋に来た。
いつもと変わらない様子で、いつもの長椅子に寝そべる。
しかし、いつもだったら気軽に声をかける皐月と凪月は黙ったままだった。
晴も、純を見て声をかけようと口を開いても、何も言わないまま口をつぐんでしまう。
つぼみの部屋には、いつもと違う居心地の悪い雰囲気が流れている。
3人は、純とどうやって接したらよいのか分からないようだった。
それを見ていた翔平と雫石は、見ているだけで何もしなかった。
今までにも、純の側にいようとした人はいた。
しかしみんな、純の人並み外れた一面を見て恐れて離れていった。
純は、自分から離れていく人間を追いかけることはない。
翔平と雫石が間に入っても、意味のあったことは一度もない。
だから2人は、4人がまた友人の関係に戻ることを願うしかなかった。
それから、数日が経った。
つぼみの部屋には相変わらず、居心地の悪い雰囲気が漂っている。
純はいつも通りだが、晴たちに意識を向けることはない。
晴と皐月、凪月は何か言いたげに口を開くことはあるものの、何も言わないということを繰り返している。
それでも表向きは、みんなで協力して投書の解決をしたりと、つぼみの活動に支障はない。
「たまには、みんなでティールームでお茶をするのはどうかしら」
その日の活動にひと段落ついて、休憩しようとしていた時だった。
ここ最近の重い空気に耐えかねたのか、雫石は明るく提案する。
「ティールームで、新作のお菓子が出たらしいの。みんなで食べに行かない?」
「たまにはそういうのも、いいかもな」
翔平は雫石の気持ちが痛いほど分かるので、気分転換にもいいかと提案に乗ることにした。
「晴くんたちは、どうかしら?」
雫石は少し勇気づけられたように、晴たちにも尋ねる。
晴は皐月と凪月と顔を見合わせると、3人で合わせたように頷く。
「うん。いいよ」
「「たまにはそういうのもいいかもねー」」
最後に、雫石は純に期待を乗せた目を向ける。
「いいよ」
純が頷くと、雫石より晴たちがほっと安心したようだった。
「じゃあ、さっそく行きましょう」
雫石が楽しそうにしているのを見て、晴たちも表情が和らいでいる。
ここ数日の空気の重い原因は分かっていても、簡単にどうかなる問題ではない。
雫石の心遣いは、ありがたいものだった。
ティールームに行くと、生徒の姿はあまりなかった。
もう夕方なので、空いている時間帯なのだろう。
ティールームは2階建てで、中央が吹き抜けになっている。
食堂とは違って軽食やスウィーツ、飲み物を中心に提供している。
授業終わりに学友と話したり休憩をする、学園の生徒にとっては憩いの場所である。
「新作のお菓子って、どんなの?」
「なんかねー、フランスのパティシエが作った新しいお菓子らしいよ」
「フランスでは、けっこう流行ってるみたい」
「相変わらず、情報通だな」
皐月と凪月が仕入れてくる情報は、いつも役に立つ。
翔平は、新作の菓子が出たことすら知らなかった。
「女の子たちが、けっこう喋ってるからね」
「すごいおいしいらしいよ」
新作の菓子がどんなものなのかと想像して話しながら、ティールームの中を歩く。
他愛ない話をしている間は、ここ最近の重たい雰囲気もどこかへいっている気がする。
しかし5人とは少し遅れて歩いている純が気になり、翔平は後ろを振り返る。
純はあの日以来いつも通りだが、自分から晴たちには近づかないようにしているように見える。
特に話しかけることもなく、つぼみの部屋でも距離をとっている。
純としては、晴たちが離れようがどうでもいいのだろう。
それでも必要以上に近付かないのは、純の優しさな気がした。
『俺の思い違いかもしれないが…』
純は何かに気付いたように、ふっと上の方へ意識を向ける。
しかしそれは一瞬で、何事もなかったように歩いている。
『?』
何かあるのかと翔平は上の方へ視線を向ける。
ここは1階の吹き抜けの場所なので、ちょうど頭上には2階席の手すりが見える。
そこから、大きな鉢植えを抱えた両腕が見える。
そのまま下に落とせば、ちょうど純の頭上に落ちるだろう。
『またか』
翔平は、驚かなかった。
つぼみが覚えのない恨みを買うのも、こうやって学園内で狙われるのも、日常茶飯事である。
純はすでに頭上の人物に気付いているし、鉢植えが落ちてきたとしても避けるのはたやすい。
だから翔平は、頭上の人物が鉢植えを階下に放り投げても、純の心配はしなかった。
しかし純は、翔平の方を見て驚いたように目を見開いた。
鉢植えが落ちて来るのにも構わず、翔平の方へ手を伸ばす。
ガシャンッ!
大きな音は、ティールームに悲鳴と共に鳴り響いた。




